トラジェディー2 | ナノ


頭の打ち所が悪かったとしか言いようがない、というのが旧知の闇医者の診立てである。
事実、外傷はほぼなかった。だが静雄がどんなに頑丈な体を有していても、脳が受ける衝撃は常人とそう大差はない。
静雄は事故の衝撃で記憶障害を起こし、親しい人間幾人かの記憶をすべて失ってしまったのだ。両親、弟である平和島幽、新羅、セルティ、門田、サイモン、上司である田中トム。そして、折原臨也。顔見知り程度の人間の記憶は残っていたが、関わり合いが深い人物の記憶は一斉に失ってしまった。
「ふとした拍子に戻ることもあるけれど、生涯戻らない可能性も高い。無理に思い出させる方法はないし、こればかっかりは僕にも五里霧中だね」
新羅は肩を竦めて軽い口調で言ったが、その瞳は確かに悲しげな色を湛えていた。
臨也はその隣で、口の端を持ち上げてひっそりと笑った。これはいい機会だと思ったのだ。平和島静雄を、臨也が望むままに手なずけるいい機会だ、と。
かつての静雄は、臨也の駒には適さない存在だった。駒として動かすにはあまりに行動が突飛で奇怪で、臨也の思惑通りに動いたためしがない。さらに、臨也の力で従わせるには静雄の膂力はあまりに強大過ぎた。
だが、臨也や、その他の関わり深い人間の記憶を失った静雄ならどうだろうか。頼るべき人間の記憶をことごとく失った静雄は、恐らく精神的にかなり弱っているはずだ。そこに付け込み、臨也に依存するように仕向ければあるいは、臨也に従順で、なおかつ強大な力を持った駒が出来上がるかもしれない。


「初めまして、シズちゃん」
そんな言葉で始まった、以前とは全く異なる関係は、まさに臨也の思惑通りに運んでいた。
親しい人間の記憶を失った彼に、どこまでも優しく接する臨也の存在は絶対的だったはずだ。
最初は動物的な勘で臨也を怪しみ牙を剥いていた静雄だが、誰のことを信用していいのか分からない状況に疲弊しきった精神状態ではそんな虚勢も長くは続かなかった。誰もかれもが壊れ物を扱うように深いところに触れず一線を引いて静雄に接する中で、臨也だけは「分かっているよ」というような顔をして接した。
その人外の域に到達した膂力も、身体も、その割に繊細な情緒も不安定な精神もすべて「分かっているよ」としたり顔で微笑む。不安の大きい人間ほど付け込みやすいものだ。
静雄が陥落するのに、それほどの時間は要さなかった。

すべてが思惑通りに動いているはずだ。臨也はそう思う。記憶の戻らない静雄は、どこまでも臨也に依存し、どこまでも臨也に従順だった。何か精神的なストレスを抱えたら臨也のもとを訪れるようにすりこみ、彼が臨也のもとを訪れるたびに何も考えないでいられるように抱いてきた。従順で愚かなパブロフの犬のできあがりである。あとはこの手なずけた犬を駒としてうまく使うだけだ。
すべてにおいて臨也の思い通りにはならない平和島静雄が消えた世界というのは、あまりに快適だ。それなのに。
「…くだらない」
時折そう吐き捨てたくなるほどの虚しさを、なぜか臨也は感じてしまっていた。


ひぐらしの鳴き声が、虚しさを煽る。静雄はまだ目を覚まさない。
夏の夕暮れは、空調設備の整ったこのオフィスにいてさえも蒸し暑く感じられる。ひぐらしの声が聞こえる夏の夕暮れ、隣に静雄がいる、というのは、そういえば初めてではなかったな、と臨也は記憶を巡らせた。あれは高校時代だった。校庭の隅の菩提樹の木陰に、静雄が座り込んでいた。
日が落ちて、緑の木漏れ日が暗さを増す。遠く、近く、ひぐらしの鳴く声が聞こえていた。木の幹に体を預けたままぴくりとも動かなその影に、眠っているのかと訝しみながら臨也は近づく。
どうやら喧嘩の後だったのか、白いシャツがところどころ砂埃で汚れており、金の髪に隠れがちな額に血の跡がある。傷が痛むのか、それとも日が落ちかけてもなお暑い夏に息苦しさを覚えているのか、静雄はじっと目をつむり、眉を寄せていた。或いは気を失っているのかもしれないと思い、その汗の浮いた顔に手を伸ばす。その時に、ふと声が落ちた。
「…何してんだ、手前」
気づくと、ぎらりと暗く燃える炎のような瞳が、臨也を射抜いていた。臨也はぱっと彼に近づけていた手を戻し、肩を竦める。
「とうとう死んだかと思ってね。どうやらぬか喜びだったみたい」
すると静雄は、はっ、と鼻先で笑い、ぐっと手のひらを握りしめた。臨戦態勢の一歩手前である。
「そうそう手前の思い通りになってたまるかよ」
強い眼光でまたきつく睨まれる。おとなしげにも見えるこげ茶色の瞳が、夕暮れの赤に混じって鮮烈な色を作り出し、言葉をのみこむほどに美しかった。
どこかで、またひぐらしが鳴いている。臨也は不敵な彼の視線を受け止めながら、疼くような胸の痛みと、湧き上がる高揚感を感じながら懐のナイフに手を伸ばした。


ひぐらしの声が、どこからかまた聞こえてきた。夏のありがちな夕暮れに、おかしな感傷に囚われていた自分に気づき、臨也は自嘲する。あの時の、あの鮮烈な視線で臨也を射殺すように臨也を睨みつけてきた静雄は、記憶を失い臨也に陥落した時点で死んだのだ。そう自身に言い聞かせて、虚しさを慰める。
「……っ」
そのとき、隣りから苦しげなうめき声が聞こえてきた。シーツに包まっていた静雄だ。臨也は身を屈めて彼の顔を覗き込む。少しの間を置いて、静雄は瞼を開けた。
「シズちゃん? 大丈夫?」
「…さわんな!」
頬に伸ばした手を、思いきりよく振り払われる。臨也ははっと息を飲み、静雄の様子を窺った。静雄は額を手のひらで押さえ、苦しげな顔をしている。その瞳に、以前の静雄と同じ、相手を射竦めるような強さを感じ、臨也の指先が震えた。それは歓喜の衝動に、似ていた。
だがそれも一瞬で、すぐに静雄は不安そうな顔をして臨也を見上げた。
「あ…、わりい、臨也。なんかおかしな夢みてて」
「……そう」
記憶を取り戻したわけでは、ないらしい。不安にかすかに震える静雄の肩を抱き、安心させるようにその背を撫でながら話を聞くと、どうやら静雄は臨也と殺しあう夢を見ていたらしい。「変な夢だよな」という感想つきだった。臨也は笑い出したくなるのをこらえた。嗚咽のような苦しさが喉の奥にたまる。
「そうだね。…おかしな夢だね」
そう言い切られたことに安堵したのか、静雄は懐くように臨也の肩に頬を寄せる。しばらく無言で、臨也は静雄の肩を撫で、存分に甘やかした。それから、静雄が少し落ち着いたころを見計らって唇を開く。
「ねえシズちゃん、今ちょっと厄介な連中と揉めてるんだ。今度、君の力を借りてもいいかな?」
睦言でも囁くように、静雄を駒の一つにするための話を持ち出すと、静雄は臨也の肩に顔を埋めたまま、「ああ」と答えた。甘く、まだ夢の中にいるような声だ。臨也は唇の端を持ち上げて、笑みを作った。そうしていないと、虚しさを言葉にしてしまいそうだった。
静雄の肩を撫でながら、臨也は目をつむる。どこからか、またひぐらしの声が聞こえてきた。

今更、この体温を手放すことなどできない。だが、どうしようもなくてにいれたかったのは、はたしてこんなものだっただろうか。
目をつむっていると、瞼の裏に、あの夏の夕暮れ、臨也を視線で射殺すように睨みつけてくる静雄の顔が浮かんだ。その視線のまま彼は、不敵に笑う。夕暮れの中でそれは、臨也の手の届かないような遠いもののように思えた。その顔のまま、彼が言う。「手前のものになることはねえよ」。そんな言葉だ。
絶望的な眩暈を感じて、臨也は掌で瞼を覆う。その瞬間に、不敵で、それでいてどこかしら寂しげな色を持った彼の姿が、夕闇の中にふらりと溶けた。


(トラジェディー 2)
(2011/08/20)





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