calm of Eden | ナノ


見上げると、深い深い藍色の空だった。張り詰めたような静寂に冷たく澄んだ空気。吸い込まれそうな藍色の空の中で、音のない静けさで無数の星だけが瞬いていた。
偽りではありえない美しい星の瞬きが、この世界が、少し前までオズが堕とされていた深淵ではないのだと教えてくれる。その確信を得たいがために、オズは寒空の下、酔狂にも夜空なんぞを見上げたのかもしれなかった。
飽きることなく星を見上げているオズの背中に、突然ばさりと厚手の布が掛けられた。驚いて振り返ると、漆黒を身に纏った長身の青年が、いつのまにか傍らに立っていた。
「あれ、鴉」
「こんな時間に何をしている」
せめてそれを羽織っていろ、と金の瞳がオズの背中に掛けられた布を示す。肌触りのいいそれはよく見るとガウンのようだった。青年のものなのか、オズの身にはだいぶ大きく、布の端が芝生についてしまいそうになるので、しっかりと肩に羽織ってそれを食い止める。
柔らかな布地が、思いのほか冷えていた体に心地よく絡んだ。
「ありがと、鴉」
「いや…」
言いそびれていた礼を口にすると、長身の男は伏目がちに視線を逸らして、懐から煙草を取り出した。シュッと音がして、すぐに苦い煙が鼻先を掠めた。オズがアヴィスから戻って以降、理由は分からないがずっとオズの傍らにある青年が纏うその苦い香りが、オズは嫌いではなかった。澄み切った夜の気配に、その匂いはとてもよく似合う。
そんなことをつらつらと考えていると、金の瞳がオズをじっと見ていることに気付いた。
「どうかした?」
問いかけるが、黒髪の青年は無言で煙草を備え付けられていた灰皿に押し付けてからオズに手を伸ばした。白い手袋をつけたままの指先が、オズの肩にあるガウンのボタンを留める。
「しっかり着ていろ。風邪を引くぞ」
まるで母親のような気の遣い方だ。しかしそんなことを言う鴉の方は、白いシャツを身に着けただけの格好で、オズなどよりよほど寒々しい。お前も何か着ろよ、と言いかけて、その瞬間に脳内を過ぎった既視感に、思わず言葉を止める。
同じような状況で、同じような言葉を、誰かと交わしたことがある。
記憶を探るまでもなく、すぐに答えは出た。アヴィスに堕とされる以前に、生家である屋敷で、小さな従者と交わした会話だ。
黒髪の幼い少年の相貌を思い浮かべ、オズはふ、と口元を緩めた。
「なんだ?」
不審げに聞いてくる青年に、「なんでもない」と答えてから、また夜空に目を向ける。清冽で深い藍の空に瞬く星の光は仄かだが優しい。
オズは幼い頃から、それを見ているのが好きだった。



『風邪引きますよ、坊ちゃん』

テラスで星を見ているオズに、幼い従者はよく心配げに声をかけてきた。もう少し見ているからおまえは休め、と言い聞かせても、従者は首を横に振るばかりだ。
『せめてこれ、着てください。夜の空気はお体に悪いです…』
幼い従者は、オズのガウンを持ってきて、それをそっと差し出してきた。どこまでも深く慈しむようなギルバートの気遣いに、なんだか少し照れくさくなって、無言でそれを受け取る。
その瞬間に、小さな従者の手がオズの手に触れた。ひんやりと冷たい手だった。寒空の下に佇んでいたオズの手よりもずっと冷たい。驚いて、思わずギルバートの手を握りこむ。
『お前、この手…』
『あ、すみません、冷たいですよね』
ギルバートは慌ててオズに握られた自身の手を引き抜いた。
肌が離れても、ギルバートの細い指が残した冷たさがオズの指先から消えなかった。
オズは再びギルバートの指先を握りこもうとするが、ギルバートはオズに自身指の冷たさを移してしまうことを怖れるように、一歩下がった。その仕草が、オズにはもどかしかった。
ともあれ自分がこの場にいれば小さな従者の手がこれ以上に冷たくなってしまう。それを避けるために、オズはテラスから部屋に戻った。ギルバートは安堵したように、オズに従って室内に入る。
屋内であっても、冬の夜は冷えている。暖炉に火を灯す時間も惜しくて、ギルバートに手を伸ばし、その手を温めようと思った瞬間に、ノックの音が聞こえた。
『オズ坊ちゃん?まだ起きているんですか?』
ドアを開いて顔をのぞかせたのは、ミセス・ケイトだった。夜更かしを咎められると、オズとギルバートは反射的に首をすくめる。案の定、ミセス・ケイトは眉を吊り上げて小言を言い始めた。
だが、さすがにオズを寒い部屋に立たせておくことは気が引けたらしく、ミセス・ケイトはすぐにオズを寝台へと押し込め、再度早寝早起きの重要性を説いてから、ギルバートを伴ってオズの部屋を後にした。
『おやすみなさい、坊ちゃん』
部屋を出る瞬間に、ギルバートが振り返って笑顔でそう告げる。オズも「おやすみ」と返したが、寝台の中でまた、冷たいギルバートの指先のことを思い出していた。
あんなに冷たい指で、あの小さな従者はこの寒い夜を越すのだろうか。そんなことを考えていると、妙にやるせない気持ちになった。


「オズ? どうかしたのか?」
しばらく回想に浸っていたオズに、青年が不審げに声を掛けてきた。
「ごめん、鴉。ぼうっとしてた」
「大丈夫か?」
青年は心配げにオズの顔を覗き込んでいる。大切な従者と同じ、美しい金の瞳にオズの顔が映った。今夜はいつも以上に、ギルバートの面影がちらついて離れない。
オズは鴉にあいまいに微笑んでから、無数の星たちが瞬く藍色の空を見た。空気の澄み切った、張り詰めたような寒い夜。あの幼い従者は、この寒い夜に、指先を氷のように冷たくしてはいないだろうか。どうしようもない焦燥や寂しさのようなものが胸に走る。
そんなオズの頭を、撫でる手があった。黒い手袋に覆われた指。鴉だ。
「鴉?」
「そんな顔をするな」
青年の指先が、オズの髪をわしゃわしゃとかき回す。その感触がなんだか心地よくて、抗議の声を上げる気にもならなかった。
「…そろそろ戻るぞ」
そう告げて、青年はオズの頭からようやく手を引いた。オズはなんとなく名残惜しく思いながら、その黒い手袋を見送った。今しがたオズの頭から引かれたその指先は、手袋を嵌めてはいるが、ひどく冷えているのではないだろうか。何故かオズにはそう思えてならなかった。



眠れないのだと甘えてみれば、当然のように彼はオズ好みの甘いホットミルクを淹れてくれた。それをオズが飲むのを見届けている優しげな金の瞳は、まさしくギルバートのもので、いくら図体が大きくなっているとはいえ、よくも気付かなかったものだと今になってしみじみ思う。
「それを飲んで体を温めてから、寝台に入れ。眠れるはずだ」
ギルバートは、オズよりも大きくなった手で、わしゃわしゃとオズの髪をかき回した。いつかのあの星空の夜と同じように。
甘えついでに、オズはその黒い手袋に覆われた指先を掴んだ。
「…オズ?」
「ねえギル、この手袋取ってよ」
頼むと、ギルバートは少し驚いたようだったが、彼がオズの頼みを断れるはずもない。躊躇いがちに、それを外した。やがて現れたギルバートの白い手に、指を伸ばす。そして躊躇いなくその指先を、握った。
驚いたように、オズの手の中でその指が跳ねる。それに構わず、強く握りこむ。
「やっぱり、冷たい」
室内にいたはずなのに、ギルバートの手はひどく冷えていた。
「体温が低いわけではないんだけどな」
ギルバートは、少し照れたようにそう言ってから、オズの手から自分の手を抜こうとする。
それを許さずに、強くその指先を捉えれば、さすがにギルバートは不審がった。
「オズ、どうかしたのか」
「…ずっと」
「ん?」
「ずっと、温めたいと思ってたんだ」
この指先を。まだ幼い従者のギルバートの指先。まだギルバートではなく鴉と名乗っていたときの、黒い手袋に覆われていた指先。その冷たい指先を、この手で温めたかった。
告げると、ギルバートは顔を朱に染めて慌てた。その様を見ながら、少しずつ自分の体温に近づくように熱を持っていく指先を、ぎゅっと更に強く、握った。


(calm of Eden)
(2010/03/15)




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