ワールズエンドの夢を見る | ナノ


胸の傷の痛みに呻き、熱に浮かされて、その合間にようやくとろとろと眠っては夢を見ていた。
夢の中では敬愛する主人が、いつものようにギルバートに微笑みかけて、その手を伸ばしてくれる。ギルバートは嬉しくなって、その手を取ろうとする。
ああ良かった、坊ちゃんがアヴィスに堕とされたなんて悪い夢だったんだ。そう思った瞬間に、胸の痛みで残酷な現実に目が覚める。
そんなことを繰り返して、幼いギルバートは精神的にも磨耗していた。
夢を見る。幸せな夢を。夢だと分かっていながら、醒めたくないと願いながら、幸せな夢を見る。
あるいはそれ自体が、悪い夢のような循環だった。
胸の痛みに現実に引き戻されて、淡く消えていく主人の姿に、懸命に「坊ちゃん――」と呼びかける。縋るようにオズの幻に手を伸ばす。その手を、ぐっと掴むものがあった。
夢ではないその感触に瞼を開けると、定まらない視線が捉えたのは、白い髪をした隻眼の男の姿だった。
「…坊ちゃ、…」
「違いますヨ」
違うと分かっていても、思わず呼びかけてしまった。否定されて、視界が揺らぐ。
やはりこの世界にもうオズはいないのだ。その絶望に、じわりと涙がわいてくるのが分かった。それを、覗き込むようにギルバートを見ていた白髪の男の手が拭う。
「……っ」
その感触に、ギルバートは瞳を見開いた。愛する主人も、すぐに泣き出してしまうギルバートの涙をよく拭ってくれた。それを思い出したのだ。
思わず、握っていた彼の手のひらにさらに力をこめてしまう。
嫌がられるかと思ったが、しかし隻眼の男は意外なことに、ふ、と笑って見せた。
「おやすみなさい。今だけは安らかに」
男は、ギルバートと繋いでいない方の手のひら、今しがたギルバートの涙を拭ったその手のひらで、ギルバートの視界を覆った。男の手は程よく冷たくて、心地よい。さらに彼がギルバートに生み出した闇は、どこか優しかった。
ギルバートは自身の手をその男の手に縋らせたまま、彼の生み出した闇の中で瞼を閉じる。不思議なことに、そのときだけは、夢から醒めてしまうことへの恐怖感を忘れることが出来た。





10年前のあの頃の方が、まだこの手は力を持っていた、とギルバートは思う。


10年前、オズを失い、悲嘆に暮れるばかりのギルバートを「利用する」ためナイトレイ家に送り込もうとするブレイクは、まずはギルバートをベザリウス家に戻して療養させた。
その後、すっかりと開いてしまった胸の傷に苦しむギルバートのもとに、ブレイクはふらりとやってきたことがあったのだ。きちんと正門を通って見舞いに来たのか、それとも夜分に闇に紛れてこっそりと訪れたのかは分からない。おそらく後者なのだろうと見当はつくが。
いずれにせよ彼は、傷から来る熱に浮かされ魘されていたギルバートの手を握って、ほんの僅かな時間だけでもやわらかで静かな眠りを与えた。
そしてそのとき確かにギルバートは、自分の幼い手で彼に縋りつくことによって、ブレイクに、寂しげで、しかし、確かにその男の持つありったけの優しさをかき集めたような微笑を浮かばせたのだ。

少なくとも今の自分に、あの頃のように彼を微笑ませる力などない。ギルバートは自嘲する。
10年という歳月を経て、ギルバートは随分と成長した。ブレイクの手の大きさを超えたのは5年ほど前だっただろうか。その後すぐに彼の背さえも抜かした。それなのに不思議なもので、この手は力を失ってしまったように思えるのだ。



「またくだらないことを考えているようだネ」
「…昔のことを思い出していたんだ」
相変わらずブレイクは闇に紛れてギルバートのもとを訪れていた。その見事な白い髪は、闇の中にあっては異端のように思えるのに、彼は不思議なほど夜の闇に紛れるのがうまい。
「昔のこと、ですカ?」
「いや、…なんでもない」
出会ったばかりの頃に、その手のひらから温もりを与えられたことを思い出していた。だがそれを告げることはしなかった。
そもそもブレイクがそれを記憶しているかどうかさえ分からない。それに、そんな昔のことをずっと、まさに10年もの間、まるで特別なことのように胸にしまっている自分を知られることも気恥ずかしい。
ブレイクは少し不思議そうな顔を見せたが、すぐに底の見えない邪気に満ちた微笑で、「また愛しのオズ坊ちゃんのことでも思い出していたんでショウ?」と尋ねる。
その問いには無視を決め込んで銜えた煙草に火をつけるが、紫煙を燻らせるより先に、ブレイクの白い指先が伸びてきた。その指先に煙草を掠め取られた、と思った瞬間には、素早く唇を奪われていた。
「苦いですネェ」
「…自業自得だろ」
唇が離れた途端に、ギルバートが吸いかけていた煙草の苦味に顔を顰める上司だが、同情の余地はない。火をつけたばかりだった煙草を、さっさと灰皿に押し付けられたのだから、この程度の皮肉は当然だろう。
その一本は諦めて次の一本をケースから出そうとした瞬間に、ギルバートはブレイクによって床に引き倒されていた。さすがに抗議の声を上げるが、ブレイクがその抗議を聞き届けるわけがないことなどとっくに知っていた。

こうして見上げる顔は、当然だが10年前と何一つ変わっていない。ギルバートは苦く思った。どうも今夜は、10年前のあの頃の思い出が脳内をちらついて離れない。
そういう日もあるのかと諦めてギルバートは、押さえ込んでくる彼の手を取り、自分の指を絡ませる。ブレイクは驚いたようだが、すぐに「積極的ですネ」と邪まにわらって見せた。いつもなら反論するが、その日はそれに答えずに、ギルバートはブレイクの右の手のひらの感触を確かめる。
その手は、剣を持つ者らしく、柄を握る部位の皮膚が硬くなっている。幼い頃は気付かなかったが、細いブレイクの手は、しかし屈強な剣士の手だった。
そして同様に、ギルバートの手のひらも、幼い日に彼に縋ったそれとは変わってしまっている。
ギルバートの手は、ブレイクの手とは異なる部位の皮膚が硬くなっている。銃を握ることを生業とする人間の手のひらになったのだ。
それはギルバート自身が望んだことだった。
それでもギルバートは、例えば肌を重ねた深夜に、ギルバートの、その日常的に銃を握る手のひらに、ブレイクが触れることがあることを知っていた。
おそらくそのときのブレイクは、ギルバートが眠っていると思っていたのだろう。だがギルバートは、脳だけが覚醒しており、触れてくるブレイクの指に気付いていたのだ。
その指先から、ブレイクの、普段は絶対に見せない自責が伝わってきた。ブレイクは――あるいは気まぐれにだとしても――、ギルバートに銃を握らせていることを、後悔するときがあるのだろう。

10年前とは変わってしまったこの手は、結局ブレイクを自責の念に追い立てる。
ギルバートは、降ってくるブレイクの唇の感触に瞼を伏せながら考える。
まだ少年だったあの頃から、ギルバートはブレイクに対してけしていい感情ばかりを持っていたわけではないが、それでも、いつかあの夜の温もりを彼に返したいと思っていた。あるいはそれが、恋情のはしりだったのかもしれない。
しかし10年前のその少年は、自分は無力だと信じていた。いつか、年を経て大きくなれば、あの夜の安堵を彼に返すことなど簡単に出来ると単純に信じていた。愚かなほどにまっすぐな感情で。
だが彼より大きな手を持つ今、それは叶わないのだと気付いている。幼いあの頃の手の方が、まだ力を持っていたのだ。少なくとも、ブレイクを、寂しくあたたかく微笑ませる力を。
「考え事なんて、余裕ですネ?」
ギルバートのこめかみにキスをしてから、ブレイクが囁く。常より低いその声に、背筋に快感が走った。おまえのことを考えていた、と告げることは当然しない。
「相変わらず、冷たい手だな」
代わりにまったく別のことを囁くと、ブレイクは何を思ったのか、合わさった手の、その隙間さえ埋めるように強く手を握ってきた。
「君の手が相変わらず熱いんですヨ」
言い返されて、そうなのかも知れないと思う。
それならば、たとえかりそめの様な交わりであったとしても、ブレイクに熱を分かつことが出来るかもしれないと、虚しいばかりの希望を持った。

また彼の後悔を呼び覚ますことになるかも知れないと、そう分かってはいながらも、ギルバートはブレイクの手に縋る。それ以外に、幼い日に受けたあの温もりを返すすべを知らないからだ。
互いの、ひとを殺めるために変化した手のひらが触れ合う。不器用な接触に、しかしそれでも、たとえほんの僅かであっても温もりが伝わればいいと、愚かしいほどまっすぐな感情で、願った。



(ワールズエンドの夢を見る)
(2009/09/11)




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