日が暮れるのも随分早くなった。降り立ったバス停の周辺には街灯もなく、あたりはすっかり暗くなっている。外の冷えた空気に触れて、そそくさと両手をパーカーのポケットにしまう隣の男の仕草を、夏野は一瞥した。確かに、バスの中は近頃稼働し始めた空調のおかげでぬくぬくと心地よかった。

「おまえ、それだけで寒くねえの?薄着だよな」

投げかけられた問いに肩をすくめる。このくらいの冷たい温度は、むしろ背筋がしゃんと伸びるようで、嫌いではないのだ。
溝辺町にある、とある塾の帰りだった。徹が『そこ』に連れていってくれるというのは。
夏野は塾に通いこそしていなかったが、この土曜は全国規模での模試が目当てで一日中塾に籠もっていた。高校受験があと数か月に迫っている季節。外場の中学でも模試がないわけではないが、大学進学まで見据えている夏野にとっては、今のうちから経験を重ねておきたいところだった。そういうわけで最低月に一度は溝辺町のそこにお世話になっている。買い物に出ていたらしい徹に出会ったのはその帰りのバスだった、というわけだ。
『よし、一日頑張った夏野にご褒美だ。おれがいいところに連れてってやる』それだけ告げられて、別段断る理由もなく、とりあえず前を行く背中についてゆく。寒さのせいか少し丸まった背が間抜けに見えて、なんだか可笑しい。とぼとぼと進む足取りは、しかしながらしっかりとしていて、目的地への道程は完璧なのだろう。
何の前触れもなくはたり、と足を止めた徹に、夏野も倣って停止する。
徹はこちらを一度だけ振り返ると、方向を逸れて左手の林に紛れていってしまった。「こっち」怪訝に思って声のしたほうに首を向けると、おそらく一人では気付かなかっただろう小道が山に向かって延びていた。鬱蒼と茂る木々の合間に、人一人が辛うじて通り抜けられそうな小道。都心部で育った夏野には、それを道と定義していいのか首を傾げるしかなかった。この村では、というかここだけに限った話ではなくこんな田舎にはよくあることなのだろうが、予期せぬところに突如として道が現れる。夏野はそれに毎度驚かされているのだった。

徹は背を屈めながら、いささか窮屈そうに、それでもぐんぐんと狭い山道を登ってゆく。夏野も負けじとそれを追った。この時ばかりは、まだ徹ほど伸びきっていない己の身長に感謝せざるを得なかった。傾斜はきついが、しんどいと感じるほどではない。この村にやってきて無駄に体力がついたのではないか、と夏野はふと思うときがある。どこに行くのだって電車がないのだから徒歩か自転車だし、登下校でバスを逃してしまえば片道約三時間の道のりを歩くことを余儀なくされる。
歩いていてそれほど苦にならないのは、踏みしめている地面に誰かのつけた足跡があるからだ。その形跡はある程度深く、随分昔から残っていることが見て取れる。勝手知ったりと進んでいく様子を見る限り、その犯人は徹その人なのだろう。自然に階段が形作られたようで、足をかけやすい。
そうこう思考を巡らしているうちに、やがて徹の進むスピードはゆるやかになっていた。少し息が上がっているのを見取ってか、「夏野、大丈夫か?もう少しで到着だからな」足取りは止めないもののちらりと振り返って伺ってくる。

「年寄りじゃあるまいし、平気だ」

気遣ってくれるな、という意味を込めてひらひら手を振る。「おわっ」その拍子抜けしたような声が前方から上がったのはそれと同時で、夏野は思わずぷっと吹き出さずにはいられなかった。両腕をばたばたとさせながら、大きな体をぐらつかせている。どうやら余所見していたせいで、突出した岩に躓く寸前だったようだ。

「ほら、年寄りは若者よりも自分の心配してれば?」
「…仰る通りで」

ふう、と盛大に息を吐き出して、「よぉし」仕切り直した徹の声は打って変わって心なしか弾んでいた。「あと一息だ」



「へぇ…」
素直に感嘆の声を漏らす夏野に、満足したように徹は笑った。開けた高台に二人して並ぶ。二つの視線は、目の前に迫るそれに同じように注がれていた。

「な、来て損はなかったろ?」

夏野は無言を貫いていたが、鉄塔を見上げたままその裾へと歩み寄ってゆく。まるで夢中になったかのように、吸い寄せられたように。じっとそのてっぺんを見つめている。その様子だけで十分、先ほどの問いへの答えは明白だった。徹はまた笑う。それに混じって零れた息がかすかに辺りを白く染め上げた。

「これ、登れんの?」
「おお。昔はよく登って遊んだっけな。あ、でもここはおれしか知らんから、遊んだってゆーのはちと違う気もするが」
「秘密基地ってわけか」

夏野は考えこむように、顎に手をやって俯く。

「…おれには教えてよかったわけ?」
「うん?そうだなぁ、夏野にはいつか教えてやらねば、と思ってたんだ」
「ふぅん」
「なんかよくわからんけど、ここ、おまえのためにあるような場所だって気がしてな」
「どういう意味だよ、それ?」

徹はあっけらかんとして言った。

「さあな。よくわからんって言っただろ」
「…あんたなあ」

こういうざっくりとした適当さが徹の持ち味でもあるのだが、なんにせよ当てにならないのではどうしようもない。肩をすくめてみせた夏野に、徹は苦笑するしかなかった。


目下に広がる景色は確かに、圧巻だった。そして悟る。あれは見まごうことのない、国道だ。それが視界に飛び込んでくるのを、夏野はどこか傍観する姿勢であるかのように理解していた。あれを見下ろすのはおかしな気分がする。普段ならその上に立ち尽くして、その先の不透明な地平線を臨むことに必死だったのが、ここから眺めるのでは急にちっぽけに見えてくるのだから不思議だ。

「…こんなもんなのか」

徹に聞こえるか聞こえないかの小さな呟き。日頃固執していたのが馬鹿らしくなる。そう思えば思うほど、別に鉄塔に登る必要はない気がしてきた。十分この高さでも、まだこれなら自分は。この焦燥を傍観できるのだから。それよりも今は、振り返ればそこに佇んでいる、その男の顔が見たい。徹がここまで理解してここに招待したとは考えにくいが、それでも少なくとも、自分は徹に感謝せねばなるまい。夏野はくるりと見上げていた鉄塔に背を向けて、こちらへとすたすた戻ってくる。おや、と徹は目をぱちくりとして首を傾げた。

「登んねえの?夏野」
「名前。そうしようと思ってたけど、別にもういいよ」
「ほぇ?なんでだよ、せっかく来たのに」
「今度でいい」

今度ってなぁ、と徹はそれをぼそぼそと反芻する。夏野の立つその背景に、闇に染まった村を見渡す風景が広がっている。そこには、夏野が日頃思いを馳せている国道も横たわっているはずだ。きっと自分は無意識のままそのイメージを夏野に繋げていたのだと思う。しかし夏野はそれはお気に召さなかったのだろうか、てっきりいつものように魅入るものだと思っていたのに。今ではそれに背を向けている。

「徹ちゃん」
「どした?」
「…今日さ、道覚えらんなかったから、また連れてきてよ」
「え?それは構わんが…あの小道から、まっすぐ登ってきただけだろ、って、いだっ」

なにおする!と憤慨した風の徹に、内心夏野は毒づく。全く、この天然め。憤慨したいのはこちらのほうだ。

「…あんたって、たまに、ほんと、鈍いよな」

そっぽを向いて言う夏野に、はっと小さく息を呑んだ。実に嫌そうな苦々しい表情が、夏野お得意の照れ隠しの手段だということを、すでに徹は分かっているのだから。

「悪かったって。…ん、何度でも連れてきてやる」

込み上げてくるそれは、のちのちになったよく考えてみれば、安堵だったのかもしれない。自信なんてない。確証なんてない。それでも、夏野がいつの日か訪れる都会での未来よりも、今はこの村の、自分のもとを居場所として選んでくれたという気がしたのだ。ただ、胸を押し上げ震わせるその洪水のような歓喜を留める術など知る由もなくて、徹は腕を伸ばした。指先に触れた肩を、細い体を掻き抱く。

「…と、おるちゃん」
「うん。また来よう、夏野」

ぎゅうときつく力を籠めても、常ならば不機嫌に飛んでくるはずの文句はなくて、代わりにおずおずと背中に回った細い腕が、徹をさらに暖かく包んでいた。



101120/鉄塔にて







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