「あれ……」
なんか今日、雰囲気違くない?と喉のあたりまで出かかって、言葉を飲み込んだ。
今のご時世、異性の容姿について迂闊に口にすれば、セクハラと言われかねない。基本、自然体で生きているオレにとっては随分と生きづらい世の中だ。
「なに?」
「あ……いや、別に」
「あっそ」
カナは口籠るオレに対して随分とあっさりした態度だ。それは決して残念がるべきことではなく、長く付き合いのある気の知れた友人だからこそのものだ。
しかし、何故か今日は物足りない気がしてしまう。
今日はお互い休日だった。共通の後輩が来月結婚式をあげるので、その結婚祝いを買いに二人で街をふらついていた。
どこかぼんやりとしているのに、透き通った感じのする空の水色と、柔らかく彼女の髪に透けていく陽の光。歩く視界の先には、淡い桃色の桜の花をたっぷりと空に向かって抱えた木々が、絶えず微かに揺れている。
どこからか聞こえて来る鳥の囀りも穏やかで、まさに「春」という言葉がぴったりの景色だ。
少しの角も、僅かな毒気もない平和な昼下がり。昨日までは割とハードな任務についていたから、緊迫感に縛られていた身体がゆっくりと伸びていくような心地がした。退屈にすら思えてしまう。
そして、隣には清潔感のある、春に相応しい淡く明るい服を見に纏ったカナがいる。少し髪色も明るくしたのか、日差しの下で髪はキラキラと輝き、絹糸のようにしなやかになびいていた。
綺麗だなぁ、と思った。そして、「あぁ、春だなぁ」とそのままのことを思った。
この前会った時はまだ寒くて、もこもこに着込んでいたから(それはそれで可愛らしかったが)、随分と軽やかな春めかしいカナの姿を見て、その差にドキッとしてしまう。何回も友人としてこの季節の彼女を見てきたけれど、今年はどことなく違って見えた。
この麗かな陽気につられて想いを伝えてしまおうかな、と思ってしまう程だった。
そのくらい、オレはカナのことがずっと前から好きだったし、それゆえにこの長年築いてきた関係性を壊すのが怖くて、行動に移せずにいた。今までに何度も迷い、悩み、踏みとどまったことか。
同僚達と飲んだ帰り道、たまたま二人きりになった時や任務終わりに一杯ひっかけた後。なんとなくいい雰囲気になったものの、何度自身の理性できつくブレーキをかけたかはわからない。
もういい大人なんだから、「酔った勢い」とか「その場の空気に流されて」とか「ちょっとした間違い」だとか、腐るほど言い訳は思いつくのに、彼女を傷つけてしまったら、彼女に悲しい顔をさせてしまったら──そんなこと想像する度、絶対にその言葉を口にしたくない自分がいることに気づいて、結局手も足も出ないのだ。
「なんか目が泳いでるけど」
「え、そう?」
「やっぱり本当は何か言いたいことあるんでしょ」
カナはオレより一歩前に出て、じぃっとオレの目の奥を見つめる。オレの心の動揺を見逃してたまるか、そんなところだろうか。
「わかった、カカシったら財布忘れたんでしょ」
「やだなぁ、オレがそんなドシするわけないでしょ」
「えぇ?じゃあなんでそんなに誤魔化したそうにしてるのよ」
「そりゃあそんなに熱心に見つめられちゃあ……照れるじゃないの」
オレもオレで心の内を読まれては困ると、わざとふざけて彼女の意識を逸らそうとする。
すると、「何バカみたいなこと言ってんのよ」とカナが顔をパッと背けた。その仕草からはなんとなく恥じらいが感じられた。
これは何やら様子がおかしいぞ、と驚きながら桜の方を向いてしまった彼女の頬のあたりを見ていると、瞬間、少し強めに風が通りを吹き抜いた。そして、すぐに止んだ。
それまでたっぷりと蓄えられていた花びら達が、予期せぬ刺激に一斉にしんとした空中へ舞い、身を翻しながらゆっくりと降りてくる。優美なその光景に、オレもカナも感嘆の声を漏らすと、しばらくうっとりとその場で見惚れた。
これぞ春。まごうことなきのどかな春容に目を細めていると、ふとカナがこちらを振り返った。
とびきりの笑顔で、「今の、めっちゃ綺麗だったね!」とはしゃぐ姿はとても純粋で、無邪気で、心の底から愛おしく思った。
たった数秒のことだったが、その一瞬のうちに、これから先もこの笑顔を守ってやれるだろうかと随分先のことまで思い浮かべた。
「あ、」
カナをみていると、額上の髪の毛に何かくっついている。注視すると、先程の花びらのようだった。
「ん?どうしたの?」
「花びらがついてる。ちょっとじっとしててね」
花びらは彼女の柔らかな髪に巻き込まれるように埋もれていたので、少しだけ表面を分けるようにして、慎重に指を運ぶ。
もちろん変なことをするつもりはないのだけれど、カナは緊張したように全身をこわばらせて、オレの指先に視線を集中している。寄り目気味の上目遣いになっていて、ちょっとだけ面白くて可愛らしい。
「はい、取れたよ」
つまみとった美しい薄桃色を彼女へ見せたあと、パッと指をはなす。そのあと、少しほつれてしまった髪をそっと撫でて直してやると、カナはいつのまにか頬のあたりをほんのり染めていた。
オレは、これはさりげなくいいことをしたんじゃないかと頬が緩んだ。
自惚れかもしれないが、このカナの様子ならオレから距離を縮めようとしても、彼女を困らせることはないんじゃないかと感じられた。
「あれ、もしかしてカナ、なんか照れてない?」
「そんな、照れてないよ。びっくりしただけ」
そう否定するカナは、そっぽを向いてしまう。さらりと流れる髪の隙間から覗く耳は、真っ赤だった。
「その割には耳が赤いみたいだけど」
「なっ……」
茶化してみると、あれあれ?この感じ。思った通りのカナの反応にちょっと驚きながらも、自然とマスクの下では口元が綻ぶ。
「へぇ、そういうこと」
「……なにが」
「べつに〜」
意地悪く笑いながら言うと、カナはムッとした表情で「もう!」とオレを見上げた。表面上は怒っているようにも見えたが、瞳の奥にはやっぱり恥じらいの色が見え隠れしていて、ぎこちなくはにかんでいるようにも見えた。任務で鍛え上げたオレの観察眼は、彼女の矛盾した態度を見逃すわけがない。
一人、心の中で静かに決心をして、気持ちを覆い隠していたベールを取り払う。今まで何度も踏み出せなかったあと一歩を、踏み出すのはきっと今日だ。
「ね、カナ」
オレは笑顔で呼びかける。
「もう少し二人でゆっくりしていかない?もちろん結婚祝いは買いに行くけど、こんなに桜も綺麗だし、屋台も出てるみたいだしさ」
すると、カナは表情を緩め、静かに首を縦にふった。
「よし、じゃあいきますか」
オレ達はゆっくりと歩幅を合わせ、屋台のある方へと向かう。
通りは大盛況で、歩けば人と肩がぶつかり、前に進むには左右に身体をかわしながら歩かねばならない。
そんな人混みの中、カナの体は随分と小さく見えて、オレは途中、彼女が流されてしまわぬように、さりげなく彼女の右手を握った。同じ里の忍として出会ってどれほどの年月が経っているか定かではないが、カナの手を握ったのはこれが初めてだった。解かれないか内心ひやひやしていたが、彼女は優しく握り返してくれた。
そして緊張からか、オレの心臓はこんなにもドクドクと血液を送り出すことが出来たのかと驚いてしまうくらいに暴れていた。
薄くて、小さくて、瑞々しい手。こんなにもか弱い手で、オレと同じように任務をこなしてきたのかと思うと、心がキュッと詰まるような思いがした。
そして、ただ手を握っただけなのに、彼女の温もりで心は満たされ、この春の陽射しのようにぽかぽかとあたたかくなっていった。
好きな人と手を繋ぐということは、どうしてこんなにも幸せを感じさせてくれるのだろうか。周りに仲間はどれだけいても、心のどこかでずっと孤独に浸っていた自分の心が、解きほぐれていくような心地だった。
人混みを抜けても、彼女の手は繋がれていた。
オレは少しほっとしていた。ほんの小さな勇気を出したことで、長い間二人の間で確実なものとなっていた関係性を、良い意味で壊していけそうな兆しが見えたからだ。
ここから一気に距離を詰めるなんて大胆なことはオレには出来そうにないが、少しずつ、カナの様子を見ながら縮めていきたいと思った。
「ほーんと、春はいいよねぇ」
「本当、ぽかぽかしてきもちいいね」
気づけば、いつの間にか過剰なドキドキもおさまり、オレ達はいつも通りに会話が出来るようになっていた。こうして手を繋ぎながら言葉を交わすなんて、今の今まで無理と思っていたのに、とても自然なことに思えた。
こうなると途端に自分の気持ちにまで素直になって、今すぐにでもカナへ想いを伝えてしまいたくなる。しかし、ここはグッと我慢だ。
想いを伝えるにはもう少しカナとの心の距離を縮め、しかるべき手順を踏み、それから適切な場を用意して誰よりも大切な存在であるということをしっかり伝えよう──優しくオレへ微笑みかけるその表情を見つめながら、ぼんやりそう思った。
「季節がずっと春ならいいのになぁ」
「そう?暑いけど夏はスイカ割りも花火も楽しいし、秋は食べ物が美味しい上に紅葉も綺麗だし。冬はあったかい室内で積もる雪を眺めながら、みんなで鍋を囲むのもなかなかだよ」
「あはは、それ去年全部やったね。楽しかったなぁ」
「あぁ。今年もやるか」
「出来るかなぁ。皆なんだかんだ忙しそうだし」
「ま、誰もいなくてもオレが付き合ってやるよ」
「えぇー?本当かなぁ」
「本当。オレが嘘ついたことある?」
「しょっちゅうあるある」
「え……」
今のは少々キザだったかと、ぎくりとしながらカナを見る。すると、体ごとこちらを向いているカナは、目元は無表情、口元は笑いを堪えるようなチグハグな顔をしていて、すぐにふざけているのだとわかった。
「……いまオレにちょっと意地悪したでしょ」
「ふふ、どうかなぁ」
「もう。すぐそうやって……」
ここで、オレは自分の左腕ちょっとした違和感に気づく。見ると、彼女の左手がオレの腕に添えられていた。
カナは花が咲いたように微笑んでいて、またオレの心は春そのものとなった。
「……ま、いっか」
「冗談だって」
「あ、やっぱり?」
オレは戯けてみせる。
「まぁカカシがそう言うなら、今年は色々と付き合ってもらっちゃおうかな」
「あぁ」
今年だけじゃなくて、その先もずっと──なんて思って、やっぱり今はやめておこうと飲み込んだ。その代わり、ほんの少しだけ彼女の手を握る力を強めた。
オレ達の間には絶えず、四月の温かい風が心地よく流れていく。
蒸し暑くてたまらなくなる頃にはきっと、こんな風に身を寄せ合って歩く事なんて、当然のことになっているに違いない。
(春容)
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