文 | ナノ


existence


「らしくないな」

一人、ぽつりとこぼす。

「つーか、俺らしいってなんだよ」

むしゃくしゃして頭をかく。

そんな事をしても答えは出ない、
分かっているから余計にむしゃくしゃする。

ふん、と息を吐いて
冷たい空気を少し吸い込む。

見上げれば濃紺の夜空。
澄んだ空気は星々をより輝かせている。

そしてそこに、欠けた月が、ひとつ。

ふわり、と風に乗って、背後にある扉の方から優しく甘い香りが漂う。
今日は唯織が珍しく台所に立っている。
今ではほとんど使われていないそこで、毎日のように唯織の後姿を見ていたのは、もう十何年も前のことだ。

『今日は特別な日なので』

そう言って柄にもなく焼き菓子を作り始めたのは、数十分前のこと。

どういう風の吹き回しかと、何かの実験台にでもされるのかとも思ったが、唯織は表情こそいつもと変わらないものの、雰囲気が少し違った。
まるで……遠い遠い昔の、彼の幼い日を見ているような気さえするくらいに、どこか楽しそうにしているから――少し気味悪いが――放っておく事にした。

(つーか、あいつが何を作ろうと関係ないが)

「……らしくない」

再び空を仰ぐ。
頭上には、欠けた月。
もう夜も更ける。

ヴェルはそろそろ帰ってくる頃だろうか。

ただいま。あと何回それが聞けるだろう。
おかえり。あと何回それを言ってやれるのだろう。

唯織の言う特別な日が何なのか、自分には分からないが、
ヴェルは知っているかもしれない。
帰ってきたら聞いてみるか。
そんな事をぼんやりと考えながら、目線はまた夜空を泳ぐ。

何度見上げても、月は欠けたまま。
何度目かには満ちているとでも、思ったのだろうか。
満ちていたなら何か変わるとでも、思ったのだろうか。

(――なぜ?)

ばかばかしい。

怒りとも、悲しみとも違うそれは、この心を苛立たせ、ざらつかせ、
瞬く間に全てを持っていこうとする。

そんな感情は無駄だと、分かっているのに。
自分には持ち得ないと、思っていたのに。

それでもあの月を見上げるのは、
諦めきれないからだ。

ばかばかしい。

やがてこの手で壊すことになるのだろう、懐かしいものたち。
ずっと前にも何か、大事なものを壊してしまった気がする。
思い出せない癖に、この胸はただ痛い。


「……懐かしいなんて、言えるのかよ……」

(壊したのは誰、だった?)

欠けた月を見上げても、答えなどない。


今日はこれで最後だ、と目を伏せて、
ぬるい、一滴の涙を頬に伝わせてやる。

その、寂しさを
そっと、なぞるように。










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20120131





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