セブンスヘブン・テーゼ | ナノ


ふ、と意識が覚醒する。
見慣れた天井と、馴染んだ空気。すぐにそこが、パンドラ内に設けられたブレイク用の休憩室だと気付いた。そして、すぐ傍に誰かの気配があることにも。
身体を起こして確認すると、ベッド脇の椅子にギルバートが座り、頭だけブレイクの休むソファに沈ませていた。どうやら眠っているらしい。
ブレイクは軽く頭を振って、記憶を探る。だが、パンドラまで戻った経緯が思い出せない。
昼間ギルバートと二人きりで、秘密裏にチェインと戦ったことは覚えている。だがその後、強烈な眩暈を感じたところで、記憶が終わっている。だとすれば倒れたところを、ギルバートが運んでくれたのか。ギルバートが青い顔で自分の名を鋭く、まるで悲鳴のように呼んだ、というのが最後の記憶なので、おそらくそうなのだろう。
ブレイクは、すぐ傍にあるギルバートの顔に手を伸ばした。黒い髪に隠れがちな白い相貌には疲れがにじみ出ている。
起こして状況確認をしたいところだったが、その疲労困憊の寝顔に、珍しく躊躇ってしまった。声は掛けず、ただその癖のある黒髪を梳く。すると不自然な体勢で眠りが浅かったのか、ギルバートは小さく身じろいだ。
「…、…ブレイク?」
「ハイ。おはようございマス」
起こしてしまうつもりはなかったのだが、ギルバートはベッドに凭れ掛けていた上半身を緩やかな動作で動かし、ブレイクを見た。その瞳が、すぐに鋭い光を帯びる。
「ブレイクッ! おまえ、体は!?」
勢いよく顔を近づけられて、ブレイクは苦笑した。どうやら、ただでさえ気苦労の絶えないギルバートにまた心配をかけさせてしまったらしい。
「もう大丈夫ですヨ。わざわざ運んでくださったんですカ?」
「…それは…おまえが青い顔で倒れるから…」
こっそりとパンドラに連れ帰ってくれたらしい。ギルバートは、別行動だったシャロンやオズには、心配をかけるからとブレイクが倒れたことは伏せていると説明を加えた。彼にしてはなかなか気の利いた判断だ。
自分こそ倒れそうなほど青ざめた顔をしているギルバートに、もう一度「もう大丈夫だ」と告げようと思ったときに、ドアをノックする音が響いた。ギルバートが慌てて立ち上がるので、ブレイクも身を起こして身なりを整えてから返事をする。来訪者は、オスカーだった。
「おいブレイク、…っと、ギルもここにいたのか。オズがおまえのこと捜してたぞ? 引っ込んだきり顔を出さないって」
「オズが…」
その名を聞いた途端にそわそわとしだしたギルバートだが、ブレイクの様子が気になるのか、まだこの部屋に留まっていた。
「オスカー様は私に何か御用ですカ?」
「お、そうそう。いいワインが手にはいったんでな、みんなで飲もうと思って誘いに来たんだ」
ブレイクの不調を知らないオスカーは、明るい笑顔でそう持ちかける。その言葉にいち早く反応を示したのは、ギルバートだった。
「ブレイクは今日は、酒は…」
ちらりとギルバートはブレイクの様子を窺いながら、断りの言葉を紡ごうとする。倒れたばかりのブレイクに、アルコールを飲ませることは憚られたのだろう。
「いいですねえ、今日は飲み比べでもしましょうカ」
「ブレイク!」
心配顔を隠せていないギルバートを無視して、ブレイクはオスカーの提案に乗った。ギルバートは抗議の声を上げたが、ブレイクはそれを視線一つで黙らせた。
「じゃあちょっとばかり用意してくる。あとで広間に来いよ」
とオスカーが部屋を出て行くと、とたんにギルバートが「アルコールを口に出来るような体調じゃないだろ」と文句を言ってきた。
「そんなに心配しなくとも、もうすっかり良くなりましたヨ。たまにはお酒で息抜きくらいしてもいいでショ」
実際に覚醒してからの調子は悪くはない。少し情に訴えれば、冷酷になれないギルバートは渋い顔をしながらもそれ以上何も言わなかった。



酒宴が始まって、酒が振る舞われ、オスカーやオズ、アリスたちが騒ぐ一方で、ギルバートはまったくアルコールを口にしなかった。
当然、オスカーやオズは「オレの酒が飲めないのか!」、「いいワインなのにもったいない」などと、半ば強引にギルバートの杯にワインを注ごうとしたが、ギルバートはこれからパンドラに提出する書類を書かないといけないからとそれを固辞した。
さすがにオズが不審がって、「ギル、具合でも悪いの?」と尋ねてきたが、そんなオズにさえギルバートは、「少し疲れているだけだ」と笑って答える。オズは納得できない顔をしたが、それでもギルバートはまったくアルコールに手を付けなかった。
そのうち、アリスがソファに腰掛けたままうつらうつらとし始めた。
「アリス、寝るなら部屋に行こうよ」
「うるさいぞ下僕。私はもっと飲むんら…」
「ほら、呂律が回ってないじゃん」
「オズ、おまえももう休め。今日は遠出したから疲れただろ?」
「えー、オレなら全然大丈夫だよ、オスカー叔父さん」
どうやら流れ的にこのままお開きになりそうだな、と思い、ブレイクは取りあえずグラスに注がれていたワインを飲み干す。オスカーが自慢するだけあって、今日のワインは程よく甘い上質な赤ワインだった。
これを一口も口にしないなんてギルバートももったいないことを、と考えながら、黒髪の従者を見やると、アリスを起こそうとしているオズの傍らに佇んでいたギルバートもこちらを窺っていたようで、目が合う。彼がこちらに向けていたのは、いつもオズだけに向けられるような心配げな視線だった。
ブレイクは溜め息を吐く。どうやら今日ブレイクが倒れたことは、ギルバートに相当の負荷を与えてしまったらしい。
「オスカー様、オズを部屋まで送っていただけますか? オレとブレイクは、提出書類を書かないといけないので…」
「お? そうなのか? 分かった」
ギルバートがオスカーに頼みごとをするなんて珍しい。ブレイクは軽く目を瞠った。しかも、提出書類があるなんて聞いていない。だとすれば、早々にブレイクを休ませるための抗弁だろうか。
「…じゃあギル、ブレイク、おやすみなさい」
「ああ。体を冷やすなよ」
「おやすみなサイー」
結局、広間にはブレイクとギルバートが残された。


二人になるとすぐに、ギルバートはブレイクを自室へ戻るよう促した。ブレイクは仕方なく、残されていた、まだ未開封のワインの瓶を確保して自室へと戻る。ギルバートは、そんなブレイクの後を付いてきた。このままではブレイクがしっかりとベッドに入るまで監視しそうな雰囲気だ。
ブレイクは、自室に入ると、付いてきたギルバートにソファを勧める。ギルバートはどこか思いつめたような表情をしていた。ブレイクは溜め息をつく。
「君は何にそんなに怯えているんですカ? 心配しなくても、そう簡単に死んだりしませんヨ」
「……心配なんて、してない」
「じゃあなんでついて来たんですカ」
「おまえが、青い顔をしてるのに酒なんて飲むから!」
それは心配していたということだろう。変なところで強情だ。思わず吹き出すと、ギルバートは眉根を寄せてじとりとブレイクを睨む。
「ああ、失礼しました。酔いがまわってきたようですネ」
「嘘付け、ビタ1文酔ってないくせに」
「ええ? 酔ってますヨー」
酔っ払いを装って、ギルバートの腰を引き寄せると、「絡むな。暑い」とにべもなく振り払われる。
これ以上彼の機嫌を下降させないうちに休んだほうがいいか、と立ち上がったところで、ギルバートの表情がぐっと硬くなるのが見えた。
また溜め息をついて、ブレイクはギルバートの隣りに座りなおし、その黒い髪を軽く撫でてやった。
「…ブレイクッ!?」
常にない甘やかすような接触に目を見開いたギルバートに、ブレイクは静かに語りかけた。
「私の体に負荷が掛かっていることも、そう長くは持たないことも知っていたでしょう?」
「それは…」
「私が自分で選んだ道です。君が気に病む必要はない」
「……っ」
金の瞳が苦しげに歪み、それを隠すように彼は俯いた。悲しさや痛みを堪えた表情は、10年前から何も変わってはいない。また泣かせてしまったな、と思っていたら、ギルバートが不意に立ち上がった。
「ギルバート君?」
呼びかけても答えず、ブレイクがくすねてきたワインのボトルを取り出す。備え付けられていたミニバーからオープナーを取り出し、コルク栓を開けた。途端に、芳醇なワインの香りが辺りに漂った。
一体何を、と問う間もなく、ギルバートはボトルのままのそれに口をつけ、ごくごくと飲んだ。
「…君は何をしてるんですカ」
ギルバートは生まれこそ不明だが、貴族に数年仕えていたし、その後は自身も貴族の一員だ。テーブルマナーも完璧にこなせる。それなのにまた随分と粗野な飲み方を、と呆れる。しかも彼は下戸だ。そんなに一度に飲んだら、後が大変なことになる。
「オレは今、酔っ払っているからな」
「…ハア?」
口元をぐいっと拭ったギルバートが、どこか据わった目で宣言した後、その金の瞳に真剣な光を湛えて真っ直ぐにブレイクを見た。いつの間にか、距離が近い。
「オレが、本当に、おまえの左の瞳だったらよかったのにな…」
その言葉に、ブレイクは目を瞠る。
いくらギルバートが酒に極度に弱いとは言っても、アルコールはそれほど瞬時に回ったりはしない。ギルバートも、それは理解しているだろう。酔っているなんて言い訳に過ぎない。
「そうすれば、離れないですむだろ」
ブレイクの驚愕をよそに、そう言葉にしてからギルバートは、澄んだ金の双眸を伏せた。
普段なら絶対にありえない素直な言葉に、あたたかさにも寂しさにも似た感情がわき上がる。
ブレイクは彼が開けたワインのボトルを掴み、残っている液体を喉に流し込んだ。品の良いアルコールに、体の奥に熱が灯る。
「…私も随分と酔いがまわったみたいなので、今晩のことは殆んど覚えていないでしょうネ」
一度、そう逃げ道を作ってからブレイクは、もう一度ギルバートの腰を引き寄せた。目線を合わせると、ギルバートは小さく苦笑して、「ああ、そうだな」と応じた。どこか甘えたそんな仕草は、ここしばらく見たことがなかった。
誘われるようにその唇にキスを落とす。口付けなら何度となく交わしてきた。もっと激しいものも、もっと技巧的なものも。逆に言えば、こんなに拙いばかりのキスは初めてかもしれない。
それでも構わずに、唇を触れ合わせただけですぐに離れた。吐息が交じり合う近距離で小さく「ギルバート」と名を囁く。心底甘い声を出す自分を自覚して、ブレイクは自嘲したが、すぐにそれも構わないだろうと考え直す。どうせ今夜は二人とも深く酩酊しているという設定なのだ。

今度こそ本当に酔いが回ってきたらしいギルバートが、足を縺れさせてブレイクの胸に凭れてくる。ソファに腰掛けてその体を支えてやりながらブレイクは、その癖のある黒髪を撫でた。
ギルバートはふにゃりとした泣きそうな顔でブレイクを見上げてから、顔を隠すように俯く。それを許さずにその顎を掴んで、またキスをした。



(セブンスヘブン・テーゼ)
(2009/09/28)




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