昼過ぎからちらちらと降り出した雪は、夜には路地を白く染めていた。風はなく、ただ雪だけが降り積もり続けている。底冷えの白い路地には人影もなく、不思議なほどに静かだった。 路地の奥まったところにあるギルバートの部屋には、明かりが灯ってはいなかった。それでも構わずに彼の部屋にするりと潜り込む。 部屋の主は、ベッドに横たわっていた。 慎重に気配を殺して近づいたところ、ギルバートは眠っているらしく、来訪者に気付く様子はなかった。 ブレイクは夜目がきくが、さすがに明かり一つない深夜に、ギルバートの顔色を窺うことはできない。それでも明かりをつけて彼を起こしてしまうことは憚られて、そっと指先で彼の頬のラインに触れた。熱い。 ブレイクの触れた指先が拾った温度は、明らかに平熱から離れた発熱した人間のそれだった。ブレイクは一つ小さく溜め息をつく。 医者にも、今夜は発熱するだろうとは言われていた。予想していたことといえばそれまでなのだが。 だが実際に、明らかに発熱しているギルバートを見ると、多少なりとも複雑な心持を覚える。 ギルバートが傷を負ったのは、昼過ぎだった。 白い結晶が散り始めた暗い空の下、痛むほどに寒い昼に、ギルバートとブレイクは違法契約のチェインと戦っていた。 大した敵ではなかったが、変わった形態をしたチェインだったため多少戦闘が長引いた。そろそろとどめを刺そうとブレイクが剣を掲げた瞬間に、『ブレイクッ』という短い悲鳴にも似た彼の声を聞いた。 次の瞬間に見たのは、チェインの鋭い爪を体にあびてブレイクの横で倒れこむギルバートの姿だった。ブレイクはかなり場慣れしているので、胸に走った焦燥感を抑え、冷静にそのチェインにしっかりととどめを刺してから倒れたギルバートに駆け寄る。 呼び掛けると、意識は飛んではいないようだった。だが左の肩から斜めに走った傷から、血がじわりと出ていた。 その体を支えて、取りあえずパンドラに戻り、医師に見せる。傷は深くはないから心配は要らないとの診たてだった。 意識がはっきりしていたギルバートは、レインズワース家で療養すればいいというシャロンの勧めを断り、街外れの自宅に戻ると言った。 命に関わる傷ではないとはいえ、軽傷ではない。安静にしているに越したことはないのだが、ブレイクは慣れた場所ではないと安眠できないギルバートの習性を知っていたので、反対はしなかった。ただ、心配そうな顔をしているシャロンの横で、ギルバートを乗せて揺れる馬車を見送った。 それなのに、夜が訪れると自然に足がギルバートの家に向かってしまった。 ギルバートは眠り続けている。傷からくる発熱で苦しいのか、少しだけ荒い寝息が、過ぎるほどに静かな夜に聞こえている。 「……ッ」 痛みが走ったのか、ギルバートは呻いて軽く小さく寝返った。しかし痛みから逃れることは出来ず、息を荒げている。ブレイクは、またその頬に触れた。痛みを和らげる術も持たないのに、癒すように軽く撫でる。 「…、…ブレイク?」 夜の帳に、そんな小さな声が落ちた。ギルバートのものだ。どうやら薄っすらと目を覚ましたらしい。 「…起こしてしまいましたカ?」 少し躊躇ってから声を掛けると、眠っていたギルバートは、緩い動作で上半身を起こした。どうやらベッドサイドに置かれた燭台に火を灯したいらしい。ぎこちない動きが暗闇の中で伝わってきて、ブレイクは彼の代わりに燭台を探し当てて火を灯すのを手伝った。 暗闇に、小さく、しかしあたたかな炎が灯る。その炎の眩しさに一瞬金の瞳を眇めてから、ギルバートはブレイクを見上げた。 「本物のブレイクか?」 「本物ですヨ」 というより、偽者がいるならむしろお目にかかってみたい。そう言うと、ギルバートは苦く笑って「そうだな」と答えた。 「お加減はいかがですカ」 一応、怪我人を見舞った形なので、形式的に尋ねる。ただの見舞いにしては遅い時間の来訪ではあったが。蝋燭の明かりの中で、ギルバートは少しだけ居心地悪そうに瞼を伏せた。 「…問題ない。大した傷じゃないしな」 嘘をつくときは視線を合わせない。ギルバートの、幼い頃からの癖だ。分かりやすくありがちな癖だが、得意の見ないフリをしてやるような心情にはならなかった。ブレイクは自身が思っていた以上に、ギルバートが傷を負ったというこの状況に憤っていることを悟った。 「熱が出ているようですガ?」 「…明日にはおさまる」 やはり視線を合わせることをせずに、ギルバートはそう答えた。早くこの会話を終わらせてしまいたいというギルバートの願望が見え隠れして、ブレイクの柄にもない激情を煽った。 音もなく動いて彼の白いシャツの上から、昼間に雪の舞う中で負った傷に触れる。無作法な接触に、ギルバートが呻いた。 「…ゥアッ、…ブレイク!?」 「君は」 かなり痛んだのだろう。苦痛に歪んだ顔を見ても、ブレイクの激情は去らなかった。むしろ、静かに湧き上がり続けている。 「どうして、私を庇ったりしたのですカ」 出た声は、思いのほか静かなものだった。ギルバートがぐっと顔を背ける。 雪のちらちらと舞う寒い昼間、ギルバートは確かに、ブレイクを庇うようにチェインの爪の前に身を投じたのだ。その結果傷を負うこととなった。 「どうして」 もう一度問うと、今度はギルバートは、痛みからでも熱からでもなく顔をゆがめた。 「…お前が危ないと思ったから、」 「あの程度の攻撃、私がかわせないとでも?」 「それは…! 仕方ないだろ、勝手に体が動いたんだ!」 実際、チェインの動きくらいブレイクには読めていたし、攻撃もかわせないはずがなかった。ブレイクの戦闘能力の高さを知っているギルバートも、冷静に考えれば分かったはずだろう。反射的に庇ってしまったというギルバートの言に嘘はない。 それは分かっていても、憤りを抑えることはできなかった。 「ブレイク…ッ!?」 ブレイクは俯いたギルバートの肩に手をかけると、薄手のシャツに手を掛けた。 驚いて拒もうとするギルバートの抵抗を片手で抑え込み、シャツを肩から落とす。発熱していてさえ白い素肌に、同じく白い包帯が幾重にも巻かれていた。その痛々しさに、ブレイクは眉を顰める。 さすがにその包帯さえ外してしまうことは躊躇っていると、不意にギルバートの指先がブレイクの指先を握った。 「傷跡も残らないと医者に言われている。…だから、そんな顔をしないでくれ…」 蝋燭の炎に照らされたギルバートは、苦しげに眉根をよせながらブレイクを見ている。彼の瞳に映る自分は、どんな顔をしているというのだろう。分からないが、きっとブレイクにあるまじき、情けない顔をしているのだろう。 ブレイクは自分を落ち着かせるように一つ吐息を吐き出してから、ゆっくりと唇を開いた。 「…君が守るべき者は私ではない。そうでショウ?」 「ブレイク、」 「君には私よりも何よりも優先させるべきものがある」 「それは、…」 「私にも、君より優先すべきものがある。そのためなら、君の命でも犠牲にするでしょう。君も、その覚悟でいなさい」 澱みも躊躇えさえもなく言い切ると、ほの灯りの中でギルバートが苦しげに眉根を寄せた。 「…ブレイク、それでも、オレは」 必死に言葉を紡ぐギルバートの彼が何を伝えたいのか、ブレイクには分かっていた。だからこそ、それ以上何も言わせないように、己の指でその唇に触れた。ブレイクへの想いを告げようとするその唇を、尊いものに触れるようにそっと。 それから、ギルバートの熱を持った手を取って、その指先に口付けをおくった。騎士が忠誠を誓うように。あるいは、言葉にすることはない想いを示すように。 ブレイクの唐突な行為に、当然だがルバートは驚いたようで、一瞬その指先をこわばらせた。だがすぐに力を抜いて、ブレイクの口付けを受け入れた。指先から唇を離して、目線をあわせると、ギルバートは諦念と、それから悲しみを湛えた瞳でブレイクを見ていた。 また傷つけてしまったな、とブレイクは苦笑する。恋慕も親愛も、絶対に口にすることはないが、互いに感じてはいるだろう。それでも互いの利害のために利用しあう関係であることもまだ絶対の事実で、その歪さがギルバートを苦しめている。 「少し、長居をしてしまいまシタ。もう休みなさい」 ギルバートの肩を押して体を横にするよう促す。さらに、眠る体勢に入ったギルバートの視界を己の手のひらで覆った。 ギルバートは逆らわず、静かに瞼を伏せたようだった。 もとより発熱と服薬の影響で休養を欲していたギルバートの体は、横たわるとすぐに眠りについたようだった。ギルバートが眠ったのを見届けて、ブレイクは静かに彼の家をあとにする。 路地裏はひどく冷え、雪が音もなく降り続けていた。他に人の姿のない路地を歩くと、白い積雪にブレイクの足跡だけが残る。 不意に、今日のギルバートの傷のことを思った。深くその魂にまでも刻み付けるような、彼の主人がつけたのだという胸の傷とは異なり、今日負った傷は、傷跡も残らないという。彼が、その命を投げ打ってまでもブレイクを守ろうとしたその証は、今ブレイクが積雪に刻んだ足跡がやがて更なる積雪に消されるのと同じように、消えていくのだろう。 ブレイクは一つ、短く息を吐き出した。降り続く雪と同じく白い息になった。 雪は底冷えの夜に積もって、すべてを埋めていくようにさえ思われた。それでいいのだと思う。あの熱をもった指先に、ただ愛しさから、自分たちの思いに忠誠を誓うように口付けた。その熱を、優しく覆って埋めていけばいい。 (雪に眠る) (2010/03/05) |