春になったら野ばらを摘みに | ナノ


※ギルバートが先天的に女性です。


手渡されたのは薔薇の花束だった。赤みの強いオレンジから、優しいピンクへのグラデーションが美しい花弁の連なり。そんな大振りの薔薇の花冠をいくつも束ねた花束は、甘い匂いがした。

花を受け取ったのは昼過ぎだったが、残念ながら帰宅できたのは深夜もいいところだった。夜半に降りだした小雨が止まず、帰途のギルバートに柔らかく、しかし冷たく降り注いだ。
自宅のドアを、極力音を立てないように少しだけ開け、その隙間に身を滑らせる。だが室内に入るとすぐに立ち上がった人影に、ギルバートは自身の気遣いが無駄だったことを悟った。
「起きていたのか」
「うん。遅かったね、ギル。って濡れてるじゃん! 雨、降ってたの?」
「ああ、さっき降りだした。…馬鹿ウサギは?」
「もうとっくに寝たよ。ほら、とりあえず体、拭いて」
乾いた布を差し出そうとするオズに「いい」と声を掛ける。何よりまず、冷たい晩秋の雨に濡れた花束を活けたいのだ。するとオズもようやく花束の存在に気付いたようで、「それ、どうしたの」と尋ねてきた。
「…もらいもの」
「誰からの?」
「…名前は知らない。パンドラに所属している若い貴族だ」
正確にいうなら、名前どころか顔も鮮明には覚えていない。しかし何かと話しかけてくる男だ。
我が家の庭園の薔薇が見頃です。あまりに見事なので、貴女にも見て頂きたいんです。かつてそう言って、自分の屋敷にギルバートを誘ってきた。それを断ると、その男は次に、自慢の薔薇を切り束ねて作った花束を、ギルバートに手渡した。それも一度ではない。
春は高芯咲きの香り芳しい薄桃色の薔薇。夏は白と黄色の姫薔薇のブーケ。四季それぞれに異なる趣向の薔薇を寄越す。ギルバートには花を愛でる趣味はないが、大切に育てられ、ギルバートのために誂えられた花束を打ち捨てるほどに無情にはなれなかった。
そして今日、その男が手渡してきた薔薇は、オレンジからピンクへのグラデーションの美しい薔薇だった。ギルバートは改めてその花束の、人の薄い肌の感触にも似た滑らかな花弁に触れて、雨のしずくを指先で拭う。冷たい雨のせいで、花が傷まなければいいのだけれど。愛でる趣味はないが、美しいものを悼む心は持ち合わせているギルバートが、何度か同じように花弁を撫でていると、不意にその指をオズが掴んだ。
「…オズ?」
常日頃にはない強引さで薔薇に触れていた指を外されて、訝しく思い主である少年を見ると、オズは少し顔を俯けていた。金の髪が頬にかかって、表情が窺えない。
戸惑っていると、オズは顔を俯けたまま、乾いた布でギルバートの濡れた髪を拭いだした。
「…風邪、引くから」
早く乾かさないと。と、温度のない声で言われ、逆らえないものを感じたギルバートは、今度は小さく一つ頷いた。
濡れて漆黒をさらに重くした上着を脱いでから、オズから水を拭うための布を受け取ろうとするが、オズはそれを避けて、「オレが拭く」と聞かない。オズにそんなことをさせるわけにはいかない、とは思うが、至近距離のオズの瞳が真剣な色を湛えていて、その力に引かれて結局ギルバートは大人しくソファに座った。
少年の手が、優しくて繊細な仕草でギルバートの髪を拭っていく。ギルバートはぼんやりと、視線がぶれてしまいそうなほどに近くにある主人の整った顔を見上げていた。すると、そのオズの顔が苦しげに歪んだ。少年の視線を辿ると、白い己のシャツの胸元がある。ギルバートははっと身を強張らせた。
髪を拭い終えた少年がふと視線をおろしたその先に見えたものに、心当たりがあった。
思春期を終えて丸みを帯びたギルバートの胸元に、しっかりと刻まれた傷跡。それが少しだけ、タイと一番上のボタンを一つ外したせいで見えていたのだ。それに、濡れたシャツはその傷跡の全貌をかすかに覗かせている。消えることのないそれを見て、少年は心を痛めたのだろう。
すぐに傷が見えないよう何か行動するべきだったのかもしれない。けれどギルバートは、暗い思いに囚われて、動くことができなかった。だから、先に動いたのはオズだ。
オズはギルバートの髪を拭くために屈めていた体を起こし、ぎこちなく視線を外して唇を動かした。
「春になったら、野薔薇を摘みに行こうか」
唐突に、そんなことを言う。
「…野薔薇?」
「そう。ベザリウスの館の裏にたくさん咲いていただろ」
もちろん覚えている。オズはよくそれを摘んで、エイダやギルバートに贈った。野薔薇といえど棘がある。ギルバートはいつだって、オズの滑らかな手に野薔薇の棘が刺さるのではと気が気ではなかったものだ。だがオズは、その皹一つ入っていない美しい指で器用に棘を折り、可憐な花束をエイダやギルバートにいだかせた。
「ギルには、あの花が似合うよ」
少しだけ視線を逸らして、オズが告げる。ギルバートは驚いた。驚いて、それからひどく、悲しくなった。
10年前ならいざ知らず、今のギルバートにあんな可憐な花が似合うはずがないのだ。胸に深く刻まれた傷を、愛しく思っているギルバートには。
――だってこの傷がこの身にある限り、あなたは絶対に見捨てないでしょう。
愛を受け命を授かるからだに、朽ちるその瞬間まで消えない大きな深い傷を残した。その事実に縛られたオズは、何があってもギルバートを見放さないはずだ。それは辛く、そしてなんと愛しい事実なのだろう。ギルバートは己の傷を見るたびに思う。そしてその傷を愛おしむ自分に気付くたびに悲しくなる。なんて醜いのだろう、と。
こんな醜いギルバートに、あの清楚な白い花が似合うはずがないのだ。
「春になったら、野薔薇を摘みに行こう」
もう一度、まだ幼さを残す指先をした少年が呟く。ギルバートは瞳を伏せて俯いた。
柔らかで甘い春の風に揺れる野薔薇の小さくどこまでも白い花弁が、瞼を過ぎる。なんて美しいのだろう。結局投げ出されたままになっている、色彩の美しい秋咲きの薔薇の花束よりも、久しく見ていない野辺に咲くあの白い一重咲きの可憐な花の方が鮮やかに瞼に浮かぶのだ。
その白い花を、ギルバートの主が滑らかな指先で摘んでいる。器用な指先で棘を折って、細い蔓の白い花を幾重にも積み重ねるのだ。それは美しい空想だった。だがその美しさも、主が己の胸に抱いた白い野薔薇の花束を、ギルバートに手渡すところで儚く消える。白い花を抱いたギルバートが、あまりに醜かったためだ。
「ねえギル、一緒に行こう?」
愛しい声が、そういざなう。ギルバートは俯いたまま頷いた。するとオズは、よかった、と安堵の息をつき、春になったら白い清楚な花を摘む指先で、ギルバートの黒髪に軽く触れた。
その優しい接触に、ギルバートは瞼を伏せる。喉の奥が少し痛んで、ああ自分は泣きたいのだ、と知った。白い野薔薇をオズから受け取る。その幻があまりにも美しく、醜く、そしてあまりに、悲しかったから。
いっそその花の棘を、オズのこの愛おしい指先が折らなければいいのだ。そう思う。胸にいだくたびに、柔らかな肌を裂く花ならば、望むだけの痛みを与えてくれるだろう。


(春になったら野薔薇を摘みに)
(2010/11/09)




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