静雄の務めるバーに行ったのは、気まぐれだった。渡さなければいけないものがあったのだが、それは別に四木を介してでも構わない。なのに、自身の手で渡そうと思ったのは、やはり気まぐれである。気まぐれと、若干の興味だ。普段の平和島静雄の姿を見てみたい、という程度の。 臨也は普段は新宿に居を構えているが、池袋でも活動するので、池袋駅周辺の地理にも疎くはない。池袋西口を少し進んだところにある小さなバーで、カウンターのほかは、ラウンジの席がいくつかある程度だ。客は10人程度だが、すでに店内はいっぱい、という印象を受ける。だが、ゆるやかなジャズなどが流れていて、雰囲気はけして悪くはない。 静雄がいるカウンターの席に腰をかけたとき、ようやく静雄は臨也をみた。臨也が入店したときも、妙に不器用にリンゴのカッティングに精を出していたのだ。他の店員が対応していたとは言え、ここまで客に無頓着では客商売としては差し障りがあるのではないだろうか。 「手前…!」 静雄は臨也を見て、嫌悪感を露わにした。だがすぐに、他の店員や客の視線を気にしてか、声を抑えて「何しに来やがった」と言う。額に血管が浮いていた。 「ちょっとお酒が飲みたくなっただけだよ。あとこれを渡そうと思ってね」 臨也はバッグからシルバーの携帯電話を取り出して、他の店員の視線を気にしながらも素早くカウンターにそれを滑らせた。 「何だ?」 「見ての通り、携帯電話」 ただし、ふつうの携帯電話ではない。一見するとよくあるモデルだが、若干改造を加えている。盗聴防止を相当強化してあるのだ。それは四木からの命令でもある。 「俺の連絡先と、四木さんの連絡先は登録してある。逃走中は、その携帯電話を使って」 「俺の携帯電話は」 「持ち歩かないで。下手にGPSが搭載されている携帯電話は邪魔なだけだから」 静雄は眉根を寄せた。不便だと思ったのだろう。 いつまでもぼそぼそと会話をしている二人を、他のバーテンダーが不思議そうに見ている。臨也はそれをごまかすために、適当なカクテルを静雄にオーダーした。静雄は何か言いかけたが、黙ってリキュールの瓶を持ち上げた。そのまま流れるような仕草で、透明なグラスにジンとトニックウォーターを手早く注ぎ、ステアする。へえ、と臨也はほんの少しだけ感心した。 臨也の脳内に入っている情報では、静雄は高校時代から喧嘩に明け暮れ、高校卒業後もしばらくは定職にはついていなかった。荒れた性格で、荒れた生活をしていたはずだ。だが今臨也の前でカクテルを作っている静雄の仕草は、洗練されたバーテンダーのそれだった。バーテンダーの仕事もその場しのぎの職だろうと思っていたが、どうやらそんなこともないらしい。 透明度の高いカクテルを見ている静雄の瞳は、穏やかで、それ以上に真摯だ。とても昨夜、若者の首をつかみあげていた青年と同一人物には見えなかった。そもそも静雄は、一見するだけなら、派手な金髪と長身という特徴を除けば、多少見目のいい青年にしか見えない。そうしているとただの人間みたいだな、と臨也は思う。それから、入店したときの静雄の不器用なナイフの使い方を思い出して、苦笑する。ただの人間、という言葉に補足するなら、ただの、不器用な人間、というところだろうか。 「何だよ」 どうやら完成したらしいカクテルを差し出しながら、静雄が気色悪そうな顔をしている。失礼だな、と思いながらもその冷たいグラスを手にしたそのときだった。ばん、と派手な音をたててバーのドアが開いた。臨也も静雄も反射的に入り口を見て、硬直する。いかついスキンヘッドの男が、店にずかずかと入ってきていた。続いて、その男とおそろいの、着崩したスーツを身にまとった男が数人入ってくる。いかにもなチンピラだが、恐らく例の組織の人間だろう。 悪い予感がする。 「平和島静雄はどいつだ」 野太い声で男が尋ねる。予想した通りの言葉だった。どいつだ、と尋ねておきながらも、静雄の容姿は知っていたらしい。入ってきた男は店内を軽く一瞥すると、すぐに静雄のいるカウンターに向かって歩いてきた。臨也は急ぎ、店内のざわめきに乗じてカウンターから席を立って、騒然とする店内の客に紛れ込んだ。臨也の顔はそこそこ知られている。ここで臨也と静雄が顔を合わせていることを知られるのは厄介だった。 「なんか用すか」 意外にも冷静な声で静雄が応じた。 「例のもん、持ってんだろ。おとなしくだせ」 威嚇するような低音で代表格らしきスキンヘッドの男が言う。 もしかしたら静雄の方にも、あまり職場を壊されたくないという思いもあったのかもしれない。そっと出口を窺ってから、堅気ではなさそうな人間に逃げ道を塞がれているのを確認して、人影に隠れた臨也を見た。どういうことだ、とその視線が語っている。予定では、例の情報が流されて静雄が追われることになるのは、3日後だったのだ。その日からは職場も休んでいるはずだった。 俺だって知らないよ。そんな意思表示として臨也は軽く肩を竦める。その仕草が癪に障ったらしく、静雄がこめかみを引くつかせるのが見えた。 「てめえ、どこ見てやがる!」 ろくに相手にされていない雰囲気を感じ取って、いかつい男がバーカウンター超しに静雄の襟首を掴みあげた。静雄は、面倒だ、とでもいう仕草で男の手を払う。そんな軽い仕草には似合わない鈍い音と、男の痛々しい悲鳴が店内に響いて、幾人かの客が息を飲む。臨也は、あーあ、と思っていた。あのスキンヘッドの男も、相手が喧嘩人形との二つ名をもつ平和島静雄であることを失念していたわけではないのだろうが、静雄の姿を見て、危機感を維持することは困難だ。油断していたのだろう。 「……っ! 野郎、抵抗する気か!」 他の男たちが色めき立つ。静雄はいっそ冷たいような目をして周囲の人間を一瞥し、ため息を吐いた。「例のもんてなんすか。俺には分かんないです」 今更そんな言葉を信じられると思っているのか、と男の一人が言葉を返す。静雄は多少苛立ちを見せながらも、「ここじゃなんなんで」と言いながら店の入り口を顎で示した。「ちょっと外で話しましょうか」 静雄は、店の奥に身を潜めている臨也に軽い一瞥を寄越してから、ぞろぞろとチンピラ風の男たちを引き連れて店から出て行った。その直後、鈍い音と短い悲鳴が入り口の方で連続して上がり、すぐに静かになった。静雄が適当に片を付けたのだろう。だがそれからしばらくしても、静雄が戻ってくる気配はなかった。捕まったとは思えないので、恐らくそのまま逃走することにしたのだろう。 男たちが去ったことで凍りついた雰囲気がほどけ、ざわめきを取り戻した店内で、臨也は携帯電話を取り出して四木の番号を呼び出した。コール音は、2回ほどだ。 『はい』 「随分と予定が狂っているみたいですけど?」 諸々の挨拶は省略して本件に入る。四木も心得ているようで、一つ息を吐いて『こちらから連絡するところでしたよ』と言ってから、『部下がちょっとしたぽかをやらかしましてね。数日分、計画が前倒しになってしまいました』とだけ答えた。詳細を聞いてみると、静雄が証拠を持っている、という偽の情報が計画より早く相手に伝わってしまったというだけのことだという。 「それなら問題はないですね。これからしばらく、俺が彼をサポートしますよ」 本意ではないが。という思いを込めて苦く言うが、四木はそんな臨也の真意を軽く無視して『お願いします』と返してきた。臨也は肩を竦めた。 「ただ、これ以上の計画変更は御免蒙りますよ。俺にもフォローできない。今回は、たまたま彼に連絡用の携帯電話を渡した後だったから…」 良かったものの、と言葉を続けようとして、ふと悪い予感がして臨也は混乱しているバーカウンターに目を向けた。 『折原さん?』 「すみません、また後ほど連絡します」 不審げな四木に構わず、臨也は一方的に電話を切って、先ほどまで自身が座っていたカウンター席に急ぎ向かった。その席からカウンターを覗き込み、臨也は毒づく。 「あんの、馬鹿」 単細胞。筋肉馬鹿。そんな罵倒をいくつ並べたところで足りない。 カウンターには、先ほど臨也が滑り込ませた携帯電話がしっかりと残されていた。 普段から使用している携帯電話なら静雄もまだ持っているだろうから、四木を通じて連絡を入れてもらうことも考えたが、まだ静雄がこのバーを出てからそれほど時間がたっていないこともあり、臨也は自分で彼の後を追うことにした。バーから一歩でると、例のチンピラたちがアスファルトに倒れていて、何事かと野次馬が集まってきていた。だが見渡してももうすでに静雄の姿はない。 これから逃げるなら、路地裏を通って駅に向かうのが妥当だろうか。臨也は集まってきた人間の合間を縫い、ひょいっと路地裏に入り込んだ。臨也にしてはおおざっぱな見通しだったが、はずれてはいなかったらしい。そう進まないうちに、「やろう!」とか、「おとなしくしろ!」といったオリジナリティの感じられない罵倒が聞こえてくる。どうやらまた逃走劇の過程で喧嘩を繰り広げているらしい。 二つ目の曲がり角を、その声のする方に曲がると、ちょうど先ほどバーに入ってきたチンピラたちと同じような格好をした人間が複数見える。しかも、かなり人数が多い。ざっと見ただけで、8人ほど確認できた。こんな細い路地裏で、いっそ動きにくそうだ。男たちの真ん中にいる静雄は、チンピラ一人の襟首をつかみあげて、今まさに上方に投げようとしているように見える。だがその後ろから、別のチンピラがナイフを構えていた。臨也は舌打ちして、懐から自身のフォールディングナイフを取り出し、刃は出さないままチンピラに向かって投げつけた。 刃を出していなくてもそれなりの重量があるそれは、過たずにチンピラの手首にあたり、鈍い音を立てた。嫌な悲鳴があがる。その声にようやく振り返った静雄が、臨也の姿を認める。 「何だてめえ!」 突然の乱入者に、他のチンピラが色めきたつ。臨也は仕方なく、別のナイフを取り出して乱闘に加わった。 臨也が得意とする得物はナイフだが、体術もそれなりに会得している。そんな臨也の目から見て、平和島静雄の戦い方というのは、めちゃくちゃである。武術を学んだもののそれではなく、もっと荒々しく、それでいて隙も多い。 「ちょっと、右!」 他のチンピラを殴りつけるのに気を取られている隙に、別のチンピラがナイフを持って静雄に突進してくる。それに注意を促す目的で臨也が声を上げるが、静雄はそれを無視して目の前の敵を殴りつけた。当然ながら、チンピラが向けていたナイフが静雄の右腕に刺さる――はずだったが、その刃は静雄の上腕にほんの1センチも沈まずに止まった。 「は?」 ナイフを刺した男と臨也の声が重なる。静雄だけが淡々と、振り向き様にナイフを刺したはずの男の顔に肘鉄を食らわせていた。 噂には聞いていたが、なんてでたらめな体なんだ。あきれつつ、臨也は、今度は自分に向かって突進してくる男に体を向けてナイフを構える。その瞬間に、背後から何かが飛んでくる気配がした。 慌てて身を翻すが、多少反応が遅かったようで、何か重たいものがものすごい衝撃を伴って臨也の背中に当たる。その衝撃を殺しきれずに臨也は、自分に向かってきていたチンピラを巻き込みながら転がった。 何とか体勢を立て直しつつ、巻き込まれたチンピラのわき腹に拳を食らわせて沈黙させることに成功したが、さすがに背中が痛い。振り返ると、「あ」と口をあけていた静雄と目があった。自分のすぐ後ろには、臨也にぶつかってきたものと思しきチンピラが伸びている。静雄が投げたその男の体が、臨也に当たったのだろう。 「ちょっと! 周囲を確認して投げろよ!」 思わず文句を言うと、当の本人は、「うっせえな!」と逆ギレした。しかも、「手前が小さくて見えなかったんだよ!」との暴言つきである。臨也はけして大きくはないが、平均身長は超しているはずだ。さすがにそれには異論を呈したいところだが、また別のチンピラがこちらに突進してくるのが視界の端に写ったため、頓挫した。 そのチンピラの腹に膝頭をめり込ませながら、臨也はいらいらと唇を噛んだ。本当に、この平和島静雄という男は、気に入らない。 全員を地に沈めるのはそれほど大変なことではなかったが、さすがにそこそこ息が切れた。それを納めてから、今度こそ先ほどの暴言に対する抗議を行うと静雄に詰め寄ると、同じくかすかに乱れた息をついていた静雄も臨也をにらみつけていた。 「何の用だよ」 「あのねえ、俺はバカな君が置いていったこの携帯を……」 懐にしまっていた、静雄の為に用意した携帯電話を取り出したときに、ふとバイブ音が鳴り出す。臨也が握りしめた携帯電話ではない。臨也は自分の携帯電話を探るが、それも沈黙したままだった。 「もしもし。幽か?」 代わりに応じたのは、静雄だった。どうやら、静雄の持っていた携帯電話が着信を告げていたらしい。危険な組織から追われているこの状況で、簡単に電話に応じるなよ。そんな文句を言ってやりたかったが、静雄の顔を見上げた瞬間に、喉まで出かかっていた言葉が消えた。臨也はぽかんと静雄の様子を見る。 「そっちまで連絡行ったのか。悪かったな。仕事、邪魔しなかったか?――いつもの喧嘩だ。気にすんなって。――ああ、けがなんてしてねえよ。大丈夫だ」 そんな顔もするのか。いくつもの文句の代わりに生じたのは、そんな他愛もない感想だった。それほどに今の静雄の表情は、普段の彼からはかけ離れたものだった。 幽というのは、弟の名前だったはずだ。その程度のことならば調べている。日本人なら知らないものはいないような美形の大物俳優の本名である。そのインタビューの内容などから、仲がいいのだろうという予想はしていた。だが。 こんな顔もするのか。再び、そんなことを思う。それほどに静雄の今の顔は臨也には衝撃的なものだった。携帯電話で喋っている彼は、頬を少しだけゆるめて、優しく笑んでいる。柔らかくて、そのまま溶けてしまいそうな笑みだった。バーでカクテルを作っている静雄を見たときにも思ったが、この男は存外、穏やかで優しい顔をする。 「――ああ。幽も、体には気をつけろよ。また連絡する。じゃあ、またな」 電話を切った静雄は、ようやく臨也が手にしている、バーに置き忘れていた携帯電話を見た。それから、まだ衝撃から抜けきれずにたたずんでいる臨也を見て、ちょっと困ったような顔をしながら唇を開いた。「なあ」 「何」 「その携帯に、幽の……弟の番号、登録していいか」 先程、自分よりも遙かに体格のいい男を片手で放り投げていた男と同じ人間とは思えないような顔で頼んでくる静雄を前にして、臨也は、言うはずだった文句をすべて飲み込み、勝手にすれば、と答えることしかできなかった。 (フォエニケ・ラプソディー) (2011/11/15) |