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「#エロ」のBL小説を読む
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「あら、来ないと思ってたけど案外乗り気?」
「そんなことあるわけないでしょ、カカシくんが断るタイミングを作らせなかったんじゃない」

花火大会当日、結局私はカカシくんとの待ち合わせ場所に来てしまっていた。
次会ったら断ろう、チケットを返そうなんて思っている間に、結局会えず仕舞いで当日になってしまったのだ。とても蒸し暑い宵の口で、もう十九時を過ぎているというのに、空はまだ端の方が淡いオレンジ色をしていて、夜になりきれていなかった。待ち合わせ場所に辿り着くまでに肌はうっすらと汗ばみ、あまり爽やかな気分ではなかった。
ただでさえカカシくんと二人きりで花火を見ることになってしまった上にこれだから、私は緊張と不快さで殆どうんざりしていた。

私は今日の日までに、何とかして断ろうとした。アカデミーの辺りをウロウロしてカカシくんを探したり、昔の仲間を見つけてはその日カカシくんがどこにいるかを尋ねて、行ける範囲ならその場所へ行ってみたりもした。しかしこの二週間、どんなに探しても全く会える事は無かった。
弟に「カカシくんに会うなら花火大会のチケットを返してほしい」と言伝をお願いもした。しかし、そういう時に限って「カカシさんが任務に出る事になって会えなくなった」だの、「言うの忘れたわ」だので、せっかくのチャンスを台無しにされてしまったのだった。
お願いをする立場であるのに理不尽ながらも私はめちゃくちゃ弟に文句を言ったが、全然響いていないようで、なんとなくこれは「カカシくんが裏で引っ張っていそうだな」と怪しい匂いを嗅ぎ取った。

「そんな、人聞きの悪い」

彼はとぼけた顔で言った。あまりにも演技が上手いもんだから、私は半ば呆れて小さくため息をついた。
カカシくんは気づいているはずなのに、鈍いフリをして「さ、行こうか」と人の波が向かう先へと視線を向けた。気怠そうに両手をポッケへ突っ込んで、背筋は緩く猫背のままだった。

これを型に当てはめて考えるのなら、きっとデートと言うのだろう。
年頃の男女が二人きり、ましてやチケット席で花火鑑賞なんて常識的に考えたら、少しは気があるから誘ったと考えてもいいはずだ。
けれど、彼の態度を見ていると、そう考えることは間違っているような気がした。
一体何を考えているのだろうか──彼のやる気も緊張もなさそうな立ち姿を見ながら、ぐるぐると頭の中で渦を作った。
私とカカシくんは横並びになると、ゆっくりと人の流れに身をまかせながら進んでいく。

「久しぶりの浴衣姿、見たかったんだけどなぁ」

少しニヤついたような表情で彼がこちらを見る。

「着て来るわけないでしょ」

デートじゃないんだから──彼の顔をじっと見ながらそう出かかって、ゴクリと飲み込んだ。遠い昔に、デートかと聞かれて何も答えなかったカカシくんのあの姿がパッと浮かんでのことだった。
あの時彼が否定も肯定もしなかったのは、今思えば私の気持ちを知っての事だったのではないかと思う。そうであれば、私が今否定してしまえばあの時の彼の優しさを無碍にしてしまうような気がした。すごく前のことなのに、何故だかそんな気になってしまった。
私はそれ以上は何も言わないで彼から顔を背け、歩きながら浴衣姿の女の子達の後ろ姿を視線で追った。
ふと、前方を歩いている女の子三人組の楽しげな後ろ姿が目を引いた。
三人はそれぞれ白地の浴衣にピンク、水色地に紫色、紺地に赤の綺麗なオーガンジーの兵児帯をつけていて、それが薄闇の中で金魚の尾鰭のようにゆらゆらと揺れていた。自分の歳と近い女の子達の華やかで綺麗な姿を見て、ほんの少しだけ私も着てくれば良かったかなぁと悔やまれた。
そのまま私達はあまり会話もないまま、会場のメイン通りへと入る。

メイン通りはもう既にとても賑やかで、歩けば人と肩がぶつかりそうになる程だった。左右に身体をかわしながらのろのろとしたスピードで前進していく。カカシくんと離れないように歩くのは至難の技だった。
いろんな店の前を通ればソースの匂いやカステラ焼きの甘い香り、それから発電機の轟音と大人になっても慣れない排気ガスの香りが緩やかに鼻腔に侵入してくる。そして、そのせいであの日の思い出が頭の端っこの方からもくもくと湧き出てきて、私の頭の中を覆い始めた。あまりの懐かしさに、感情が殺されそうになる。私はただただ心を無にして歩いた。

彼と二人でいるのは気まずい以上の気持ちはなかった。それならほんの少しだけ歩み寄って、懐かしい幼なじみ同士、思い出話に花を咲かせて盛り上がればいいと思うだろう。久しぶりの再会後の正解は多分これに違いない。
しかし、私はそう簡単には久しぶりの彼の登場を受け入れることは出来なかった。

父を失った後、いつしか初恋の相手だった彼も目の前から消え、それから忍も辞めて自分の大切なものをほとんど失い、私の心は一時期地の底よりも深いところへ沈んで行った。
毎日悲しい思い出にとりつかれて、母や弟がいない時は必ずと言っていいほど自室に篭って泣いていた。枕を濡らさない日なんて一日もなかった。
しかしそんなとある日、少しの涙も見せず店に立って私達を懸命に養い、育てている母の後ろ姿を見て、私はそれまでの自分を改めようと誓った。過去から目を背け、目の前の事だけに集中する事を誓った。過去を受け入れることは、まだ出来なかった。
それからは、いかに元気に振る舞い、父が愛した店を繁盛させるかを第一に考えてきた。それが、愛する人を失い、誰よりも深い悲しみの底へと突き落とされた母へしてやれる唯一の孝行だと思ったからだった。
この店さえ無ければ、と恨みがましく思ったことも何度もあった。けれど、私達の大切な父の忘形見と思うと、憎んでいられる時間はそう長くなかった。
家族と店のために一生懸命に生きる毎日は、私にとって平穏の象徴そのものだった。
目の前のことだけに没入し、過去の悲しみに濡れる心なんてなるべく見ないようにしてただただ生きる。それはなかなかに難しいことだったが、感情を波立たせないでいられれば、生きるのが少しばかり楽になった。悲しい過去なんてない、普通の人間でいられるような気がしていた。

だから、過去を思い出させる何かというのは、私にとって直視できない本当に辛くて辛くて仕方ないものだった。
未だに父を失った夜に似た空気の冷たい夜が来れば、あの日の胸が張り裂けそうな感覚が鮮明に蘇るし、大切な人を失った事はいつまでも過去になんて出来なかった。遺された者達は大切な人を失って、そのままずっと失い続けているのだ。
そういう未だに失い続けている悲しみを、彼はギリギリと私の心に刻み込んでくるのだった。別に彼が何かをしているわけでもないのに、むしろ戻ってきて良かったねと微笑むべきであるのに、カカシくんを見ると、そういう気持ちになってしまうのだ。
それはきっと、カカシくんが私の中で時が止まった存在だったからだろう。私の中でカカシくんは失い続けている父と一緒だった。
だから、彼だけが戻ってきた事によって、その他のものを失った事実がより濃縮されて私の心へ黒い影を落としている──そんな気がした。

事実、彼は幼い頃よりも表情にきちんと人間の温かみがあって、クールだったのが飄々とした雰囲気に変わって、身長もうんと大きくなって、声も低くなって艶も出て、すっかり普通の大人の男になっていた。最後に見た時のように、目を離したらどこかへ消えてしまいそうな所在無さはもう無い。
時を経る中で、おそらくそうであろう本来の彼を取り戻したというのに、私はそれを喜べない。自分だけが長い月日の中で時を止めて、未だに大きな悲しみを抱えたまま過ごしていた事を、彼の存在に自覚させられているようで耐えられなかった。

「そんなツンツンしないでよ、暑くて機嫌が悪いなら何か冷たい飲み物でも飲むか?」
「いい、大丈夫」

私はぶっきらぼうにしか返事を出来なかった。
彼はこんなにも優しくて、目の前の私を見てくれているのに、私はそれが出来ない。どうしても過去の象徴である彼を見ていると、今の彼の向こうにいる幼い頃の彼と、あの闇の沼にどっぷりと塗られた彼の二人を見てしまう自分がいた。

昔からつんけんする私の扱いに慣れている彼は、決して私とは対峙せずに「そーお?」と穏やかに受け流す。そして、あっさりとした雰囲気で私から前方へと顔の向きを変えた。
けれど、こうして二人で賑やかな人々の中を歩いていると、全く楽しくない訳ではない。
きゃっきゃとはしゃいでいる子供達、綺麗な衣装の女の子達、手を繋いで甘く視線を絡ませながら歩くカップル、それからお酒を片手にゲラゲラと大きな口で笑うおじさん達。下手したら、子供なんかよりもよっぽどはしゃいでいるんじゃないかと思う。
そんな浮かれた雰囲気に囲まれて、私の心にも隙間からわずかに陽気さが流れ込んできて、ほんの少しだけ心が浮き立っていた。
私の心は、楽しい気持ちと、悲しい気持ちと、それから初恋の人とこうして再び夏祭りに来ているのに、素直になれない不器用な自分を情けなく思う気持ちで充満していた。まるで、空気と綿菓子をめいっぱいつめた綿あめの袋のようにパンパンだった。ちょっと何かを違えてしまえば、破裂してしまいそうなくらい。乙女心はいつだって複雑だ。

「すごい人だねぇ。チケットを貰っておいてよかった」
「わざわざ買ったの?」

あまり不自然にならないように、彼の独り言かわからないその言葉に質問を投げる。

「希望者向けに配布されたんだ。今回、木ノ葉の忍が会場周りの警備をすることになってね。優待チケットっていうの?」
「へぇ、それでカカシくんは貰いにいったの?」
「そうだよ」

その返事に、私はギョッとした。まさか彼がわざわざ貰うなんて。積極性のある彼の姿を想像することが出来なかった。
思わず言葉を失い、そのまま彼をまじまじと見つめていると、「その顔、まさかオレがわざわざ貰うなんてって顔してるな?」なんて言ってにこにこしていた。
それに対して私は、「別に、そんなことないけど」と無愛想に答えた。カカシくんの余裕がちょっぴり憎たらしかった。

「カカシくん、花火好きだったもんね」

私はあの日の彼を静かに思い出す。淡く揺れる光たちに縁取られた輪郭がとても美しくて、いつまでも眺めていたかった、あの横顔を。きっと彼は花火が好きなんだろうと思った。だって、とてもキラキラしていたのだから。言われなくても、あの頃、私にはわかっていた。

「あぁ、そうだね」

カカシくんは遠くを見ながら言った。それが、私には何かを思い出しているように見えた。
彼の視線の先には、まだ端っこにほんの少しだけオレンジ色が残った藍色の空があって、それが私を余計に懐かしい気持ちにさせた。

「好きだから行こうかなぁと思って、いざチケットを手にしたけど、残念ながら見に行く相手もいなくてね。それなら、彼氏ももういないって言ってたし、カナちゃんならどうかなぁと思って」
「そんな哀しい誘われ方して女が喜ぶと思う?」

ムッとして、私は左の眉をぐいっと持ち上げた。

「そう怒らないでよ。寂しい者同士、今日くらいは楽しく過ごそうじゃないの」
「同士って、私はこれでも幸せなんだから」

そこまで言って、途端に虚しくなる。本当に幸せなのか自信がなくなってしまった。
こうしてただ生きていることが幸せなのだろうか。それとも、何か目標や生きがいに向かって頑張って生きていくことが幸せなのだろうか。
もし後者だとしたら、私は今、きっと幸せの領域に足の小指すら踏み込めていない。
親孝行として頑張ってきた店の切り盛りも、もはや弟の役目に移りつつある。そのうち店の看板は私ではなく、あきらとみやびちゃんが背負っていく事になるだろう。そうしたら私には、何の目標も、生きがいも無くなる。そんな私が、果たして幸せなのだろうか。
きっと私は今も、ずっと昔にあった幸せの面影を探しながら、多分幸せだと思い込んでいるだけに違いない。目の前のことだけに集中している筈なのに、目の前にあるものだけじゃ寂しい心を埋めきれなくて、地面に膝をついてまで過去の幸福のカケラをかき集めようと躍起になっている。
だから思い出を過去と受け止められないし、いつまでもしがみついて離れられない。

「そりゃあ何より」

そう言った彼の表情は、幼い頃に優しく話しかけてくれたカカシくんの表情と全く同じで、私は胸の奥が締め付けられるような感覚を覚えた。

突然、空へ花火が上がった。
随分と小ぶりなため、おそらく開始前の号砲だろう。

「お、そろそろ開始時刻かな」

ワクワクした声でカカシくんが言った。

「やだ、食べ物とか何も買ってないじゃない」
「お前、その年でも色気より食い気なの?」
「うるさいわねぇ、今日は昼から何も食べてないからお腹空いてるの」

正確には、「食べてないから」ではなく、昼ごはんなんて喉を通らなかっただけなのだけれど。

「はいはい。優待席だから、食べ物は何かしらもらえるはずだよ。どうしても食べたいものだけ買っていこうか」

焦る様子もない余裕のカカシくんに、私の胸はチクチクと痛んで自分らしくいられない。自分へのイライラを胸の内でそっと噛み殺すと、こくりと頷いて返事をした。
私達は互いの間に少しの距離を保ちながら、会場の中心へと向かう。


優待席はとても快適だった。
花火が打ち上げられる場所の正面に位置していて、視界を遮るものが一切ないポカンと開けた場所に、サイドテーブルがついた椅子がずらりと並べられていた。特等席という言葉がよく似合う場所だった。
既にほとんどの人が席についていて、楽しそうに話しながら酒をあおったり、何かを食べたりしている。
こんなところへ来たのは初めてだったので、私は「わぁ」と声を漏らした。隣でカカシくんがクスクスと笑う声が聞こえた気がしたが、振り向いたら感激していることを認めたことになりそうだったので、気づかないフリをした。
受付にいくと、カカシくんの言った通り、チケットを提示するのと引き換えに、花火を見るのには十分過ぎるほどの飲み物と食べ物をもらった。
関係者は日頃、こんな得をしているのかと私は少々羨ましい気持ちになる。
たまたま受付をやっているうちの一人が店の常連のおじさんだったので、こんなところで会うなんて珍しいと大層はしゃいでたくさんおまけのお菓子をくれた。

「優待席って、こんな好待遇なのね。ずるい」

自分達の席を探して歩いている途中、私は言った。

「そりゃ優待席だからねぇ。来年もうちが警備をやってれば、またとってあげるよ」

またとってあげるよ──その、何気なく彼が言ってみせた言葉を、私は心の中で何度も反芻した。深い意味なんて何も無さそうな、滑らかな口の動きで放ったその言葉を。
きっと彼にとっては、いつかの日に射的で景品をとって、皆に戦利品を配った時のことのように何でもないことなのだろう。
それじゃあ果たして、私たちの間に「また」なんてことはあるのだろうか──ついつい無意味な事を考えて、すぐにかき消した。
頭ではわかっているのに、心の本当の端っこの薄暗い埃をかぶった隅の辺りに、なんとなく期待してしまう自分が小さく体育座りをしてもじもじしていた。淡い恋心を大切に抱えたままで。
私は自分の気持ちを見なかった事にして、「どうも」とだけ答えた。我ながら、とてもさらりと言えたと思った。


そのあと席につき、二人でテンションの低い乾杯をしてまったりと飲食をしていると、しばらくしてスピーカーから花火大会の開始が告げられた。今まで会場内に流れるアナウンスなんてはっきり聞いたことがなかったけれど、ここでは進行役のウグイス嬢の息遣いまではっきりと聞こえそうなくらいよく聞こえた。
それと同時に、すっかり夜の色になった空に紅い大輪の花がパッと開く。あちらこちらから歓声と拍手が沸き起こって、私もお酒をあおる手を止め拍手をした。カカシくんも同じだった。
私とカカシくんは、優待席の真ん中あたりのブロックで、横並びの席に座っていた。本当に花火が真正面に上がる位置で、ちょっぴり低くなっていたテンションが少しばかり上がった。

大きな音であたり一帯の空気を振動させながら、真っ暗な夜空に色とりどりの花がぱっと咲いては消えていく。その度に心臓もズンと重たく響いた。
楽しいはずなのに、私の心は花火が消えた後の煙達のようにどこかもくもくと煙っていた。花火を見ているのに、頭の中では昔のカカシくんのあの横顔のことをずっと考えていた。

スターマインに差し掛かった時、ふと、大人になった彼がどんな顔で花火を見ているのか気になって、左隣をこっそり盗み見た。なんとなくだった。
すると、そこにはあの頃とそっくりなカカシくんがうっとりと空を見上げている横顔があった。
打ち上がった花火にすっかり見とれ、色とりどりの淡い光が彼の真っ黒な瞳の中へ映り込んでキラキラと輝いていた。その姿は、とても美しくて、綺麗という言葉以外何も浮かばなかった。私の世界は彼だけになり、花火の音もずっと遠くへ消えていってしまう。他のものは目に入らない。
カカシくんが瞬きをすれば、私の目にはそれがスローモーションのようにゆっくりとした、とても婉美な動作に映った。
私は自覚した。やっぱり、私は彼のことがまだ好きなのだ、と。そう気づいた瞬間、私はもう泣きそうになった。いろんな感情が溢れてきて、気が変になりそうだった。
様子のおかしい私に気づいたのか、カカシくんが少しだけ首を動かしてこちらを向いた。私は急いで顔をぐいっと空に向け、花火を見上げる。
カカシくんを見ていたことを悟られないように、それから泣きそうなのがバレないように。それから、私の涙が溢れてこないように。



「それにしても、大迫力だったなぁ〜。心臓にドーンってこう響く感じ、久しぶりだったねぇ」
「うん、綺麗だったね。こんないい席で見たこと一回もなかったから本当よかったよ、ありがとう」

花火が全て打ち上がり終わると、会場は帰る人達の波でもみくちゃになっていた。私もカカシくんもそれほど人混みは得意ではないので、ある程度人が捌けるまでのんびりしようと椅子に座って談笑して待機する。押し寄せていた感情の波も、カカシくんをなるべく見ないようにして綺麗な花火に集中していたらすっかり落ち着いて、こうして普通に話せるまでになっていた。
お菓子をつまみながら、薄暗い会場内をおしくらまんじゅうしながら進んでいく人達を目で追う。子供の頃は、あぁいう人混みも小さな身体でスルスルすり抜けたなぁと、急に老けた気分になった。

「どういたしまして」

カカシくんはボリボリと煎餅をかじりながら返した。

「帰りはもう少し屋台でも見て帰るか?」
「うーん……人も多いし、今日はもう帰ろうかな」

私は作り笑いを浮かべる。ずっと胸の奥の方に埋めて閉じ込めておいた自分の気持ちをこれ以上掘り返したくなくて、帰った方がいいような気がしていた。その方が、自分の心の傷を抉り出さなくて済むと思った。

「風鈴は見なくていいの?」

そう言われて、私の胸は再び締め付けられたように苦しくなった。まさか、そんな事を覚えているだなんて。
今も風鈴は夏になると一つ買い足していた。ガラス製のものは風で落ちて割れてしまったり、古いものは常連さんにあげたりして、なんだかんだある程度の数で落ち着いていたから異常に増えすぎるということがなかったからだ。
今年は、夏の初めにみやびちゃんとあきらの家に一つ風鈴をあげてしまったから、丁度買い足そうと思っていたところだった。
別にここで絶対買って帰らなければならない理由もなかったが、絶対に帰らなければならない理由もない。私は、「あぁ……」と口に出しながら、すんなり帰る口実を考えた。

「……そうだね、風鈴だけは見て帰ろうかな」

しかし、そんなものが今の私に浮かぶ筈もなく。
私は苦し紛れに「カカシくんは先帰っててもらって大丈夫だよ。人混み歩くのめんどくさいでしょ」と、一人で見に行くという選択肢を捻り出した。
けれど、そんな窮余の策では彼は納得せず、呆れ顔で「お前……花火大会に来てこんなところでさよならって、そりゃないでしょうよ」とため息混じりに否定された。
当然の反応だろう。友達と花火を見に来て会場のど真ん中でバイバイなんて、余程の事情がない限りありえない。

「何の気を使ってるのかは知らないけど、もう夜だし、せめて会場の外までは送らせてちょうだいよ。それに、カナちゃんが嫌じゃなきゃ家まで送るよ」

いつもの困り顔で彼は言った。
私はそこまで言われてしまうと、もう断る理由も見つけられず、「……じゃあ、ご迷惑じゃないなら」と渋々彼の好意を受け取ることにした。側から見たら、送ってくれるというのに渋るなんて図々しい女だと思われるかもしれない。私は自分の不器用さをひっそりと恨んだ。

「迷惑だなんてとんでもない。当然のことだよ」
「ありがとう……」

私は恥ずかしさと悔しさと気まずさが入り混じった複雑な気持ちのせいで彼と目を合わせられず、少し俯きがちに会釈をしながらお礼をする。カカシくんの顔は見られなかったけれど、なんとなく満足そうな表情をしているような気配がしていた。
そのあと、私達は何も話さずに人の波が引くのを静かに座って待った。

帰りは来た時よりも混雑が酷く、特に優待席から一般席へと合流するところで大渋滞を起こしていた。
しばらく席で待った後でも詰まりは解消されておらず、出口付近ではいろんな方向から人が押し寄せ、押し潰されそうになる。
ベタベタとする夏の夜風に混じって、他人から発せられる熱気と呼気に含まれたアルコールのにおいが全身をもわっと包み、思わず顔をしかめた。
そして、「きっと私も酒臭いんだろうなぁ」と、カカシくんからなるべく顔を背ける。揉みくちゃにされながらたまに顔を上げてカカシくんを探し、少し列が進むと彼がどこまで進んだかを確認しながら前進していった。

ふと、カカシくんの前方がぐんぐん進んでいく。カカシくんは私の右斜め前あたりに立っていて、きっと彼からは私の列がまだ滞留していることは見えない。このままじゃあ、きっとはぐれてしまう。
なす術もなく途方に暮れながら、列の流れに任せて進もうとしている彼の後ろ姿を見つめていると、チラと彼がこちらを振り返った。
はぐれてしまうことに気づいてくれたのなら、きっと会場を出た後、どこかしらで合流することが出来るだろうと私はもう諦めることにして、彼に手を振ろうとした。
振ろうとしたが、その時、私の手は上がらなかった。
人と人の隙間からスッとカカシくんの腕が伸びてきて、私の手を包むように握られていたのだ。
それからぐいっと前方に引っ張られて、私は今までいた列をするりと抜けてしまう。予期せぬ事態に、私はつまずきかけながらよろよろと彼の横へ並んだ。
私はただただ呆然と彼の横顔を見た。全身の力がへにゃりと抜けて、まるで操り人形のように彼の歩幅に従って歩いた。はぐれてしまうから引き寄せたのはわかるが、まさか、いきなり手を繋いでくるなんて。私の頭の中は真っ白になった。
カカシくんはその間、無表情だった。笑いもせず、喋りもせず、ずっと遠くの人の頭を見つめているようだった。何を考えているのか私には全く検討もつかない。マスクをしているから余計だ。
果てさてこれはどういう顔をしているのが正解なのか、私はカチコチに固まった全身をぎこちなく動かしながら考えた。耳から首にかけてが異常に暑くて、背中の真ん中をツーと汗が流れるのがわかった。とにかく一秒でも早くこの人混みを出たいと思った。
勿論そんな状況で正しい振る舞いがわかる筈なんてなく、私は彼からパッと視線を外し、足元だけを見ながら歩く。
そうすると、今度は全身の感覚がさらに鋭く研ぎ澄まされて、後ろにいる人達の話し声や前に進んで行く人の足のリズム、それから左隣の人のもわもわと立ち上っていく汗と熱気を感じきった後、繋がれている右手へと全神経が集中していった。
カカシくんの手は、思っていたよりもゴツゴツしていて、とても大きかった。スラッとしていて指の長い綺麗な手をしていたから意外だった。
そして、ちょっぴり掌に汗をかいていた。涼しい顔をしていたのになぁ、と彼の人間らしいところをまた一つ見つけ、少し嬉しくなる。同時に、胸全体が心臓になってしまったかと思うくらいドキドキしていた。こんな雑音の中でも、彼に聞こえてしまっていないか不安になった。あるいは、この右手から伝わってしまっていないか心配しながら歩いた。


おしくらまんじゅうの中をようやく抜けると、私の右手はすぐに解放された。
カカシくんは手を繋いだことに対しては勿論何も言わず、離すなり「さて、風鈴屋台を探そうか」とポケットから会場案内図を取り出し、見当をつけ始める。先程までのことなんて、まるで何もなかったかのように爽やかな表情だった。
それを見て私は、自分が今までドキドキしていたのが猛烈に恥ずかしくなって、私も平然を装うことにした。時折首筋と額から汗が垂れてくるのを、彼が見ていない隙にこっそりと拭った。
私達はそれから、カカシくんが確認してくれた通りに歩いて、すぐに風鈴屋台を見つけられた。屋台の一番良く目に留まる位置にあまり見たことのない薄紫色の可愛らしいものがあったので、すぐにそれを手に取って会計を済ませる。
遠くに立っているモニュメントクロックを見ると、もう九時も近かったので私はカカシくんに「そろそろ帰ろうか」と声をかけた。カカシくんは残念がることもなく「そうだね」と頷いた。

花火大会の会場周辺を出ると、街は人で溢れかえっていた。賑やかすぎて歩きづらいくらいで、私は左手にもらったお菓子の袋を引っかけながら、胸の前に大切に風鈴の入った木箱を抱えて歩いた。
いろんな所に、「きっと花火大会の帰りなんだろうなぁ」という人がたくさんいた。特に、男女で歩いている若いカップルが沢山いて、その楽しげな表情を見る度に憂鬱な気持ちになった。
私も、かつての恋人と別れていなければきっとあぁやって肩を寄せ合い、この世の誰よりも幸せという顔で通りを歩いていた筈だ。しかし、現実はどうだ。
初恋の人と歩いているというのにきっと全然楽しそうではないし、初恋の人も隣を歩いていても甘い雰囲気なんてありゃあしない。私達はただの幼馴染みなのだから当然なのに、それが余計に虚しかった。

「今日はいつもより人が多いねぇ。その箱、オレが持ってようか?」
「大丈夫、ありがとう。花火大会だから、まぁこのくらい賑わってないとむしろ寂しいんじゃない?」
「それはそうかもね」

前方を歩いていた浴衣を着ていたカップルが、道の横にあった居酒屋へと入っていった。カップルならまだ帰るには早い時間だよなぁ、と思った。
私はなんとなくそれが羨ましくなって、「一杯飲んで行こうよ」と言おうか迷った。
しかし、帰ろうかと自分から言った手前、とても誘いづらい。それにさっきまであんなに早く解散したがっていたのもあって、余計に。

「カカシくんは明日も任務なの?」

私は話の流れでカカシくんが誘ってくれないかなぁ、なんて期待をほんのり込めてなんとかきっかけを作ろうとした。

「あぁ、明日は朝早くからナルト達と朝から草むしりだ」
「そうなんだ、大変だね……」
「お前も朝早くから毎日店の仕込みとかしてるんだろ?そっちの方が大変だと思うよ」

私の期待は無残にも打ち破られ、「優しいね、ありがとう」と返事をして会話は呆気なく終了した。
いやいや今のは切り口が下手すぎたと反省していると、カカシくんが「人が多いから、裏道を抜けて行こうか」と尋ねてきた。別にどの道を通ろうが、いずれにせよ真っ直ぐに帰らなければならなさそうだったので、私は「うん」と返事をして彼の後へついていくことにした。

カカシくんは、普段私が通らない道を知っていた。人はいないし、たまにしか電柱のない静かな路地裏ばかりを歩いて行った。話し声さえこの夜空に響くようで、自然と私達は少し小さめの声で話をした。並んで歩くことはできなくて、カカシくんの後をついていくような形で進んでいく。
なんでこんな抜け道を知っているのかと聞けば、先日来ていた下忍の子達によく任務終わりに跡をつけられ、彼らを巻くうちに自然と身についたのだという。担当下忍の子たちがついてくるなんて、かわいらしいなぁとついクスクス笑ってしまう。
「なんでついてくるの?」と聞こうとしたところで、カカシくんが急に歩みを止めた。少し広い道にぶつかった所だった。
「どうしたの?」と問いかけて彼を見ると、右斜め前方を向いている。視線の先を辿ると、私はハッと呼吸を止めた。

「ここ、覚えてる?」

カカシくんは前を向いたまま訊いた。
私はごくりと唾を飲み込んで答える。

「うん……子供の頃に来たよね」

その公園は、間違いなくあの日にカカシくんと来た公園だった。
それを認識した瞬間、一度収まった私の胸は再びうるさく暴れ始め、身をこわばらせた。
カカシくんはしばらくそのままじっとした後、ゆっくりとした足取りで公園の入り口へと歩み寄っていく。そして、公園の前にある小さな街灯の下で再び足を止めた。
私もゆっくりと彼の後を追うように、そばへ歩いていく。

「……懐かしいな」

彼は、街頭の青白い光に包まれながらポツリと呟いた。髪の毛が光に透けてとても綺麗だった。
私は、彼があの日のことを覚えていることにとても驚いた。覚えているのは過去に縋っている私だけで、心を殺すような日々に身を置いていたカカシくんは、とうに忘れていると思っていた。
動揺しながら「そうだね」と返事をすると、どこからかチリンと風鈴の音が聞こえてきた。涼しくて心地よい音で、蒸し暑い風が吹く中で私はそっと目を閉じ、耳を傾ける。
美しい音色が静かな夜の空気を伝い、震えるようにして闇に溶けきると、カカシくんがすぅ、と息を吸い込む音が静寂を割いた。

「ねぇ」

呼びかけられて静かにまぶたを開く。カカシくんがゆっくりと私の方を振り向いて、目元に柔らかい笑みを浮かべていた。

「ちょっと寄ってってもいいかな」

私はその微笑みに、戸惑いながらもしっかりと彼の目を見て頷いた。


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