くあぁぁ、それはそれは思い切り遠慮もなしに、間抜けな欠伸をひとつ。堪えようとも隠そうともしない徹の腕を、隣に立っていた国広律子はえいやっと肘で突いた。
前で説明を続けている上司には悟られないよう、「ちょっと、武藤くん」出来るだけ小声で囁く。

「…ぅぁー、すみません、律ちゃん先輩」
「まったく。仮にも研修中ですよー。最近、眠れないの?」
「んや…なんか雨の日って、眠くなりませんか?」
「……そうかしら?」

良く言えばマイペースなんだけどなぁ、大丈夫かしら、この新人君。そう苦笑せずにはいられなかった。とにかくほら、しゃんとして前見て、と再び肩を叩く。徹の目線は渋々といったふうに前に戻ったものの、その目に宿る光はぼんやりとしていた。眠気が覚めないのだろう。この調子だと、もうどうしようもないかなあ。律子は潔く諦めることにした。




「おりょ」

夕方。日も暮れる頃だが、朝からどんより曇った雨雲のせいでどうも感覚が掴めない。地下鉄を降りた出口で傘を広げていた徹は、またもや間の抜けた声を上げた。数メートル先の、見覚えのある黒髪。大学の帰りだろうか。一人で先を歩いているその頭は、いつもならいろんな方向に跳ねているが、いまは雨に濡れてしっとりと落ち着いている。傘も差さずに、風邪をひくだろうに。

「夏野ー!」

自然と駆け足になる両足のリズムに合わせて、水溜まりの雨が革靴にぱしゃぱしゃと跳ねる。ついこの間、大声で呼ぶなと叱られたばかりだが、もうこれは条件反応のようなものだから仕方ないと思う。ついでに下の名前で呼んでしまうのも。

「徹ちゃん」
「何やってんだ?ずぶ濡れじゃん、お前」

振り返った夏野の額に、雨を吸った前髪が張り付いている。すぐ側に立って傘に入れてやると、夏野は不機嫌そうに眉をしかめた。こいつは極端に人に頼るのを嫌うのだ。

「別にいいよ、どうせもう濡れてるし」
「何言ってんだよ、遠慮すんなってー。だいたい、傘持ってないならどっかで雨宿りしときゃ良かったのに」
「…早く帰りたかったんだ」
「?夏野?」

少しばかり、いつもと様子が違う。夏野とは付き合いが長いわけではないが、俯き加減で、なんとなく憂いを帯びたような。そしてさっきから、夏野の様子とは少し違うところで感じる違和感。この違和感は何だろう?

「…とりあえず、拭かなきゃ。着替えも。ほら行くぞ」
「わっ、ちょっと、引っ張んなって」

ぐいぐい腕を引っ張られれば、抵抗する術もなく夏野は大人しく従った。仮にも男二人、流石に狭い傘の中で、互いの肩が軽くぶつかる。

「徹ちゃん、いま会社の帰り?」
「ああ、今日は早く終わったから…ぁ、ぁ、あああ」

(今…!てか、さっきから!ナチュラルに徹ちゃんって…!)

「?なに、どしたの」

思わず心の中でガッツポーズ。
そうか。違和感の正体はこれだったのか!感動をぐっと堪え、表情に出さないように筋肉を駆使した。夏野のこの性格だ、下手に喜んでみろ。『呼んでない!』と武藤さん呼びに逆戻りだろう。年上だと気を遣われるのが嫌で『みんな徹ちゃんって呼ぶから、お前もそう呼んでな』と言い聞かせてきたのだ。もちろん夏野がすんなりうんと頷くわけもなく。なぁとかおいとかあんたとか、徹底的に名前は呼ばれなかった。この努力が水の泡になってしまうのは御免だ。
わざとらしかったかもしれないが、ごほんと咳払いしたあと、怪訝そうな夏野に大袈裟に微笑みかけた。

「んや!何でもない。早く終わったからちょうど夏野に会えたろ。だから良かったって」
「…あっそ」

素っ気なく呟いて、ふいと顔を逸らされても、『徹ちゃん』効果のお陰で気分は最高だった。だからそっぽを向いた夏野の耳がほのかに赤く染まっていたことに、気付けるはずもなかったのだ。 







「お邪魔しまーす」

夏野は思ったよりもすんなりとうちに上がってくれた。一緒にハヤシライスを食べたあの日から、少しずつではあるけれど夏野との距離が近付いているのは確かで、また嬉しくなってしまう。

「ほい、タオル」
「ありがと」

育った村は何もないところだったけど、いつも村のみんなで賑やかに過ごしていた。だからこそこの無機質な都会で一人きりというのはなかなか堪えるのだ。その上社会人一年生の身。周りには年上ばかりで、村の自分を慕ってくれていた可愛い弟分たちが恋しくなる。いい歳して、と夏野には小馬鹿にされそうだが、やはり寂しいものは寂しい。
だからこそ、自分が夏野を可愛がりたいと思うのはごく自然なことなのだと思う。

「夏野ぉ、もうメシ食ったー?」
「んや、まだだけど」
「じゃあ今日も食べてきな。あ、先に風呂だな。早く暖まったほうがいいだろ」

夏野は小さく眉根を寄せた。あ、来るぞ。夏野の壁を置きたがる癖。

「風呂くらい自分んちで入るよ。ご飯もいいって、迷惑だろ」
「迷惑もあるか。一人で食べるメシほどまずいもんはないぞー?」
「…そういうもん?」
「そういうもん。」
夏野の口元が困ったように歪む。素直に甘えてよいものか、悩んでいるのだろう。夏野の首に掛かっていたタオルを手に取って、まだ湿り気を帯びていた夏野の髪をわしわし拭いてやれば、さらにあからさまに嫌そうな顔をした。

「痛いって、徹ちゃん」
「だってちゃんと拭けてなかったぜ」
「自分で出来るってば、子供扱いするな」
「…子供扱いじゃないぞ。おれがやりたくてやってんだ。どうか寂しがりやのおれを甘やかしてやって下さいな、夏野様」

おどけてみると、「…わかったよ」しょうがないな、とでも言いたげに夏野は小さく呟いた。
今はこの妥協でも構わないかなぁ、とぼんやり思えた気がした。いつか当たり前のように甘えてくれるようになるまでは。








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