「外食に行くぞ、夏野!」

徹の行動はなかなか理解し難いものである、と時折夏野は思う。というのも、ゆっくりと順を追っていけば理解できないことはなく、単に予測がつかないだけの話ではあるのだが。
それは今回のこの発言も例外ではなかった。発言そのものに問題はない。それがこの夜、部屋のドアが開かれた直後、なんの前触れもなく発されたことが問題なのだ。
はぁ、と息を吐いて夏野は入り口を譲った。

「…徹ちゃん。とりあえず、上がれば?」


いつの間にか梅雨の季節を通り過ぎて、夏の香りが濃くなった。日が暮れた後も、夜が更けていっても、まだまだ外は蒸し暑いものだ。
「あー天国〜」空調の効いた夏野の部屋に足を踏み入れた徹は、へにゃりと表情を崩して額をシャツの袖で拭った。ネクタイがきっちりと締まった首元が窮屈そうで、それをそそくさと緩める仕草を見ると、なんとなく哀れになってくる。『上のお偉方がさ、今流行りのクールビズってやつ?嫌いなんだってさ』少し前に困った様に笑いながら徹がこぼしていたのを思い出す。

「さすがに、今日はメシ食ったよな?」

時計が指すのは22時過ぎ。徹が外食というのは、日を改めて、ということだろう。

「ん。外で済ましてきた」

徹に冷たい麦茶を用意しながら、こうして顔を合わせるのは久し振りだと気付いた。大学はテストが近付いているし、徹の方もそろそろ本格的に会社に慣れて忙しくなっているのだろう。
今日の如く、徹が自分にアポを取る人間ではないことは承知している。だから必然的に、お互いに忙しい場合だと、次の約束は放っておかれる形になるのだ。

(…って、なんだこれ)

なんか、久し振りに会えて、嬉しいみたいじゃないか。恋人同士じゃあるまいし。つか約束ってなんだよ。そもそも相手は男だし。…いやいや、有り得ない。
ぶんぶんと頭を振って雑念を振り払って、夏野は徹の寛ぐテーブルに戻った。

「お、さんきゅーな」
「で、何でいきなり外食なんて言い出したわけ?珍しいな、あんたみたいなインドアなおっさんが、わざわざ」
「あのなぁ、一言多いぞ夏野…。いや、この間、会社の上司が連れて行ってくれた所なんだが、そこのメシがこれがまたうまくて。デザートもすんげぇ美味だったぞ。で、今度夏野も連れてってやろうと思って」
「デザートって…徹ちゃん、甘いもん好きだったっけ?」
「んや。ほら、女の人って好きだろ?そーいうの。その一緒に行った上司さん、女の人なんよ」

女の人。
―――ひとり頭の中反芻して、夏野は初めて自分がそれを失念していたことに気付いた。
少し前まで当たり前のように、しかもほぼ毎日と言っていい程徹の家に入り浸っていたわけだが、よくよく考えてみれば。
徹は優しい。徹の人懐っこさや包容力を嫌う人間などほとんどいないだろう。こんな捻くれた自分にも構ってくれる位だ。当然周りの女性だって黙っていないだろう。
それって。家に連れ込むような『そういう人』がいてもおかしくないんじゃないか?

「おーい、夏野?」

はっ、と息を呑むと、きょとんとした表情の徹が夏野の視界に手を翳して振っていた。「どした、また眠いのか?」首を横に振ると、さらに怪訝な顔をする。

「夏野?」
「…どんな人?」
「んあ?」
「その、上司さん」
「んー、いい人だぞ。しっかりしてるし、気配りできるオトナって感じかなぁ。おまけに美人だ」
「…ふぅん」

自分で尋ねておきながら、素っ気ない反応しかできない。
何なのだろう、この、上手く形容出来ない…言うなれば、喪失感は。
徹に恋人がいるだとか、その上司とどうこうなったと聞いた訳でもない。その上、この感情がどれだけ子供っぽい身勝手なものかはわかっている。
普段のように、関係ないと割り切ればいいのだ。徹が誰と付き合おうと、自分には関係ない。
それでも、今の夏野は、どこか打ちひしがれた気分にならずにはいられなかった。




『今度の水曜、夕方空いてる?おれ、その日は早く帰れる予定なんだけど』
『水曜か…この日はちょっと、無理かも』
『おろ。じゃ、暇な日わかったら教えてくれ』

その、話に上がった水曜の午後のことだった。
徹がその日、会社帰りにぶらついていた辺りには、夏野の通う大学もある。(そういやテスト近いって言ってたっけなぁ)真剣な顔で大学の机に向かっている姿が簡単に想像できて、徹は思わず苦笑してしまった。自分の大学時代とは比べ物にならないほど勉強に必死な姿勢には、いつも感服させられている。
大通りの角を曲がって、大学の前の通りに出る。――その姿が見えたのは、ほんの数メートル先だった。
しゃんと伸びた背筋、細くすらりとした後ろ姿は間違いない。何という偶然。

(今日のテスト、午前終わりだったんかな?)

「おーい、なつ…」

ふと、名前を呼びかけた口を噤んだのは、夏野の隣に一人の女性が寄り添うようにして歩いていたからだった。

(…おりょ?)

真っ直ぐ前を向いて歩いているせいで、此方からは夏野の表情は伺えない。しかしチラリと垣間見えた女性のほうは、頬をほのかに赤く染め、懸命に何か夏野に語り掛けていた。―――きっと、というかこれはもはや確信だった。彼女は夏野に恋をしている。

『この日はちょっと、無理かも』

数日前に家で聞いた夏野の言葉がリフレインした。用事がある、ともはっきり言わず、言葉を濁した曖昧な様子だったのを思い出す。
そうだ、もしかしたら、彼女とのデートだったのかもしれない。徹は人知れず頷いた。夏野のことだ、どこかストイックなところがあるから、隠したがるのも納得がいく。

(そうだよな、夏野にだって恋人のひとりやふたりくらい…いや、ふたりいたらちょっと困るよな。というか、そういう問題じゃなくて、だな)

せめて一言、言ってくれれば良かったのだ。まさかこんな風に見掛けるなんて思いもよらなかった。別に、約束を断られたことが気に入らないわけじゃない。ただ、彼女がいるならいるで、教えてくれればそれで良かったのに。

「…あれ?」

気に入るとか入らないとか、勝手な己の言い分に我ながら驚いてしまう。

(なんでおれ、こんなにショック受けてんだ?)

何故かずっと遠くに感じるその背中が見えなくなるまで、徹はその場に佇んでいた。
じりじりと太陽に照りつけられ、ぽたり、と頬、首筋と伝っていったそれがコンクリートの地面に落ちてゆく。それは汗にしては、やけにしょっぱかった。







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