彼が視力を失ったのは、なんてことのない事故みたいなものだ。 だが事故というには、きっかけが人為的に過ぎる。臨也が静雄を潰すために仕向けた数十人のうちの、名前も知らないただ一人の男が持っていたナイフが偶然にも彼の目に達したらしい。ナイフには毒が塗られていた。 たった数十人程度で、静雄をどうにかできるとは思っていなかった臨也にとってそれは驚きのニュースであり、朗報であると言って良い。 ただし、そこはさすがに静雄のことなので、視力を奪われたからと言って屈するはずもなく、池袋最強に傷をつけたと興奮し奮起する数十人を綺麗にアスファルトに沈ませてから新羅のもとを訪ねたという。 『そのときはまだ視界がかなりぼやける程度だったみたいだよ。それからだいぶ毒が回ってね、うちに来たときは殆んど何も見えてなかったみたい』 「それで? 失明したの?」 『そうだね、彼が普通の人間なら失明してたね。というか、普通の人間だったら間違いなく即死してたけどね、はは』 「あはは。まあたかが人間用の毒ごときで、シズちゃんを殺せるはずないよね」 『視力も戻るよ、多分ね。まあさすがに、しばらくは何も見えないと思うけど』 「ふうん、戻っちゃうのか。残念だなあ」 心底そう呟くと、電話越しの闇医者はひどく楽しげに、『でもいい機会だろ?』と尋ねてきた。 『今なら、結構簡単に殺せるんじゃないの? 』 「どうかな。あのシズちゃんだし」 本当に忌々しいよね、と臨也が吐き捨てると、旧知の闇医者は相変わらずの含み笑いで、『じゃあ伝えたから。それだけ』と言って一方的に通話を切った。 新羅はけして臨也の味方ではない。かといって、静雄の味方でもない。あの闇医者が味方をするのは世界で唯一、首のないライダーだけだろう。その新羅が臨也に静雄の情報を流した理由は一つ、そのほうが面白いと思ったからに他ならない。 上手く乗せられて新羅を面白がらせるようなリアクションを取るのは多少癪だが、確かに視力を失った静雄、というのは、大変興味深い。 あの、まるで研ぎ澄まされた刀の切っ先を突きつけるような眼光をなくして、どんなうらぶれた姿で今を過ごしているのだろう。考えるだけでぞくりとする。 「どこにいるのかなー?」 パソコンに向かって、静雄の行方を捜す。情報はすぐに入ってきた。彼は今、弟のマンションにいるらしい。 普段静雄が居住しているアパートとは異なり、トップアイドルである弟の住む高級マンションは防犯性の高いオートロック完備である。臨也のように、針の穴をつくよりもっと微に入り細に入り情報網をめぐらせている人間にとっては、ずっと侵入しやすいものだ。 「シズちゃんを守りたかったんだろうけど、仇になったね」 兄への敬愛だの思慕だのを隠そうともしない、黒髪の端正な顔の青年の姿を思い浮かべて臨也は薄っすらと笑う。 さて今日はいっそいとおしいほどに憎い彼にどんな言葉を投げつけよう。金髪の青年を思い浮かべながら臨也は立ち上がった。 高級マンションの最上階、無駄に豪奢な柱に寄りかかり、アイドルの住む部屋の扉を観察していると、そう間を置かずにそれが開いた。 「兄貴、何かあったらすぐに携帯に電話して」 「分かってるって。ほら急げよ、撮影が始まるだろ」 「…やっぱり今日は休もうか」 「そんなわけいくか。俺は大丈夫だからさ」 表情の乏しい俳優と、その兄がそんな会話を繰り広げているのを、臨也は死角で聞く。そっと彼らの様子を窺うと、真っ白な包帯に視界を覆われた静雄が、弟を元気付けるようにその頭を手探りで探し出し、軽く撫でていた。 目を隠していてさえ穏やかな表情をしていると分かるような口先が、「幽」と弟の名を軽やかに紡ぎ、「ほら、行けよ」と優しく促している。 臨也は、あんな風に穏やかに彼に微笑まれた記憶は、ない。出会ってからの年月はけして短くはないが、平和島静雄はいつだって臨也には、すべてを切り刻みそうな憎しみを宿した鋭い視線しか向けない。 出会った高校の頃から、それは変わらない。静雄は、臨也以外の人間、例えば門田や、新羅に対しては、それなりに穏やかな表情を向けることがあることは知っていた。ただ唯一、臨也にだけはその表情を見せたりはしない。それだけのことをしたし、そんな関係を築いたのは他ならぬ臨也だ。 柱に軽く凭れながら、臨也は考える。臨也を臨也と視覚から認識できない今ならば。 (今のシズちゃんなら、俺にもああいう表情を向けたりする?) それとも、人間離れした直感を持つ彼は、視覚をなくした今でも、臨也を前にすれば、あの鋭いばかりの表情を見せるのだろうか。 同じような問答を2・3回繰り返して、ようやくアイドルの弟は仕事に行った。平和島幽が乗ったエレベーターの扉が閉まるのを確認してから臨也はようやく柱の影から出て、扉の脇に付けられたインターフォンを押す。すると当然のように、静雄は何の疑いもなく扉を開けた。 「幽? 忘れ物か?」 向けられたことのない、まるで一端の人間みたいな表情を浮かべた静雄が目の前にいる。普段なら、「臭ぇんだよノミ蟲が!」とか言い放つ唇が、僅かにほころんでいる。 臨也は忍ばせていたナイフの刃を静かに出す。そんな気配に気付くことさえなく静雄は、少し首を傾げて「幽?」と呼びかけてきた。 (他の人間には、そんな風に優しげな口元で、名前を呼ぶんだ?) 静かな、だが重い苛立ちが沸いてきて、いつも以上にひどく残酷な気持ちになる。 簡単に殺すよりも、このまま手首を縛って無茶苦茶に体内を掻き乱してしまおうか、と考えて、静雄の顔をすいっと撫でた瞬間。それまで穏やかだった静雄の気配が一変した。 「てめえ、…臨也、か?」 包帯をしていてさえ、鋭くなった眼光が伝わってくる。憎くてたまらない相手を、視線だけで射殺すような、馴染み深いそれ。 しかしそれを感じた瞬間に、思考を埋めていた苛立ちが、歓喜に変わったのを臨也は自覚した。 (そうだよシズちゃん! 俺だけには、狂おしくも反吐が出るほどに綺麗な、その憎しみをこめた顔を向けていて!) 例えるなら、そう。それはまるで恋が成就したような、そんな歓びだった。 (タランチュラの恋文) (2010/05/14) |