エレジアコ | ナノ



※トラジェディーの続編というか静雄サイドの話です。トラジェディーを先に読むことをお勧めします。



最近よく夢を見る。幸せな夢だと思うのに、目覚めると妙なもの悲しさが残る。そんな夢だ。

「幸せな夢なんて、大抵は目覚めれば悲しいものじゃない?」
自分の幼馴染だったという闇医者が苦笑しながら言う。この男の風体はあまり信用できないしその言動にいらだつこともあるが、何故かかつての自分は、この男のことを嫌ってはいなかっただろうと漠然と思った。記憶を失っても持ち続けている野生的な勘だろうか。
それを言うと、新羅は苦笑した。
「君は確かに昔から勘が鋭かったけれど、でも私が思っていたよりずっと人間的だったみたいだ」
「そうか?」
「そうだよ。臨也とは、うまくいっているんだろ?」
「……ああ」
何故ここで臨也の名前が出てくるのかが分からない。訝りながら頷くと、新羅はやはり苦笑した。
「君の勘は、やっぱり意外にあてにならないみたいだね」
この分では、かつての君が僕をどう思っていたのか知れたものではない、と言いながら新羅が笑う。静雄は何も分からないまま、ただ笑われているという事実に苛立ち、新羅の顔の前で手のひらを握りしめる。だが暴力に訴えるより先に、ふと新羅が真顔になった。新羅の真顔と言うのは、静雄の知る限りでは貴重である。
「あるいは、君の深層心理が、君の持つその素晴らしい勘の良さを抑え込んでいるのかもしれない。思い出さなくてもいいように。君が、今の臨也との関係を維持しながら生きていけるように」
すっと瞳を細めながら新羅が言う。静雄には、彼の言わんとすることが何も理解できない。けれど、新羅の視線がどこか哀れんでいるように見えて、ひどく心がざわめいた。



臨也との関係は、ある意味でとても良好だ。
さすがにもう慣れてきた新羅の問診を終えて、静雄はゆっくりと池袋の街中を歩きながら考える。静雄は事故で記憶障害を持つようになった。知り合いに関する多くの記憶を失ってしまったのだ。家族や職場の上司、友人たちが静雄を見舞ってはそのうち戻ると慰めてくれたが、不安が消えることはない。
臨也は不安定な静雄を宥め、何も考えなくていいと促す。多くのことを忘れてしまい、まず何より自分自身が一番信じられない静雄のことを、他の誰よりよく知っているのだという。
「君のその力のことも、よく知っているよ。俺は君が人からどれほど離れた存在でも、君を恐れたり、君から離れたりすることはない」
澄んだ甘ったるい声で囁かれたそんな言葉を、静雄は信じたわけではない。けれど、どうしようもなくその言葉に縋ってしまったのは事実だった。自分自身の記憶さえ覚束なく、家族との距離感さえ掴めないような状況の中で、何があっても離れない、と言う人間の存在はそれだけで光を放つ存在だった。たとえそれが、まがい物の光だとしても、である。だから静雄は、ずるずると臨也への執着を深めていった。
だがそれでも不安が消えることはなかった。静雄が一方的に甘えているだけだ。こんな関係で、臨也は楽しいのか、と考えたことも一度や二度ではない。

「ねえシズちゃん、今ちょっと厄介な連中と揉めてるんだ。今度、君の力を借りてもいいかな?」
だからその言葉を聞いて、静雄はむしろ安堵した。これは対価だと静雄は思った。静雄が望むままに、臨也が自分を甘やかすことの対価なのだと思ったのだ。その分の対価を求められるなら、存分に甘えられる。だからすぐに頷いた。
臨也が少しだけ、うつろな目をしたことには、気付かなかったふりをした。



静雄はよく、臨也と殺しあう夢を見る。だがその狭間に、最近少し違う夢を見るようになった。こんな夢だ。
静雄はどこか、よく見る学校の教室のような場所で、安っぽい木の机に顔を伏せている。学校だ、とぼんやり思った。机に突っ伏している静雄は、眠っているわけではなかったが、どうしようもなく眠くて顔を上げる気力さえわかない。夢なのに眠いとはおかしな話だ。だがそんな夢なのだ。
うつらうつらと現実と眠りのはざまを揺蕩っていると、ふと人の影が近くにあることに気付く。すぐに静雄は、臨也だと気付いた。どうしてかは分からないが、静雄は臨也の気配だけはすぐに分かる。
臨也は、ただじっと静雄を見ているようだった。俯せた顔の頬のあたりに臨也の視線を感じる。熱さを感じるほどに、強い視線だった。静雄は起きない。すぐそばに臨也の気配を感じながら、静雄は突っ伏した体勢のままで臨也の様子を窺っている。
静雄は目を覚まさない。覚醒はしているが、起きあがることはしない。じっと瞼を伏せたまま、ゆるく穏やかな息を吐いて寝息を偽り、呼吸にそって背中を軽く上下させる。
臨也が静かに動く気配がした。次の瞬間に、頬にほんの軽い感触がある。臨也の指先が触れたのだと気付いた。胸の奥が、少しだけ熱くなる。
だが、それだけだ。臨也はそれ以上触れることはしないまま、すぐに静雄から離れていった。胸が、熱い。頬に熱が集まる。だが、離れて行ってしまった体温が、ひどく、悲しい。
その夢を、静雄はこう表現する。幸せで、それでいて悲しい夢だったのだ、と。

それはおそらく、以前の平和島静雄の記憶なのだろう。そう静雄は思い始めるようになった。




「君は苦いの嫌いなくせに、よく煙草なんて吸えるねえ」
臨也の部屋で煙草にかちりと火をつけたら、臨也がそんなことを言う。
「あー……、慣れてるからかもしんねえけど、これはあんま苦く感じねえ」
「ブラックコーヒーは飲めないのにね」
部屋の主は、パソコンに向かいながら、からかうように目を細めている。それはそうだが、静雄にとっては煙草というのは、食事と同義だ。自然に体が欲するのだ。それをうまく言葉にすることができないまま、煙草の煙をふうっと吐き出していると、ふと疑問が生じた。
静雄は、確かにブラックコーヒーはそのままでは飲めない。けれどそれを、臨也に告げたことがあっただろうか。考えてみると、記憶をなくした静雄が臨也の部屋を訪ねるようになってからずっと、臨也は静雄にブラックコーヒーを出したことはない。いつも出されるのは、ココアやカフェオレなど、甘党の静雄の味覚に合ったものばかりだ。
「……臨也」
「何?」
デスクにノートパソコンを広げ、何か仕事をしている臨也に声をかける。臨也は静雄に応じながらも顔を上げることはせずに仕事を続けている。
「前の俺も、この部屋によく来てたのか?」
問いかけると、それまで心地よく感じるほど規則正しく続いていた、キーをたたく音が唐突に止まる。見ると、臨也は少しきつい目をして静雄を見ていた。
「どうして?」
「いや……、俺がブラックコーヒー飲めねえって、知ってたから」
記憶を失う前の静雄と臨也がどういう関係だったのか、静雄は正しくは知らない。高校時代の同窓生で、多少因縁があったと新羅から聞いているくらいだ。
静雄は自身が甘党であることを公にしたいとは思っていない。自身の見た目で大の甘党だということがちぐはぐだということを理解しているからだ。だから臨也が静雄がブラックコーヒーを飲めないことを知っていたということは、それなりの関わりがあったのかもしれないと思っただけだ。
「前のシズちゃんは、ここには来てないよ」
「そうなのか?」
「高校で3年間も一緒に過ごしたんだ。そのくらい知っていても不思議じゃないだろ?」
納得できない静雄に、諭すような甘い声で臨也が言う。静雄はその声を聞くたびに、胸の奥がわだかまるように感じる。臨也の甘い声はけして嫌いではないが、大切な何かをうやむやにされているように感じるのだ。
「シズちゃん」
黙り込んだ静雄の頬を、いつの間にか近づいていた臨也の指先が触れる。静雄は火のついた煙草を灰皿に置いて、あらがわずに臨也の顔を見る。臨也の少し赤みがかった瞳は、こんなに近くにいてもその奥底は覗けない。その顔が余りに近くなったので、静雄はおとなしく瞼を伏せた。
一度目は、軽く触れる程度のキスだった。だが二度目はそれよりもずっと深い。ぐずぐずと思考が溶けていくのが分かった。このまま理性を失ってしまう前にと、静雄は軽く臨也の肩を押す。
「……どうかしたの?」
「なあ…。前の俺にも、こんな風に触れたことはあったか?」
尋ねると、臨也は軽く目を見張った。それから少しの間だけ沈黙して、ふっと皮肉な笑みを唇にたたえて答えた。
「なかったよ」
皮肉なようでどこか寂しげな笑みだと、静雄は思った。まだ煙を立ち上らせている煙草のせいで、視界が少しだけ霞んだ。



静雄はぐだぐだと考えることが苦手だ。もともとの思考回路があまり複雑にはできていないのだろう。さらに今は、多くの記憶を失っていて何かを考えようとしても靄がかかったように思考のところどころが途切れてしまう。
それでも静雄は、判然としない自身の思考に苛立ちながらも臨也のことを少しだけ考えた。
新羅の言葉によれば、静雄と臨也は高校時代の同窓生で、卒業後も多少の因縁を持っていたらしい。だがその程度の相手だったならば、臨也はどうして今も静雄に関わり続けているのだろうか。自身でも制御できないもろい理性と恐ろしい力を持つ静雄に、どうして「君を恐れたり、君から離れたりすることはないよ」と言って甘やかすのだろうか。
臨也がろくでもない仕事をしていることは知っている。静雄は、そこまで愚かではない。そのろくでもないことに、静雄の力を利用したかったのだというのなら、それでいいのだと静雄は思っている。その対価として臨也が静雄を側に置き抱いて甘やかすのなら、それはそれでいい。だがそれなら、何故ときどき、静雄を見てあんあに虚ろな表情をしたり、寂しげな笑みを見せたりするのだろう。
静雄はいらいらと煙草の灰を灰皿にすり付けた。


その日静雄は、夢を見た。その日見た夢は、いつもと少しだけ違っていた。こんな夢である。
ひぐらしのこえが寂しく降ってくる、見覚えのあるグラウンドの木陰に、やはり見覚えのある制服に身を包んだ静雄が座り込んでいる。酷く疲れていて、目を開けることが億劫だ。そんな静雄のもとに、近寄ってくる気配がある。臨也である。静雄がそのまま瞼を伏せていると、彼はやはり静雄に触れてこようとする。そこまではいつもの夢とそれほど変わりはしない。けれどその日静雄は、思い切って目を開けたのだ。
「…何してんだ、手前」
その瞬間、臨也は静雄に伸ばしていた手をぱっとひっこめた。夢の中の静雄は、臨也を思いきり睨みつけていた。だがその奥底で、ひどく落胆しているのが、それを見ている静雄には分かる。
「とうとう死んだかと思ってね。どうやらぬか喜びだったみたい」
臨也は好戦的な笑みを湛えて、静雄にナイフの刃を向けていた。臨也は、意識のある状態の静雄に触れてくることはしない。それなら、手前のものになってたまるか。そんなことを強く感じている。たぶん、泣きたくなるような悲しさが、あった。
そんな高校生の静雄の姿を見ながら、今の静雄はこう考えた。寝たふりをしている静雄の頬に、臨也が触れてきたことを、かつての静雄はあんなに喜んでいた。だが臨也は、けして起きている静雄に触れてくることはしないのだ。そういう関係だったのだろう。そういう関係しか、築けなかったのだろう。
静雄は臨也に、触れてほしいと望んでいたのか。
ひどくもの悲しい気持ちで、静雄は目を覚ました。



仕事の帰りに、静雄は臨也の部屋を訪ねた。早い時間だと、秘書らしき女性がいるが、さすがにもう22時に近いので、臨也以外に誰もいなかった。
「また、何かあったの?」
臨也はいつも通りの不透明な笑顔で静雄を迎え入れる。小さく息を吐いて、静雄は瞼を閉じた。
「ああ」
そう、と応じて、臨也は静雄の体をゆるく抱きしめる。それはかつての静雄が、どうしようもなく望んでいた抱擁だったはずだ。じわりと瞼の奥が熱くなった気がした。
「…臨也」
「何、シズちゃん」
甘ったるくぐずぐずに溶けた空気を崩さないように臨也を呼ぶ。顔をのぞき込んでくる臨也の目を見ながら、静雄は唇を開いた。
「手前は俺の記憶、戻ってほしいか?」
臨也は、はっきりと動きを止めた。沈黙は、しかし短いものだった。臨也はまた唇に皮肉な笑みをたたえて、首を横に振る。
「……そんなこと、ないよ」
今のままのシズちゃんでいい。甘ったるく濁った声で、臨也は言う。静雄は、そうか、とだけ答えた。それ以上に聞くことは何もない。この問いだけで、臨也の嘘に気付いたからだ。
臨也が欲しかったのは、かつてのあの静雄だったのだろう。だが、どうしても手に入れることはできなかった。そしてかつての静雄も、自身に触れてくる臨也の指先を欲していた。だが、手に入れることはできなかった。そんな愚かな関係しか築けなかったのだ。

新羅は言った。「あるいは、君の深層心理が、君の持つその素晴らしい勘の良さを抑え込んでいるのかもしれない。思い出さなくてもいいように。君が、今の臨也との関係を維持しながら生きていけるように」。
静雄と臨也をかつてから知る怪しい闇医者の言葉は、実に見事に的を射ていた。ほとんどの記憶を失った今の静雄のあり方を、かつての静雄は望んでいたのだ。臨也との関係をリセットした静雄ならば、臨也が触れてくるとどこかで感じていたのだろう。そしてそれはある意味で思惑通りだった。

「馬鹿だな」
臨也の首筋に額を当てて、溜息をつくように、小さくつぶやく。「え?」と不思議そうに臨也が問いかけてくる。「なんでもねえよ」と応じながら、静雄は瞼を伏せた。
静雄は臨也の体温を手に入れたかった。静雄には分かる。大切な人々の記憶も、臨也と過ごしてきた記憶も失って、その代わりに臨也のこの体温を手に入れた。一方で臨也は、自分の思うさまに動くまさに人形のような今の静雄を手に入れた。それなのに、互いに満たされることはない。
臨也が欲しかったのは、今の自分ではない。そのことに静雄は気付いている。けれど、今の状態のままで臨也が静雄を手放さない限り、静雄は恐らく、かつての記憶を取り戻すことはしないだろう。ずっと渇望してようやく手に入れたこの関係を、手放したくはないからだ。
間近にある臨也の体温が、ひどく熱くて、ひどく悲しい。ぐっと体を寄せる。臨也は少し当惑したようだが、すぐに静雄の背に腕を回してきた。だが、それでさえ互いの虚しさを埋めることはできない。
自分たちは馬鹿だというよりも、むしろ哀れなのかもしれない。ふとそんなことも思う。ふたりの想いは、きっともう、交錯することはないのだろう。
まだ煙草に火をつけていないのに、煙が沁みたように目が熱くて痛かった。


(エレジアコ)
(2011/10/23)





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