Summer Fool | ナノ


※来神高校時代


深いところに溺れていくような感覚に、目を開く。
夏の日の強い日差しに、思わず手を翳した。鮮烈な空の青と太陽の眩さが残像として脳裏に刻まれる。普段と何も変わらない、屋上の光景だった。何もかもが干上がってしまいそうな夏の日差しの中で溺れる夢を見るとは、随分と現実味がない。
「君がうたた寝なんて、珍しいね」
起き上った臨也に、クラスメイトが聞き馴染んだ声をかけてきた。
「昨夜なかなか寝付けなくてね」
取り繕う気にもなれずに正直に答えると、新羅は物珍しげに「へえ」と眼鏡の奥の瞳を軽く見張った。それ以上追及されるのを避けるために、臨也は携帯電話を取り出して時間を確認した。昼休憩が終わるのはもう少し先だが、そろそろ教室に戻ってもいい。そう考えながら立ち上がる。どうやら新羅も戻るようだった。昼食のパンの包みや飲み物を手に、後をついてくる。
強烈な日差しの溢れる屋上から薄暗い踊り場に入り、長い長い下り階段へと足を踏み出す。だが数段降りたところで、臨也と新羅は足を止めた。人の声がしたのだ。
屋上は、臨也や新羅が勝手に入り込んではいるものの、基本的に立ち入り禁止になっている。そのため、屋上へと続くこの階段は人の立ち入りはほとんどない。それを利用して、ここは告白スポットとしてよく使われている。どうやら今回もその類らしい。何かぼそぼそと話す男女の声が聞こえていた。
話がまとまったのか、少女の高い声が、「嬉しい」と言葉を綴る。その後、ふたりはすぐに去って行った。
「夏は恋の季節だねえ」
ふたりがいなくなったのを確認してから、しみじみと新羅が呟く。臨也は鼻で笑った。
「くだらない」
「君も、最近告白を受ける回数が増えてるみたいじゃないか。もしかして、昨夜寝付かなかったっていうのも恋の悩みだったりするのかな?」
日当たりの悪い階段を降りながら、新羅が楽しげに尋ねてくる。臨也はそれを一笑に付して、否定した。
「馬鹿馬鹿しいね。…そんな甘ったるいものじゃないよ」
自分たちの教室がある2階へと続く階段まで進みながら答えると、新羅は肩を竦めた。
「僕は恋が甘ったるいものだと思ったことはあまりないけれど」
その言葉が、少しだけ胸に残った。



夏は恋の季節だと新羅は言ったが、そのあおりを受けてか、平和島静雄が下級生の女子から告白された。

臨也は年がら年中暇さえあれば静雄といさかいを起こしてはいるが、静雄のすべての行動を注視しているわけではない。だから、臨也がその場面を目撃したのは、偶然に他ならなかった。
数日前の、放課後のことだ。気まぐれに校舎裏を通りかかった時に、校舎のくすんだアイボリーを背景に、金の髪を見かけたのだ。反射的に体を死角に隠し、様子を窺う。見ると、静雄は女生徒といるようだった。柔らかそうなこげ茶色の髪が肩にかかる、小柄な少女だ。臨也の位置からでは顔はよく見えないが、前髪をまとめる、花を象った飾りのついたヘアピンがいかにもかわいらしい印象を残す。顔を俯けていたが、わずかに見える頬のあたりが赤く染まっていた。その口元が、かすかに動く。静雄は目を見開き、驚いた顔をした。
少女が何を告げたのかなど、想像がつく。臨也は身動きを取らず、その場に立ちつくしていた。
その後、少女はすぐに走り去って行った。静雄がどう答えたかはわからないが、立ち去った少女の顔が酷く悲しげだったところをみると、芳しい返答はもらえなかったのだろう。
当の静雄も、しばらくは浮かない顔で立ち尽くしていた。そんな静雄の様子を確認してから臨也はその場を離れる。胸が、ひどくざわめいていた。

それから臨也は、溺れる夢を見るようになった。




それから数日後の曇りの放課後のことだ。あと数日で夏休みというような、盛りを迎える夏の、太陽が出ていなくても茹だるような午後である。臨也は校舎からほど近い工場に足を向けた。
少し離れたところからでも、ぽつぽつと人が倒れ伏しているのが見える。そしてその中心に、静雄の姿があった。額あたりを切ったのか、顔の右半分を血で赤く染め、膝を地につけて肩で息をしている。
今日臨也が差し向けた高校生は20人程度だったが、武道経験者ばかりを選んだのでさすがに静雄も苦戦したらしい。臨也は笑みを浮かべて静雄のもとに近づいた。
「…! 手前!」
臨也に気づいた静雄が険しい表情をして近くに転がっていた鉄パイプに手を伸ばす。臨也も威嚇のためにフォールディングナイフを取り出した。
「やあ、シズちゃん。今日も見事な戦いぶりだったみたいだね」
「どうせ手前の差し金だろ。あ? いーざーや君よお」
「何のことかな?」
空とぼけると、静雄はこめかみに筋を浮かべて鉄パイプを振り上げてきた。臨也はステップを踏むように体を動かしてそれを避け、静雄にまた一歩近づく。
「大人しく殺されろ!」
「いやだね」
もう一度鉄パイプを振りかざす静雄の脇をすりぬける。力をぶつけるべき対象を失った鉄パイプは、爆音を立ててアスファルトを深く削った。それを確認して、臨也は笑みを深めて身を静雄の正面に滑り込ませ、静雄が動くより早くその腕に手を掛けた。臨也の力では静雄の膂力を抑えることはできないが、瞬間的にその動きを御すことならばできる。力を込めて静雄の動きを一瞬だけ止め、可能な限り甘く優しい笑みを浮かべて見せた。
「相変わらずの怪力だねえ、シズちゃんは」
不審げに眉を寄せる静雄のその耳朶に顔を近づける。そして臨也は歌うように軽やかに、それでいて甘く囁くように言葉を続けた。
「そんな化け物じみた力じゃ、きっと大切なものができてもすぐに傷つけてしまうよ」
「……ッ!」
静雄は目を見開き、そのまま体を固まらせた。その瞳に、傷ついたような色が走る。それを確認してから、臨也はゆっくりと静雄から体を離し、その場を去った。静雄は動きを止めてアスファルトに力ない視線を落としたままで、臨也を追ってくることはなかった。
静雄は自身の膂力を嫌っており、その膂力で大切な人を傷つけてしまうことを何よりも恐れている。臨也はそれを知っていた。だから臨也は、静雄を深く傷つける言葉を敢えて使ったのだ。それが成功したのだから、臨也としては気分よくその場を去れるはずだ。だがなぜか、傷ついた静雄の顔が脳裏にちらついて離れない。
臨也は湿度の高い不快な熱気の夕暮れの道で足を止める。ああ今日も、溺れる夢を見そうだ、と思った。



「N高の人間をかき集めくれる? そう、最低でも30人は欲しいね。N高だけで無理なら、A高からも集めて。よろしく」
必要な指示をして、相手が応諾したのを確認してから臨也は電話を切る。昨日は20人でも足りなかった。恐らく30人でもあの化け物を痛めつけることはできないだろう。だが、静雄の並外れた膂力を引き出すには十分だ。自身の怪力に、もっと深く絶望すればいい。
「…最近、君の静雄潰しの行動が加速しているようだけれど、何かあったのかい」
隣で昼食をとっていた新羅が、呆れたように声を掛けてくる。
灼熱の太陽の光が惜しみなく降り注ぐ屋上は、さすがに暑い。滲み出てくる汗の不快さに舌打ちしながら、臨也は答えた。
「シズちゃんに自覚を促しているんだよ。早く自分の力に絶望して、自分が人間だなんて夢を見るのを諦めさせないと」
前々から臨也は静雄が目障りで仕方がなかったが、先日女子に告白されている場面を見たときから、静雄により多くの人間を送り込むようになった。
暴力行為を日常の一環としている静雄に近づく女子はあまりいない。だが静雄は女子に手を上げるような真似はしないし、黙っていれば見目は良い方だ。惹かれる人間は少なくはないだろう。その事実を突き付けられたのは、静雄が告白されているのを見たときだった。
あの時の静雄は告白には応じなかったが、今後同じような対応をし続けるとは限らない。静雄がまるで人間のように恋愛をして人間のように幸せになるなど、虫唾が走る。だから臨也は、自分が化け物だということを静雄により深く思い知らせるために、せっせと人員を送っているのだ。
そのことをそれとなく新羅に告げると、新羅はしばらく考え込んでから、やがて口を開いた。
「君は、静雄を誰にも取られたくないんだね」
「は? 何それ」
「違うのかい?」
新羅の眼鏡のガラス越しの瞳は、こんな時には厄介だ。感情をあまり映さない瞳は、何もかもを見透かされているように思えてたちが悪い。臨也は苛々と舌打ちをした。ここ数日、正確に言えば静雄が告白されているのを見たときから自分に酷く余裕がないことは、臨也自身が誰よりよく理解している。
「違う、そうじゃない。俺は化け物のくせに人間みたいに感情を揺らすアイツを見ているのが苦しいだけだ。だって似合わないだろ、シズちゃんには」
だから早く、自身に絶望して怒りだけを身にまとう怪物に成り下がってほしいのだ。
だが臨也のそんな言い訳を、新羅は聞き入れはしなかった。
「その苦しみが指し示す感情を僕は知ってる気がするけど。言わない方がいいのかな」
苦笑してそんなことを言う新羅を睨みつけて、臨也はさっさと屋上から下り階段へ続くドアへと向かった。





胸の内側から焦燥が湧き上がってきて絶えることがない。いよいよ盛夏を迎えつつあるこの季節の熱気も加わって、苛立ちを煽られる。
暑い。熱い。無性に水が恋しくなって、臨也はふらりと校庭を横切った。辿り着いたのは、夏らしく澄んだ水を湛える、人気のないプールである。服を脱ぐことはせず、プールサイドに屈んで、塩素の匂いのする水に腕を入れる。放課後のためか、さすがに水は臨也の肌には冷たく感じられた。ばしゃん、と意味もなく水をはねさせていると、ふと最近臨也の熟睡を妨げている夢のことが頭をよぎった。溺れる夢である。
水に揺蕩っているつもりが、段々と水の深くまで沈んでしまって息ができなくなる。生ぬるい水の中で臨也は必死にもがくが、沈んでいく体を止めることができない。もがきながら臨也は、何故か静雄のことを考えている。息が苦しい。そんな夢だ。
「ノミ蟲。こんなところで何してやがる」
折悪く、くだらない夢を思い出していたところにそんな声が掛けられた。振り返ると、プールサイドを囲む柵の向こう側で、静雄が顔に青筋を浮かべて立っていた。臨也が差し向けた相手との喧嘩のあとなのだろう。静雄の制服のところどころに血の跡や土埃が付いていた。
「シズちゃんて、空気読めないよね」
「あ!?」
怒声を上げる静雄を無視して、臨也はプールサイドに立つ。暑さと今まさに溺れているような苦しさに、眩暈がした。当然、そんな眩暈はやり過ごすことができたが、ふと気まぐれに体の力を抜いて重力に身を任せてみる。ゆっくりと横に傾いだ体は、やがて大きな音を立てて水面にぶつかった。
「臨也!? おい!!」
塩素の匂いの強い水の中に身を任せた臨也の耳に、驚きと慌ての入り混じった声が聞こえてくる。その少し後に、すぐ近くで水音が上がった。静雄が飛び込んできたのだ。
「おい臨也!」
大丈夫か、と近づいてきた静雄が余裕のない声で問いかける。臨也はプールの底に足をついて水中に立ち、静雄と向き合った。水深の深い位置ではなかったが、腰のあたりまでは水に浸かった状態である。
立ち上がった臨也に、静雄はあからさまに安堵の表情を浮かべる。それを見て、無性に笑いが込み上げてきた。
「君はほんと、心の底から馬鹿だねえ」
制服のまま水に入ったので体が重い。滴り落ちてくる水が鬱陶しくて、髪を乱雑にかき上げながら臨也は重い水の中で一歩静雄に近づいた。静雄も制服のまま水に入ったので、シャツがみっともなく体に張り付いている。滑稽だ。こんなに苦しんでいる臨也自身が。臨也は自嘲した。
「俺のことなんて放っておけばいいのに」
静雄は臨也を憎んでいるはずなのに、それでも血相を変えて助けに来てしまうあたりが、静雄の愚かさである。水中で可能な限り素早く動き、臨也は何もわからずただ突っ立っている静雄の腕を掴む。そして振り払われるより先にその体に思いきり体重をかけてバランスを崩させ、臨也もろとも水中へと身を沈ませる。
驚いて水の中をもがく静雄の腕をぐっと掴み身を寄せて、臨也は彼の唇に自身のそれを重ねる。水中で彼の膂力がいつものように発揮できないことを利用し、その身を抑え込んで、溺れた者が空気を求めるような必死さで口内を貪った。
だがキスを深めるたびに胸の奥から込み上げて留まることを知らない苦い感情に、臨也はまた底のない水の中に溺れる自身を感じる。どんなにもがいても浮き上がれない。あとはどこまでも深く沈んでいくだけだ。

恋がこんなに苦しいものだなんて、知りたくはなかった。


(Summer Fool)
(2011/08/12)





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