遠雷 1 | ナノ


※年上のアウトロー系資産家臨也と高校生静雄のパラレルです。臨也さんが割とひどいです。超展開。
※ほんの少し匂わせる程度に、臨也×モブ女性の描写があります。
※2に性描写が入ります。18歳未満の方は閲覧しないでください。


アスファルトが湿気のあおりを受けて、独特の雨に似た匂いが都会に立ち込めている。夕方頃には雨が降るかもしれないと思ってはいたが、傘は持ち歩いていはいなかった。理由は単純だ、朝の登校途中で折ってしまったからだ。朝早くから他校の生徒に絡まれたのだ。その際、持っていた傘を手ごろな武器として使ってしまった。
「…チッ」
徹底的に折れてしまった傘は捨てるしかなかったため、下校時の今はない。舌打ちが虚しく落ちる。降水確率は低くはなかったはずだ。恐らく家に帰るまでには間に合わないだろう。そんなことを考えながら空を仰ぐ。灰色の重い雲が広がっていた。
少しだけ逡巡してから、静雄は踵を返す。来た道を戻って、その途中でふらりと横道へと入った。少し道を進むと、都会なのにやけに緑が多くなる。駅のある中心部から離れ、閑静な住宅街へと入ったのだ。その先に、彼の家が、ある。そこに進もうとすると、自然と足が重くなった。これ以上、本当は進むべきではない。いつだってそう思う。けれどいつだって、このまま元の道に戻ることはできないのだ。
迷いを持て余して俯いたまま立ち尽くしていると、ふと首筋に、何か冷たいものが触れた。反射的に顔を上げると、その頬にまたぽつりと冷たい雫が当たる。灰色の空から、とうとう雨が降り始めたらしい。それはすぐにさあっと音を立てるまでに強くなり、アスファルトを濃く染めた。
静雄は少しの間それに打たれてから、ゆっくりと足を進めた。

梅雨の冷たい雨が体全体を濡らす頃に、緑の葉が美しい山茶花の垣根に囲まれた、平屋の住宅に行きついた。外からでは家の奥行きが分からないような、古い、しかし広大な家だ。二本の柱に平らな屋根を渡した門をくぐると、雨の匂いが一層濃くなる。庭には、そこかしこで紫陽花が群生しており、藍から薄紫まで、色とりどりの花を咲かせていた。
「ああ、来たんだね。そろそろ来る頃だと思ってたよ」
濡れ縁から、そんな声がかけられる。そこには、深藍の単の着物に身を包んだ若い男が立っていた。
「………」
「そんなに濡れて。こっちにおいで」
澄んだ声を甘く濁らせて、男が手招きする。静雄は無言のまま顔を俯かせて、舌打ちした。どうしてこんなところに来てしまったんだ、と後悔が湧き上がる。けれど、その声にあらがうことができなかった。
雨の庭を進んで、濡れ縁へと向かう。男は近づいてきた静雄の顔に手のひらを寄せて、「冷たくなってるね。早く上がりなよ」と笑った。ぞくりと背筋に震えが走るほど、妖しげで、美しい笑みだった。
「…傷は」
玄関ではなく濡れ縁に靴を脱ぎ捨てて上がり込みながら尋ねる。男は「うん。少しだけ痛むかな」とうっすらと笑みながら答えた。それに再度舌打ちをしながら静雄は肩から下げていた鞄を畳の上に投げ捨てた。
「今日も気が立ってるみたいだねえ、シズちゃんは」
「そう呼ぶんじゃねえよ」
牙を剥くが、相手は気にするそぶりもない。透明度の極めて低い笑みを浮かべたまま、静雄の濡れた制服の背中をゆるく抱きしめてきた。
「…離れろ」
「今日は誰もいないから、気にしなくていいのに」
「うるせえ、離れろ!」
ぐっと男を振り払おうとして、だが男の身体のことを思い出して動きを止めた。この男は、腹部に傷を負っているのだ。ゆっくりと体の力を抜くと、臨也が吐息だけで笑った気配が伝わってきた。嫌な笑い方だ。
「まあ、とりあえずお風呂に入ってきなよ。湯は張ってあるからね」
「………」
ぐっと掌を握りしめて、静雄は畳の部屋の奥へと向かった。相変わらず、男が忍び笑いを漏らしている気配がある。それが嫌でたまらず、静雄は逃げるように廊下へ出てぴしゃりと男が残る部屋の襖を閉めた。

板張りの長い廊下を歩いて、その突き当りにあるのが浴室だ。まだそれほど遅い時間ではないが、雨のせいであたりはほの暗い。この屋敷は、当然電気も通ってはいるのだろうが、内装に凝っていて、長い廊下を照らすのは、和紙を用いた置き行燈である。それが長い廊下のところどころに置かれて、先の見えない暗い行く先を照らす様は、静雄をまた非日常の奥へと迷い込ませているようで、眩暈がした。

浴室は、平均よりも相当体が縦に長い静雄が足を存分に伸ばしても縁につかない程度には広い。身をゆっくりと湯に浸からせて、天井を仰ぐと、雨音が聞こえてきた。強い降りではないが、しとしととこの屋敷全体を覆うような雨音は、静雄を憂鬱にさせる。静雄がこの屋敷に足を踏み入れる時は、いつだって雨の日なのに、少しも慣れそうにない。





初めてここに立ち入った日も、雨の日だった。
6月に入り間もない頃だったはずだ。初夏の清々しい晴天が遠ざかり、少しずつ雨模様の日が増えた頃で、間もなくの梅雨の訪れを予感させるような物憂い雨天の日だった。その日静雄は派手な喧嘩を繰り広げた後で、気分もいらだっていたし、頬や肩にかなり派手な打撲の痕があった。傘が壊れてしまい、体は濡れていたが、できればどこかで時間をつぶしてから自宅に帰りたい、と思いながら適当に道を曲がって行ったところで、このあたりの閑静な道に迷い込んだ。その時、角から飛び出てきた人影にぶつかった。
「…っと」
相手は、グレーのワンピースを着た若い女だった。ぶつかった衝撃で、その女が地に倒れる。シルエットの美しいワンピースが濡れたアスファルトに広がるのを見て、静雄は慌てて手を伸ばす。
「すんません、大丈夫ですか」
だが女は、厳しい目つきで静雄を見据えただけで、その手を取ることはなくまた走って行った。雨の中、傘も差さないで、濡れてしまうだろうに、と自分のことは棚に上げながら視線だけでその背を追っていると、ふと人が近づいてくる気配がして振り返る。そこには、時代がかった黒の番傘を手に、藍色の和装に身を包んだ男が立っていた。
「行っちゃったね」
雨が物憂く降り続く天気に似つかわしくない、澄みきった声で、男がにこやかに言う。特に何か悪意を感じたわけではなかったが、静雄の背筋に悪寒が走った。本能で悟る。この男は、静雄とは相容れない性分の人間だ。静雄は動きを止める。
「…今の人、あんたの知り合いか?」
「まあ、ちょっとね。君も、そんなところに突っ立っていると風邪を引いてしまうよ」
ゆっくりと近づいてくる男に、怖気が立つ。若くて美しい男だが、この男に近づくべきではないと、本能が警鐘を鳴らしている。だが、その男から目が離せなかった。
「よかったら、うちにおいで。すぐそこなんだ」
優雅な仕草で、男は傘を静雄の上に傾ける。いつの間にか肌が触れるほど近づいていたことに驚き、一歩引こうとする静雄だが、逃さない、というようにその男は手を伸ばし、静雄の腕を掴んだ。天候のせいか、冷たい指先だった。ぞくりとまた悪寒が走り、静雄は身を捩ってその腕から逃れる。途端に、男は軽く眉を寄せて苦痛の声を漏らした。
「…ッ」
「…、おい?」
そんなに強く抵抗したわけではない。たとえ静雄の並外れた膂力をもってしても、ほんの軽く腕を払った程度だったはずだ。それなのに、そんな男の反応は予想外だ。不思議に思って近づくと、男は、大丈夫だ、というように苦笑して見せた。
「なんでもないよ。ちょっとだけ、怪我をしていてね」
「…けが…」
「大したことはないんだけど」
だが、白皙の額にかすかに脂汗が滲んでいる。どの程度の怪我かは分からないが、自分がそれを悪化させてしまったのならさすがに申し訳がない。静雄は、少し身を屈めているその男に自ら寄って、その肩を支えた。
「家まで、送る」
「気にしなくていいのに。…まあ、君もびしょ濡れだし、少しうちで休んでいけばいいよ」
耳鳴りのように脳に残る甘ったるい声で、男がささやく。そんな甘言に惑わされてこの家に入った自分を、今では苦く後悔している。


あの時、紫陽花は花をつけ始めてはいたが、まだその花萼は緑にほんの淡く色がついた程度だった。それでも、瑞々しい葉を広げる紫陽花の群生する広い庭に、都会育ちの静雄は素直に感心した。だが、通された和室でふと違和感に気づく。この家は、あまりに人の生活感に乏しい。まるで、高級宿の座敷のようだ。それに、奥行きのある屋敷は、日が当たらない部分が多いためか、どこか暗い印象を残す。
男は、臨也と名乗った。変わった名である。この粋だが生活感のない屋敷と、作り物めいた男の美しさも相俟って、現実感がない。
「ここ、あんたの家なのか」
「所有者は俺だね。…ああ、もう彼女が出ていっちゃったから、占有者も俺か」
何を言わんとしているのか、静雄には分からない。ただぼんやりと、臨也と名乗ったその男が洗練された仕草で茶を淹れるのを見ていた。10畳ほどの和室に、ふわりと緑茶の涼やかで少し甘い香りが漂う。臨也は、何も分からずぼうっとしている静雄に、少し苦笑して見せた。
「もともとの所有者は俺の祖父だったんだけど、その頃からここは妾宅として使われていたんだよ」
「…しょうたく」
「愛人を囲う家だね」
さらりと告げられた言葉に、静雄は動きを止める。さすがにそこまで言われれば、この家がどういうものなのか想像はつく。脳裏に、先ほどの女の影がちらついた。
「彼女はちょっと前からここに住んでもらっていたんだけどね。認識の相違があったみたいで、怒って出て行っちゃった」
静雄の思考を読んだように、臨也が言う。
厳しい目で静雄を睨んだあの女の視線には、どこかしら深く傷ついたような色があった。深く立ち入るべきではないと悟り、黙り込む静雄に、臨也は湯飲み茶碗を差し出した。
「濡れて冷えただろう? 飲んで温まるといい」
「…いい。もう帰る」
少し、胸のあたりがざわつく。苛立ちに似ている感情だ。この屋敷にあまり長居すべきではないと思い、立ち上がりかける。その時、臨也がふと背を丸めて身を屈めるようなしぐさをした。腹あたりを庇うしぐさだったので、静雄はどきりとして動きを止める。
「おい、大丈夫か? 傷、痛むのか」
「うん、少しね。…雨の日は、特に」
「救急車、呼んだ方がいいか?」
「そんな大げさなものじゃないよ。…でもちょっと痛いな。悪いんだけど、そっちの部屋の棚にある薬、持ってきてくれる?」
腹部を手で押さえながら臨也が頼む。もしかしたら、自分が先ほど臨也を振り払った行為が、傷に負担をかけたのかもしれないという負い目のある静雄は、素直に頷き、次の間に続く襖をあける。そしてその瞬間に、固まった。
襖の先にあったのは、8畳ほどの和室だ。雨のせいか薄暗い室内を、置き行燈の明かりが妖しく照らしている。障子が少し開いていて、雨の匂いのする風が入ってきていた。飾り気のない部屋には、二組の布団がぴったりとくっついて引かれている。そのうちの一組はあからさまにシーツが乱れていて、色ごとには疎い静雄にも、その意味するところが分かってしまう。瞬時に、ワンピースの女と臨也の姿が脳裏で妖しく閃いた。
「どうしたの?」
固まっている静雄の背後に、いつの間にか臨也が近づいていた。慌てて動こうとした静雄の腰のあたりに、腕が回される。
「…っ、おい!」
ぞくりと背筋に怖気が走り、やめろ、と男を突き飛ばしたいが、男の怪我のことが思考を掠めて何とか踏みとどまる。
「顔が赤いよ。…君はかわいいね。何を想像したのかな?」
嫌な忍び笑いを漏らしながら、臨也が問う。静雄はますます顔が赤くなることを自覚した。
「…動けるんなら自分で薬とれよ」
「君が帰るなんて言うから、引き止めたくて。本当にからかい甲斐があるね。面白い」
そんな言葉とは異なり、労わるようなしぐさで、男は静雄の髪に手を伸ばした。そのまま、するすると手にしていた柔らかな布で静雄の髪の水分を拭う。人からのそんな接触は、久しく受けてこなかった。思わずぽかんと臨也を見る。
「ホラ、きちんと乾かさないと」
「………」
臨也は穏やかに目を細めて、静雄の髪に触れていた。これは計算しつくされた、作られた笑みだと静雄は本能的に気付いていた。この男のこんな優しさは、まがい物でしかない。それなのに、静雄は彼の顔から目を背けることができなかった。

今にして思えば、その時すでに静雄は彼に囚われていたのだろう。


(遠雷 1)
(2011/07/25)







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