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二人の、傍から見れば得るものの何もない追いかけっこは、その後もずっと続けられた。
例えば、初夏に大掃除を終えて水を張ったばかりのプール。きらきらと光を反射する水の中で着衣のまま盛大な喧嘩を繰り広げる様子は、いっそ涼しげにさえ見えてうらやましかったとその光景を見た者は語った。
あるいは夏の日の、日光がこれでもかと照りつける、それでいて強烈な青を広げる空をぐるりと見回せる屋上。秋は、それなりに離れた某庭園で、金に染まった葉が絶えずに舞い落ちる銀杏並木の下を走り抜ける二人が目撃されている。冬には、ほんの数ミリ程度の、それでも一面の雪景色を頑是ない子供のように足跡を付けて走り回っていた。
それから四季が巡り、学び舎を卒業してそれぞれが別の道に進んでも、臨也のあとを追う静雄の姿は定期的に目撃された。新羅や門田などの彼らと頻繁に会う、付き合いの長い面子から見てみれば、すでに風物詩である。池袋で派手に喧嘩をして、隙を見て逃げ出した臨也を怒鳴りながら追いかける静雄の姿を目にするたびに、ああ、世の中に変わらないものがあるってなんだか悪くないなあ、などと柄にもなくしんみりした気分になったりする。

だが、このまま世界が終わっても続くのではないかとさえ思われていた追いかけっこも、どうやら変化のときが訪れたらしい。それが、臨也が今日新羅の家を訪ねてきた理由だった。
本当は、臨也が本日ここに訪ねてくる必要性なんてなかったはずだ。ただ混乱していて、気分を落ち着かせるために、付き合いが長く追いかけっこの裏にある恋情を知っていて、かつ積極的に関わることはしない絶対的な第三者である新羅に話を聞いてほしかっただけなのだろう。迷惑な話だ、とは思うが。
では、なぜ彼がこんなに混乱しているのか。話を聞いていると、なんだか馬鹿馬鹿しくて天井を仰ぎたくなるようなことだった。
「そんなつもりはなかったんだ」
また、臨也が無駄な美声でそんなことを呟いた。そんなつもりもどんなつもりもないだろう、と新羅は呆れるが、臨也にとってはその言い訳は重要らしい。
「あんな…まさか、俺が」
まさか、キスしてしまうなんて。と呟き、臨也はその瞳を片手で覆って、深いため息を吐いた。


事の起こりは今日の未明ごろだったらしい。
空の重い闇色から間もなく深い青に変わっていくだろうという時間帯に、臨也は池袋で静雄と対峙していた。静雄は深夜まで取り立ての仕事に追われており、ようやく帰宅の途についた頃合いだった。だが、どんなに疲れていても臨也を見れば全力で立ち向かうのが平和島静雄という男である。
「なんで手前が池袋にいるのかなあ? あ? いーざーやー君よぉ」
「早朝の散歩だよ。邪魔しないでもらえるかな?」
「手前が死んでくれたら俺も邪魔はしねえよ」
「…シズちゃんは日本語もろくに話せないらしいね」
近くにあった標識を片手でへし折って臨戦態勢に突入する静雄に、臨也は肩を竦めて見せた。
この時点で、おかしな話なのだ。早朝と言うにはまだ早すぎる時間だし、そもそも早朝に散歩をしたいなら、自分の居住地の近くを歩けばいい。わざわざ臨也が、静雄の仕事が終わるこんな時間に、静雄の帰途を散歩しているなど、少し考えれば不自然だと気付く。だが静雄は、そこには何も言わずに標識を振りかざして時間と場所を選ばない盛大な喧嘩の幕を切り落とした。

喧嘩は普段通りだ。静雄が標識で襲い掛かり、臨也がそれを避けながらナイフで応戦する。普段なら喧嘩の仲裁に入るサイモンもさすがにおらず、二人はしばらくの間、派手な喧嘩を繰り広げていた。その後、やはりいつもの通り隙をついて逃げ出した臨也を追い、また追いかけっこを始めた挙句、二人は公園にたどり着いた。
一年中一時たりとも人の絶えない池袋であっても、早朝というのはそれなりに静かなものだ。公園についた二人は、どちらからともなく立ち止まって、空を見上げたという。
暗い夜が明けて空が深い青となり、やがてそれが明るくなっていくさまと言うのは、地球が誕生してから無限に繰り返されてきた光景なのだろうが、やはり美しい。静雄はふっと戦闘モードを解除して近くにあったベンチに腰を掛けると、煙草を取り出して火をつけ、煙を吐き出しながら上を向いた。
季節は萌えいずる春で、明るくなっていく深藍の空を背景に、池袋の少ない緑の一角を担う木々の新緑がきらきらと輝いて見える。静雄は白い煙を吐ききってから、何気なくぽつりと、呟いた。
「きれいだな」
けして大きくはないその声は、明け方の静寂のせいで、はっきりと臨也の耳に届いた。臨也は一瞬体を固まらせてから、「君にそんな情緒があったなんてね」とかそんなからかいの言葉を口にしようとして、失敗する。静雄が臨也の前だというのに珍しく、ひどく穏やかな顔で瞼を伏せていたからだ。
そこから先のことを、臨也は理性的に説明することはできない。ただふらふらと引力に引かれるようにベンチに近づき、その背もたれに手をついた。突如自分に落ちた影に静雄が目をあけ、そして近距離にある臨也の顔に驚いてその目を見開かせたところまでは確認したが、その後どんな顔をしたかは分からない。一般的な流儀にのっとり、臨也が瞼を伏せたからだ。
触れたのは一瞬だった。すぐに臨也は我に返った。
ばっと顔を離すと、静雄はまったくもって何をされたか分からない、という顔でぽかんと臨也を見ていた。煙草が彼の手から地面に落ちて、細い紫煙を上らせている。
「…手前…」
ゆるゆると我に返ったらしい静雄が、それでもぼんやりと尋ねてくる。臨也はその声を聞いた途端に踵を返し、脱兎のごとくその場から逃げ出した。




「そんなつもりはなかったんだ」

再度、臨也が呟いた。新羅はもう失笑するしかない。
出会って7年経ってキス一つ。新羅が言えたことではないが、あまりに進展が遅すぎるだろう。しかも唐突にキスをして相手を放って逃げ出すというのも、何事もうまく立ち回る臨也にしてはあまりにヘタレが過ぎる。
早朝の出来事からすでに半日が経過している。その間臨也は、オフィスに戻り仕事をしようとして落ち着かず部屋の中を歩き回り、結局何も手につかずに夕方になり、新羅の部屋へとやってきたという次第だ。
さてそろそろ日も暮れる。さてそろそろ愛する同居人も帰ってくるだろうし、そろそろ話を進めなくては。新羅はコーヒーメーカーのフラスコをとり、いい匂いのするコーヒーを臨也のカップに注いでから口を開いた。
「で、どうするの?」
「何が」
「何がって、静雄のこと。まさかキスをして逃げだしてそのままにするわけじゃないよね?」
「…アイツのことだから、もう少し時間がたてば忘れると思わないかい? いやきっと忘れるよ。忘れるに違いない」
どうやらこのまま逃げに走るつもりらしい。臨也は普段、用心深く何事にも用意周到で臨む男ではあるが、けして控えめな性質ではない。むしろ自分の欲望に素直な男である。その臨也を、ここまで臆病にするなんて、恋は偉大だなあ、と、自分もそれなりに恋に生きる男である新羅は苦く思った。
「あのさあ。いくら静雄でも、突然同性の、しかも長年の犬猿の仲の君にキスされて、それをさっぱり忘れるって本気で思ってるわけじゃないよね?」
「………新羅」
「何だい」
「忘れ薬とか…」
「そんな便利なものをそんなに簡単に作れるなら、僕はとうに作ってセルティに首のことを忘れさせているよ」
「………」
臨也はまた頭を抱えている。他人の恋愛事情に首を突っ込む気はないが、このまま何もなかったことにするのは臨也にとっても静雄にとってもいいこととは思えない。何よりここで臨也に頭を抱えられたままいられるのは迷惑だ。
新羅は、自身のカップに入った、もうすっかり冷めて苦いばかりになっているコーヒーを喉に流し込んでから、唇を開いた。
「ところで君は、幽君が去年の夏ごろ、とある映画のリメイク作品の主演を務めていたことを知っているかい?」
「は? 何だよ突然。…去年の夏でリメイクっていうと、フォロー・ミーか」
「そう。40年ほど前の映画をリメイクしたものだね。ちなみに、見たことは?」
「…ないよ。羽島幽平の主演作だからタイトルを知っているだけ。あれ、ミニシアター系だったから主演が彼なわりにはあまり話題に上らなかったし」
「そうだろうね。でも僕は見たよ、セルティが幽君のことが結構好きでね」
フォロー・ミーはイギリスを舞台にした映画だ。それなりに地位のある男に妻の浮気調査を頼まれた探偵と、調査対象の人妻の、穏やかで、それでいて少しだけ切ない物語だ。劇中でふたりは、相手に自分を尾行させることによって、相手を自分のお気に入りの場所に連れて行く。
羽島幽平が出演したのは、その日本版リメイクといったところだろう。普段は物静かな印象の幽だが、劇中では少しとぼけた、しかし味わいのある若い探偵を見事に演じていた。
「結局この探偵と人妻は結ばれないんだけれど、でもセルティは気に入っていたよ。自分のあとを追わせて気に入った場所に連れてきて逢引するなんてロマンティックだとか言って。ああ、セルティってばなんてかわいらしいんだろう!」
「………それって」
ひくり、と頬を引き攣らせて、臨也が呻くように言葉を発する。新羅はにこやかに笑って見せた。
「そう、君がここ数年間、ずっと静雄に対してしてきた行為にかなり似ているね」
「………」
臨也はもう言葉もない。新羅は追撃の手を休めなかった。
「君ならよく知ってるだろうけれど、静雄は弟を溺愛している。テレビや映画を見ることが嫌いな彼が、弟君の出演する作品は必ず見るくらいには、ね。つまり」
「…シズちゃんも当然、それを見てるわけか…」
「そうだろうね」
新羅はもちろん、門田も臨也が自身を追わせることによって彼が望む場所や、自分のお気に入りの場所に連れて行っていることには気づいていた。ならば、当の静雄はどうだろうか?
恐らく最初は気付いてはいなかっただろう。だが、この映画を見てからは気付いたはずだ。
「………じゃあ、あれは…」
「ん?」
「ね、ねえ新羅。あのさあ、」
ちょっと前にこんなことがあったんだけど。と言って臨也は以下のような話をした。

数日前のことだ。小雨がぱらつき、それが上がった直後の池袋の街並みで、臨也は向かいから珍しく一人で歩いてくる静雄を見つけた。ここで会うのは想定外だ、さてどうするか、と考えていると、静雄がふと臨也の方を見たという。だが静雄は、ふいっと顔をそむけ、横道に入って行った。いまだかつてない行為だ。静雄はいつだって、臨也が近づくと、探知機か何かついているのかと疑いたくなるほど正確に反応する。即ち、こめかみに血の筋を浮かべて臨戦態勢に入るのだ。それが、どうしてかその日に限って何の反応もせず、どこかへ向かった。
恐らく臨也の存在に気づかなかったのだろう、と結論付けた臨也は、これは面白い、と思った。あるいは、矛盾しているようであるが、面白くないとも思った。臨也の存在に気付かなかったなら、それをからかいのネタにするのは楽しいし、しかし静雄が自身の存在に気づかないというそのことは、なんとなく面白くない。臨也はそんな複雑な心中のまま、静雄のあとを追った。
静雄はいくつか路地を曲がり、ふと立ち止まる。それにつられて、静雄の数メートル後ろを歩いていた臨也も立ち止まった。池袋のごちゃごちゃした景観が、ふと開けた場所だった。そこに立ち尽くす静雄の顔の角度を追い空を見上げて、臨也はふと思考を停止させる。
雨上がりの街に、うっすらと、だが珍しいほどに大きな、虹がかかっていた。


「そのあと何事もないように歩き出したアイツは、唐突に振り返って俺に気づいていつも通り殴りかかってきたんだけど、…今考えるとあれは不自然だ」
「……ふうん」
なあんだ、と新羅は思った。なあんだ、静雄も、自分の思いをそんな風に表すことがあったのか。
「何にやけてるだよ」
「いやあ。…それで、どうするの? このまま静雄を放置して、また進歩のない追いかけっこを続けるっていうなら、僕は止めないけれど。でもどうせなら、隣を一緒に歩くっていうのも、悪くないものだよ」
そろそろ決断しないとね、と新羅が言葉を続ける前に、臨也はソファから腰を上げていた。色々と腹を据えた男の顔をしている。
「健闘を祈るよ」
そんな声が臨也の背中に届いたかどうか。
新羅は友人の去ったリビングで冷めたコーヒーを飲んでから、ベランダに出て外を見る。エントランスから出て、街中を走っていく黒い影が見えた。それを見送り、青春は甘酸っぱいねえ、と呟いて空を仰ぐ。青と穏やかな赤の混じる、美しい夕空が広がっていた。
こんな日はセルティと手をつないでデートをするのもいい。帰ってきたら誘ってみようか。そんなことを、考えた。


それからその二人がどうなったのか、臨也も静雄もそのことには触れないので、新羅は知らない。当の二人は相変わらずしょっちゅう池袋の街中で派手な喧嘩を繰り広げたり、追いかけっこを続けている。
だがどういうわけか、あの二人が隣に並んで歩く姿も、しばしば目撃されるようになった。顔は引き攣っていたり口喧嘩らしきものを繰り広げていたりと、仲がよさそうにはあまり見えなかったけれど、それでもそれなりに、どちらも幸せそうだった、なんて証言も、でているそうだ。


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(2011/07/21)





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