地下鉄のドアが開き、押し潰されそうな人の群れからやっと解放された夏野は小さく吐息を漏らした。いくら都会に戻りたいと思っていた身でも、この圧迫感はどうも好きになれない。というより、これが落ち着くという人間などいないだろう。
大学のガイダンスの帰路に着いていた夏野は、気が付けばふと――というより、暇さえあれば、数日前のある出来事を思い出していた。引っ越し早々、自分のテリトリーに我が物顔で侵入してきたあの面倒な隣人。

『いい名前だなぁ』

あの時、迂闊にも名前を教えてしまった自分の失態に、未だに腹を立てていた夏野である。


『…名前では、呼ばないで欲しいんですけど』
『何で?』
『何でもなにも、嫌いだし』
『そーなんか?勿体ねぇなあ。あ、敬語はやめようぜ、せっかく知り合ったんだし、仲良くしようではないか』
『…仲良くって、俺は別に』
『ほんじゃ掃除機取ってくるからちょっと待っとれ』


こちらの言うことには全くもって聞く耳を持とうとしないあの男。結局あのままペースに巻き込まれ、仕方なく茶まで出してしまった。

(いや、礼を言わなきゃならないのはこっちってことはわかってるんだけど)

募る苛立ちに比例するように、地下鉄のホームを歩く夏野の足取りは早まってゆく。そしてその勢いづいた闊歩は、その瞬間、呆気なくぴたりと停止してしまった。

(…あいつ)

俺は過去に何か相当な悪事でも働いたのだろうか。思わず頭を抱えてしまう程、夏野は自分の不運さを呪った。何故、何故このタイミングで、目の前にあの男が現れるんだ。
数メートル先、人混みの中から少し飛び抜けて見えた、金のふわふわした頭。それですぐに目についた。その上、その大柄な体を今は落ち着きなくして、忙しなくきょろきょろ首を回しているのだから、余計に目立ってしまっている。

(…何やってんだあいつ。こんな所でいい大人が)

あの表情は、どこか見覚えのあるものだなあと夏野は訝る。ああそうか、遊園地やショッピングモールで見かける、迷子になり親とはぐれてしまった小さな子供の表情だ。
スーツを着込んだ姿がおろおろしている様子はなんだか居たたまれなくて、見ていられない。かといって今ここで助け舟を出す義理があるかと言われれば、自分は首を振るだろう。正直、出来る限りあいつとは関わりたくない、というのが本音だ。――本音なのだが、その忌々しい姿を視界に入れた瞬間に直ぐさま目を背けて見なかったフリができない、夏野のどこかに根づく人の好さが結局夏野自身を困らせることとなった。
くるり、急にふわふわ頭がこちらを向いたかとその頼りなさげな表情が大きく綻ぶ。夏野は己の甘さを悟った。

(しまった…!)

「おお、なーつのーっ!」
「ばっ…」

馬鹿!そんな大きな声出すなよな!とは罵倒できなかった。こちらめがけてその男がものすごい勢いで突進してきたからだ。思いもよらぬ展開に狼狽えた夏野は、本能のまま後退る。抱き付かれるすんでの所でその胸板を突っぱねられたのは、自分で自分を褒めるべきだと思う。周囲の突き刺さるような怪訝な視線が痛い。

「ちょっ…離れろって、このっ」
「夏野よ、よくこのタイミングで現れてくれた!助けてくれ!お兄さんは家に帰れないのだ!」
「偉そうに言うことじゃないだろ、つか名前で呼ぶな!」

(ほんとあんたも、よくこのタイミングで現れやがって)

この馴れ馴れしさ。やっぱり本物を前にするとうんざりする。本当にこいつ、数日前には初対面だった人間か?

「いやぁ、今日会社の研修だったんだけどな、場所がいつもと違う場所でさ。地下鉄は普段使わないからどうもわからん。ほんとに助かった!」
「わからんって…行きはどうしたんだよ」
「行きは同期と一緒だったから大丈夫だった。が、寄り道してくから一人で帰れってゆわれて」
「…で、このザマって?」
「そーいうこと」

ご名答、とでも言いたげにこちらの顔をピンと指差してくる。…だから誇るべきところじゃねぇっての。呆れて指摘する気も起きなかった。何というか、ここでこいつに乗せられて熱くなってはこちらの負けだと思う。

「あー、もうわかったよ。俺も帰るとこだから、勝手についてくれば」
「一緒に帰ってくれるのか!?」

一気に纏う空気が花が咲いたようになるのだから可笑しい。心を許したようでなんだか癪だから、顔に出して笑いはしないが。

「一緒に帰るとかそんなんじゃないし。あんたは俺の金魚のフンにでもなってればいいよ」
「うっ…その言い方、けっこうひどいぞ夏野くん…」
「いい歳して地下鉄で迷う社会人よりひどくないし」
「…うう…てか速い!夏野、歩くの速いから!待ってくれよぉー」






――――…で、なんでこんなことになってんだ。

「どうだ?夏野、おかわりもあるぞ、たーんと食えよう」

スプーンを片手に再び頭を抱えていた夏野の背後にあるキッチンから、徹の弾んだ声が届く。夏野にとって問題なのは、そのキッチンが自宅のものではなく、隣にひとつずれた武藤徹宅のキッチンである点だ。
どうしてこうなった。何故俺はのほほんとこいつに夕飯をご馳走になっているんだ。

「しかもなんか地味に美味いし…」

武藤徹宅のダイニングテーブルに腰掛けている夏野の前に出されているのは、徹特製のハヤシライス。
料理できるなんて聞いてないぞ。数日前といい今日の迷子事件といい徹のことをまともな奴だとは到底思えていなかったせいか、料理というスキルが果てしなく素晴らしい長所に見えてくる。
あの地下鉄の件のあと、無事アパートに辿り着いたかと思えば、徹は意気揚々と『助けてくれたお礼に夕飯をご馳走する』と夏野の腕を自分の部屋へと引っ張っていくのだからまたうんざりした。うんざりしていた筈なのに、ハヤシライスひとつで結局絆されている自分がいる。なんだか気にいらない。
なんとなく悔しさを滲ませた仕草で、夏野はまたスプーンを口に運んだ。ルウは市販のものらしいが、煮込み具合だとか、きらきら澄んだ玉ねぎのあめ色が絶妙だ。

「いただきまーす」

キッチンから戻り、向かいのイスに腰掛けた徹も自分の分を食べ始める。

「夏野、美味いか?」
「名前で呼ぶなって。それに、まずかったら食べてない」
「…ほお、そうかそうか」
「…何だよそんなにニヤニヤして、気持ち悪い」
「気持ち悪い、って…ぐさっ。若いもんに言われるとお兄さんはけっこう辛いのだぞ…」
「口に出して擬態語使うようなお兄さんには適切な表現だと思うけど」
「厳しいですね夏野さん…」

がっくりとうなだれる動作が、地下鉄での姿を彷彿させた。まるで飼い主に見放された犬のようだ。どうやら他人に同情を滲ませるのが本当に得意らしい。
はああああ、重々しい息を吐き出して、夏野は口を開く覚悟を決めた。

「まあ、でも…ちょっとは見直した」

これ、と背を丸めた目の前の徹にハヤシライスを乗せてスプーンを持ち上げてみせたが最期。『ぱああ』声に出しにこそしないが、はっきりと効果音が聞こえて、夏野は少しでも誉めてしまったことを早くも後悔するのだった。

「夏野ぉー!」

がばりと椅子から腰を上げてテーブル越しに抱き付こうとする大型犬。
全く、単純なやつ。

「くっつくなうざい暑苦しいあと名前!」
「…夏野ぉー…」








「#幼馴染」のBL小説を読む
BL小説 BLove
- ナノ -