白うはいわじ | ナノ


※ブレギルで遊郭パラレルです。
※専門的な遊郭や歴史の知識はほぼ皆無です。
※性別? 廓言葉? 何それおいしいの?
※以上のことを踏まえ、それでもオッケーな方のみどうぞ!


帳を打つような柏木の音が、夜のしじまを伝って聞こえてくる。
それを聞いて、できる限り音を立てないように静かに、幾重にも蒲団の重ねられた寝具から下りた。途端に、冬に近い夜のぴんと張りつめた冷気が肌を刺す。
崩れた朱の襦袢を着付けなおし、内掛けを肩に羽織る。それでも多少肌寒くはあったが、気にせずに、隣りの間に続く襖を開けた。それを閉じる前に、ふと寝具を振り返る。羅紗の蒲団に置き去りにした男は、ゆったりと息を吐くのに合わせて胸を上下させており、隣りからギルバートが抜け出しても目を覚ます気配はなかった。それに安堵の息を零して、静かに襖を閉める。
柏木の音が告げたのは大引、遊郭すら静まり返る時間である。これから客が帰り始める明け方までの時間が、ギルバートはとても好きだ。今夜は特に、このときを心待ちにしていた。
寝具が広がる部屋の隣室には、洒落た文机や碁盤の置かれた部屋がある。この二間が、ギルバートに与えられた座敷だった。
夜の冷たい気配に悴む指先に息を吐きかけて、手近にあった置き行灯に火を灯してから、障子窓を開ける。行灯のほの灯りに照らされたそこには、細いが頑丈な格子が設えられてあった。以前、この遊郭でお職を張っていた花魁が、自身の内掛けを裂いて紐を拵え、それを垂らして二階の窓から足抜けをはかったことがあるとかで、この見世の二階の窓にはすべて格子が嵌っている。一階の張り見世には総籬の格子。二階の障子戸にも格子。ここはまさに格子に囲まれた鳥籠のようだと、そう埒もなく嘆いたこともある。遠い昔の話だ。
角部屋になっているこの部屋の障子窓からは、屋根に邪魔されることなく下を見下ろせる。格子に顔を寄せて下を覗き込むと、深い夜の闇の色にも紛れることのないない白髪が見えた。
「――ブレイク!」
小さな声で呼びかけると、白髪の男が顔を上げる。紅玉を思わせる隻眼と視線が交錯した。
「ああ、…今日は冷えますネェ」
「…そうだな」
なんてことのない会話だ。だがこんななんてことのない会話をしたくて、ギルバートは大引けの柏木が聞こえてくるまで、客が寝入ったあとも身じろぎもせずに、時が経つのをじっと待っていたのだ。

男は名前をブレイクという。年齢は知らない。少なくとも、ギルバートと出会った十年前には、男はすでに今と変わらない姿だった。
職業は、幇間である。幇間はお座敷に呼ばれて話をしたり芸を見せたりして客を笑わせる男芸者だ。遊郭では、これらの芸者が多く住み着いているが、ブレイクは遊郭の外に居を構えているらしい。その住処を知っている者は、少なくともギルバートの知る限りにおいては一人もいない。
ブレイクは人形を用いた芸が得意だが、一方で剣舞もできるという変わり種である。芸者としての技量は一流で、人気も高く、生半可な客ではこの男を呼ぶことができない。ほんの一部の豪商や位階の高い武士に呼ばれたときにのみ、ブレイクは姿をあらわした。ギルバートは座敷を与えられている散茶と呼ばれる階級の花魁だが、客筋が良くはない。ブレイクを呼ぶことができる客はあまりついてはいないのだ。
だが、大店の主人だという今日の客だけは別である。酒が入ると多少乱雑になり、性技も荒い。それでも、ブレイクを呼ぶ財力のあるその男は、ギルバートにとっては上客だった。
お座敷にブレイクが呼ばれた夜は必ず、こうしてブレイクが深夜に軒下で待っていてくれるからだ。

「これ、お土産デスヨ」
夜の帳の中で、ブレイクはひょいっと腕を振った。するとその手からほんの小さな白い包みが飛び、器用に格子をかわしてギルバートの手に届いた。包みを開くと、色鮮やかな金花糖がいくつも入っている。
「…甘いものは苦手だ」
「そんなことを言って眉間にしわ寄せて煙管をふかしてばかりいるから、いい客がつかないんですヨ」
「仕方ないだろ!」
「仕方なくはないですヨ。せっかく、顔は悪くないのに」
ブレイクは、自分用の包みを開き、指先でいくつもの菓子をつまんでいる。呆れるほどに甘いものが好きな男だ。ブレイクはこうしてギルバートと会う夜は、よく菓子を土産に持ってきた。その多くはこの金花糖で、それは小さな人形の形をしていたり、まるまるとした犬の仔をかたどってあったりと様々だ。幼い頃は、それを見てどれほど癒されたことだろう。
ブレイクとギルバートがはじめて話をした夜も、ブレイクはこの菓子をギルバートに与えた。


それは、まだギルバートがこの妓楼に連れてこられて間もない頃だった。禿として花魁の世話をしていたが、ある夜ふと、妓楼を抜け出したのだ。何を思ってそんなことをしたのか、今となっては思い出せない。いずれこの妓楼の二階で体を売ることになるという事実に絶望したのか、遠い故郷にいる弟の安否が気になったのか。それとも、すべての襖に異なる趣向の絵が描かれ、すべての床の間に抱えきれないほどの切り花の飾られている妓楼の絢爛さに、嫌気がさしただけなのかもしれない。
いずれ、ギルバートは逃げ出した。だが所詮はまだ子供のことだ。すぐに妓楼の見世番に見咎められ、思い切り背を殴りつけられた。それでも必死に細い路地に逃げ込んだが、程なく足に力が入らなくなり、遊郭の主だった道から少し離れた桜木の根元に蹲った。
あれも今と同じ、冬に近い日の夜だった。降り始めた雨に、雪が混じる。冷たいみぞれが降っていた。
普段は遊郭を妖しい雰囲気に包み込む、妓楼の軒先にずらりと並べられた提灯の灯りが、みぞれの白と相俟って不思議に優しいものに感じられたのをよく覚えている。寒いな、と力なく雪混じりに雨に打たれながら思っていると、いつの間にかギルバートのすぐ隣りに、隻眼の男が立っていた。
「そこで野良犬の仔のように死ねば、少なくともこの、憂いばかりの檻の中からは逃れられますヨ」
「…あなた、は…」
静かな口調で男が言う。ギルバートはその男を知っていた。ギルバートが禿としてついた花魁のお座敷に呼ばれたのを見たことがあったのだ。見事な剣舞を披露したかと思えば、くるりと回転してぱっと白い紙吹雪を散らせて見せた。まるでこの男自体が幻のようで、印象に残っていた。
男もギルバートの顔を知っているようであった。
「偽りの絢爛で彩られた苦界でも、生きていたいカイ?」
男はすっと身を屈め、ギルバートの頬を指先で撫でた。みぞれに打たれて冷えたギルバートの肌に、その男の温もりが少しだけ移る。かつて、弟がそんな風にギルバートの頬を撫でたことがあった。ギルバートの痩せた手よりも、まだ小さな弟の手のひら。ギルバートが死ねば、あの弟が借金を背負うことになる。
ギルバートは、持ちうる力を振り絞って、自分の頬を撫でる男の手を握った。
「い…きた、い」
あの妓楼で、生きたい。途切れる口調で必死に答える。男は、悲しげに、それでいていとおしげに目を細めてから、笑みを浮かべてギルバートのからだを負ぶった。そして妓楼へと戻る道すがら、花や兎をかたどった金花糖をギルバートに与えたのだ。
ブレイクの背中で普段は口にすることのできない甘い菓子を口に含みながら、ギルバートは「また、会えますか」と問いかけた。ブレイクはしばらく沈黙した後に、小さな声で、「君が望むなら」と答えた。
遊郭の高級妓楼が立ち並ぶ道まで戻り、ギルバートの務める妓楼の建物が見えてくると、ブレイクはギルバートを背からおろした。ギルバートが思わずブレイクの指先をぎゅっと握ると、ブレイクは何も言わずにその指を軽く握り返す。それからギルバートの小さな歩調にあわせ、ゆっくりとした足取りで妓楼へと向かい、見世の前で歩みを止めた。
「行けますか?」
「行け、ます」
どこかやさしいその問いに答える。するりとブレイクに絡めていた指を離し、ギルバートは足を引きずりながら、中引けを過ぎてもう人の出入りのない妓楼へと入った。

幼い禿とはいえ、足抜けが重罪であることには変わりはない。ブレイクによってもとの妓楼に送られたギルバートは、相当の折檻を覚悟していた。だが実際には、言葉できつく叱られる程度で終わったのは、今にして思えば、ブレイクが取り成してくれたのだろう。
あの日からもう十年が経つ。ギルバートが禿から新造として花魁に仕えている間は、ブレイクとはその花魁のお座敷に呼ばれたときにそこで会うだけだった。それでも、芸の合間にブレイクはギルバートによく視線を向けたし、お座敷が引けたあとには、人のいい妓楼の働き手を伝手にしてギルバートに菓子をくれていた。
ただ、会話をすることは叶わなかった。禿や新造が座敷で話せる言葉など限られており、幇間と会話をすることなど当然許されてはいない。会話をしたのは、突き出しが済んだあとだった。

ギルバートが花魁としてこの座敷を与えられてから、大引けの後、ブレイクは軒下でギルバートを待っていたりする。人気があり、その上気まぐれな性質の男なので、ほんの時折だ。だが、ギルバートの客のためのお座敷にブレイクを呼んだ日の夜には、ブレイクは必ず軒下にあらわれた。
客すら寝入った、ずらりと並ぶ提灯の灯りの消えた妓楼の軒下と、隣りでは客が寝ている二階。どんなに腕を伸ばしても指先も触れ合わない距離で、二人は少しの間他愛のない話をする。こんな関係を、もう何年も、続けている。


ブレイクは軒下で、ばくばくと実に気前よく、金花糖を口にしていた。見た目は鮮やかで美しいが、口に入れてしまえば砂糖細工である。甘味を苦手とするギルバートは、見ているだけで胸焼けがした。
文机の傍に置かれた煙草台を引き寄せて、愛用の黒塗りの煙管を取り上げると、ふとブレイクがギルバートを見上げていることに気付いた。
「なんだ?」
「金花糖、本当に食べないんですカ?」
「…今はいい。後で食べる」
「もったいない。今日の金花糖はまだ売られていない、珍しいモノなんですヨ」
食べないなら返してくだサイ、と年甲斐もなくブレイクは頬を膨らませた。菓子屋が春に売り出す予定の品を試しに作ったものを、ブレイクが融通してもらったのだという。
少しだけ興味を引かれて包みを開き、再度しげしげと見ると、今まで見たことのない形のものが混じっていることに気付く。小さな、淡い桃色の美しい色彩が見事な金花糖だった。
「これ、桜か?」
「そうですヨ」
なるほど、春先に売るものとしては按配がいい。 だが、格子の隙間から吹き込む風が、すぐ近くに迫ってきている厳冬を教える今の季節には、それは酷く寒々しくて、悲しげに見えた。
桜花をかたどったその菓子を見ていると、不思議なもので妙に本物の桜が恋しくなる。
「春は…遠いな」
本物の桜花を思い浮かべて、小さく呟く。この遊郭にも桜はあるし、花見は花魁たちが遊郭から出ることを許される唯一の娯楽だ。だがギルバートは、この遊郭から遠く離れた静かな地で、桜花を見たかった。
叶うならば、この男と。
「ギルバート君?」
「なあブレイク、オレの年季があけたら、」
そう口にして、ギルバートは口を噤む。ブレイクも、かすかに顔を強張らせていた。
あといくつかの冬を過ごせば、ギルバートの年季も明ける。そうすれば、この檻からも出られるのだという。だがそれは、今この冷たい風を頬に感じながら望む春よりも、もっとずっと遠い。
「…名門家の跡取り息子が、君に興味を抱いているようデスネ」
「………」
不意に切り出されたその話題に、ギルバートは答えなかった。その話は聞いている。まだ一度もまみえたこともないが、どこかでギルバートの話を聞き、もし遊郭に赴くならば是非ギルバートを、と望んでいるのだという。
「今はまだ子供のような年ですが、評判もそう悪くはない。何より、君を身請けできる程度の財を持っていマス」
「オレは、身請けの話には乗らない!」
「…そう言って、首尾よく年季を迎えて晴れて自由の身になった遊女が、どのくらいいるんですカ」
「……!」
そんな娼妓はほとんどいない。
この見世はともかく、遊郭の中には自室を持たず、廻し部屋を交代で使って客を取る遊女も多い。それを考えると、ギルバートの格はけして低くはない。だが、格が上で揚げ代も根を張るからといって、借金が減っているかといえばけしてそうではないのだ。格が上がればその分だけ、入用になる金も増える。結局年季が明けるまでに借金を返せず、この遊郭よりもはるかに条件の悪い岡場所に売られていく遊女も少なくない。年季を待たずして病に倒れる者もいる。
「でも、ブレイク…!」
「こんな檻から早く抜け出したいのなら、身請けの話も考えることデス」
冷たいと感じる声で言い放たれるが、ギルバートは頭を振って拒絶した。身請けを受ければ、この苦界から生きて逃れることができる。だがそれはまた、この男との別れをも意味していた。
ブレイクは知らないことだが、豪奢な文机の抽斗の中には幾十もの紙の包みが入っている。それは、ブレイクが今までギルバートに送ってきた菓子だ。砂糖菓子は長くもつ。ギルバートはブレイクからもらったそれらを殆んど口にすることなく、しかし捨てることもなく大切にとってきた。胸の中には、それほどに明確な想いがある。
頭を振ることも虚しくなって、ギルバートは格子に額をつけた。ひやりと冷たい感触だった。格子越しにブレイクを見下ろすと、男は底の覗けない感情の見えない隻眼でギルバートを見上げている。
「ギルバート君。分かるでショウ」
他に音のない初冬の夜の中で、ようやくギルバートの耳に聞こえる程度の諭すような囁きが神経を逆なでする。
「駄目だ、駄目なんだ」
ブレイク。思わず名を呼んで、格子の間から手を伸ばしたくなった。望みのない想いだと知っているのに、それでも、ときには酷く、触れたくなる。
それでも駄目だ、とギルバートは己を戒める。たとえ望みがあったとしても、ブレイクは幇間だ。幇間が客として妓楼に上がることは許されてはいない。
格子に囲まれたこの妓楼は、まるで鳥籠のようだと埒もなく嘆いたことがある。遠い昔の話だ。今となってみれば、この格子があってよかったのだと思うことが多い。この格子があれば、不用意にブレイクに触れず済む。数えるのも馬鹿馬鹿しいほどに多くの客に抱かれ、こうしている今だって他の客の性技の痕を残すこのからだで、ブレイクに触れずに済むのだ。
最後にブレイクに触れたのは、あの幼い日の夜。手を繋いで、この妓楼まで来た。あの時、この妓楼に入るためにギルバートは、ブレイクの手を離した。それが最後だった。それ以降は、砂糖菓子に温もりを探すのみだ。それでいいのだと、何度も思ってきた。こんな体で触れるくらいならば、こんな体で触れられるくらいならば、もう触れ合わずにいたほうがいい。
ブレイクは固い顔をしたまま、赤い隻眼でギルバートを見上げている。今度はその視線に、器用な男が隠し切れていない優しさを感じて、ギルバートはきつく瞼を伏せた。
「…ブレイク」
もう一度だけ、零すように名前を呼んで、ギルバートは冷たい格子に頬をすり寄せた。強く頭を振ったときに散ってしまったのか、辺りには金花糖がいくつも落ちている。
この想いも、この菓子のように甘くやさしく、冷たいままに、溶けてしまえばいい。散っている薄桃色の桜花を一つ拾い上げ、それを指先で強く、握りこんだ。


(白うは言はじ)
(2010/11/19)




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