「…フゥ」

粗方片付いてきた広くもなく狭くもない部屋の中で、夏野は額を拭い深々と息を吐き出した。窓からはぽかぽかとしたやわらかな光が降り注いでいる。暑いとまではいかないが、朝から通して体を動かしていれば、やはり微かに汗が滲む。

この春、結城夏野は大学への進学のために単身で上京することになった。
『することになった』というのは少々語弊があるかもしれない。何しろ、上京は夏野の念願だったのだ。元はある都心の郊外に居を構えていた結城家だったが、ある日突然『田舎に越すぞ!』と両親の満面の笑みで告げられてからというもの、名も知らぬ小さな小さな村に住むことになってしまった。電車もなければコンビニもない、だと言って代わりにこれといった名物があるわけでもない、ごくごく普通の村。夏野はあの村が嫌いだった。噂好きの暇な村人も、不便極まりない環境も、何もかも全て。徹底した夏野の村嫌いには、信条を押し付ける両親への苛立ちも乗じて拍車を掛けていた。
少し休憩すっか。夏野は腰を上げてううんと伸びをした。元々荷物は少ない方だ、荷解きも今日には全て終わるだろう。窓際に寄りかかり、眼下に見える桜をぼうっと眺める。桜は風に乗りはらはらと穏やかに花弁を散らしていた。
結局馴染めず仕舞いだった、と夏野は思う。けれど後悔は全くない。寧ろあの村を思い出せば思い出すほど、抜け出せて良かった、とせいせいするのだった。
村を出ること、それを第一に目前に掲げて高校時代必死に勉強してきた。長年の夢が願ったり叶ったりで、顔にこそ出さないものの、夏野の気分は確かに高揚していた。それにこの麗らかな春の陽気。まるで思い描いていた未来に祝福されているようではないか、なんて村で付き纏ってきたお笑いな女ならそう言いそうだな、と嘲るように夏野は笑う。
そう、散々疎んでいた女のことを想像して笑える程には、気分が良かったのだ。だからなのかもしれない、普段なら考えもよらないことを行動に起こしたのは。





終わりから数えた方が早いダンボールを開く頃だった。包んでいた新聞紙から滑った皿が、勢い良く床に叩き付けられた。

「…ッ!」

皿の割れる派手な音に、流石にびくりと肩が震える。
しまった。足元に散乱する破片を眺め、溜め息を漏らした。大きい破片は手で拾えばいい、問題は粉々になった細かい破片だ。生憎掃除機がない。村やその近くには大型の電気店がなく、どうせ都会に出るのだからと家電はこちらに移ってから揃えに行こうと思っていたのだ。ホウキなんかも持ち合わせてはいない。

(…買いに出るか?いや、近くにはホームセンターはないか…100均も歩いて結構ある)

コンビニまで徒歩5分という好立地も、どうやら今は役に立たないらしい。

(そういえば、隣の)

ふと頭を過ぎったのは、隣の部屋に入っていく若い男の姿。
昼前に引っ越し業者を見送ったあと、エレベーターから出て部屋に戻る時だった、隣人らしき背の高い男を見かけたのは。村にいたころから近所付き合いにろくな思い出はないせいもあって、特別に興味が湧くはずもなく表札も見ていない。が、今のこの状況だ。

(掃除機でもホウキでもいいけど…持ってねぇかな、あの男の人)

このアパートの部屋からして、住人はほとんど一人暮らしだろう。さすがに初対面の一人暮らしの女性の部屋に押し掛けるのは気が引けるが、男なら少しばかりマシだ。軽い挨拶ついでに、頼んでみるのも悪くないかもしれない。

(…気は進まないけど)

軽い挨拶ついでに、ねぇ。
村にいた頃の自分では明らかにない発想だ、と自嘲気味に唇を釣り上げて、夏野は玄関に足を向けたのだった。









部屋を出て直ぐ隣のドアの前に仁王立ちした夏野は、ゴクリと唾を飲み込んだ。押すのか、このインターホンを。やはり目の前にすると回れ右したくなる。元々、人に何か頼ることも苦手な夏野だった。迷えば迷うほど億劫な作業である気がしてきて、インターホンに伸ばしかけた指を引っ込めようとした、その瞬間だった。


「―――いだっ…ッ!」
「うおお?あれ、どちらさん?」

ガツン。鈍い音を立てて、今の今まで目の前で対峙していたはずの無機質なドアは夏野の額に見事な体当たりを決めてきた。そして、その衝撃の後に夏野に降ってくるのは、鋭い痛みとは真逆のぽわぽわした脳天気な男の声。

「あー、わかったぞ。今日引っ越してきてた隣の人だな。ところでさっきすげぇ音してたけど大丈夫かあ?…てか、こんなところでうずくまってどーした。大丈夫か?」
「…いや、あの、」

(どうしたも何も、あんたのせいだろがっ…!)

そう吐き捨てたい気持ちをぐっと堪え、額を擦りながらふらふらと立ち上がる。あわわ、と何やら慌て出した目の前の男を、夏野は初めてじっくりと眺めることになった。

「わりぃ、もしかしておれのせいだった?いきなり開けちゃったからなー。痛かったよな、ごめんな?」

割と肩幅のある、しっかりした体つき。声と同じ持ち主なのがよくわかる、ほわほわとした栗毛はいろんな方向に跳ねている。夏野よりも頭一つ分くらい背が高いようだが、今はしょげたように背が丸まっていた。垂れた目尻がさらに下がっている。

(なんなんだ…凄く大きなミスを犯した気がする)

人選ミス、というよりは、それ以前の問題。この人間からはものすごく面倒な臭いがぷんぷんする。思い出すのは村の者達だ。何かにつけて様子を探る好奇の目や、都合のいいお節介。どこか、あれに似た臭いがする。
悩まずにすぐ引き返しておけば良かった。こうなったらさっさと用を済まして引き上げるしかない。

「…大丈夫です。あの、その音のことなんですけど」
「おお、なんか割れた?ビンとか皿とか」
「はい。それで…今日越してきたばかりで何も片付ける道具が無くて。掃除機とか貸して頂け――」
「そりゃあ大変だ。どれ、おれも手伝うよ、片付け」
「――ると有り難いんですけど…って、は?」

ずかずか男が向かっていくのはすぐ隣の自分の部屋。…ん?自分の部屋?待て待て。冷静になるんだ。
ガチャリ、と男によって開かれた扉は、まさしく今しがた自分が出てきた結城夏野の部屋だった。

「…おい、ちょっと!人の部屋に勝手に入って片付けてくれなんて誰が頼んだ」
「ほえ?今有り難いってゆったろー?おじゃましまーす」
「人の話聞いてたか!?俺は「荷物少なくねぇかー?」…って聞いちゃいねぇ…」

初対面の、しかも相手は自分より年上のようだといえども、この振る舞いには夏野も黙っていられない。ここはあの村じゃあるまいし。何だって同じ思いをしなきゃならないのか。そう思考を巡らすうちに、「あちゃー、綺麗に割れたなぁ」粉砕した皿の前に彼が立つ。

「怪我なかったか?…んと、名前は?おれ、武藤 徹」
「…」

ぎくり、と身が強張る。この時が来た、と夏野は人知れず眉を顰めた。夏野にとってはこの作業は、初対面の人間との間に立ちはだかる、必ず乗り越えねばならない大きな壁なのだ。

「…結城」
「ゆうき?下の名前?」
「…いや。名字だけど」

口にした後で後悔した。ただの隣人だ、結城を名前だと誤解させておく位、何も問題はなかったろうに。馬鹿正直な自分にうんざりしてしまった。

「なら、下は?」

くるり、夏野の方を振り返って男、武藤がにこにこと人の良い笑みを浮かべている。きっと根が悪い人間では、ないのだろう。それは夏野も根本的なところで理解できていた。良く言えば親切で、人懐っこい、憎めない部類の人間。だがそれが夏野にとっても言えるのかと尋ねられれば。
―――あぁ、これから、いや、これからも、面倒なことになりそうだ。


「…夏野」

地面に吐き捨てたように名を告げた夏野に、武藤徹は悪意とはまるで無縁の、ことさら大きな笑みを向けて、いい名前だなぁ、と返すのだった。




夏野はもっと男前。徹ちゃんはもっと人の話聞ける子^p^





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