中等部の校舎の裏に、古い洋館がある。かつてはそこは図書館として使用されていたが、老朽化が進み、現在では立ち入り禁止となっている。その洋館のさらに裏に回ると、小さな中庭があるのだ。 時折業者が掃除に入るが、普段はほとんど人が立ち寄らないため、荒れた庭だ。その庭の片隅に、小さな温室があることは、ほとんどの生徒は知らないだろう。 瀟洒なガラス張りの温室だが、そのガラスはいたるところが割れ落ち、中の草木も夏の日差しを浴びて伸び放題になっている。濃い緑の匂いを立ちこませ、光が反射するその温室は、オズの格好の隠れ家だった。 補講の始まる前に、久々にそこに立ち寄ると、人影があった。しかも驚いたことに、その人影はよく見知った者だった。 「こんなところで何やってるのさ」 「……!」 人影は声もなく目を見開いた。尋常ではない驚きようだった。見開かれた金の瞳が、オズの顔を大きく映している。 「ギル?」 「……あ、ああ、オズか…」 そう言ってギルバートは瞳を逸らした。その、どこか潤んだような金の瞳に、何をそれほど驚いていたのか察してしまう。 「ジャックだと思った?」 胸に走った苛立ちのままに、思わずそう尋ねる。ギルバートは目に見えて体を硬直させた。 「どう、して」 「ごめんね。オスカー叔父さんから聞いた」 ギルバートは苦々しく眉根を寄せたが、力なくふるふると顔を振った。 「いや…俺こそ、悪かったな。はじめにおまえを見たとき、取り乱したりして」 それは生真面目なこの教師に相応しく、誠実な謝罪なのだろう。それでもオズは、違う、と思った。 そんな風に謝って欲しいわけではなかった。ただ、オズをオズとしてみて、オズの「好きだ」という言葉をオズの真剣な言葉として受け取って欲しいのだ。 そんなオズの真意に気付かずギルバートは、寂しげな瞳で、温室の砕けた天井を見上げている。 「ここは、よくジャックが連れてきてくれた場所だ。あの頃は…とても綺麗な温室だったんだけどな」 ガラスは割れ、整えられていたはずの草木は伸び放題となっており、今では当時の名残もあまりないのだろう。 それでもその当時の面影を探すように、切なげな瞳で温室を見渡すギルバートに、オズはひどく苛立った。オズを見ても、オズだと認識するより先にジャックを思い浮かべるギルバートは、この学校で、今でもジャックを探し続けているのだ。 「……もう、いい」 「オズ?」 「もういいよ」 「オズ、どうしたんだ?」 「もういい、もうやめる」 悔しくて、涙がこみ上げそうになる。15歳にもなって、人前で泣くことなんてできない。涙が零れる前に、オズは身を翻して温室を出た。 ギルバートの声が追いかけてきたが、それを振り切って駆け出した。 ギルバートは、オズがこんなに近くにいても、オズを見ない。それが悔しくて、もう好きでいることなんてやめたかった。 その後始まった補講でギルバートは、当然のようにどうしたのだと問いかけてきたが、オズは無言を貫いた。ただ与えられたプリントを黙々とこなし、ほとんど目線を合わせずにそれを提出した。 ギルバートにはオズの感情など分かるはずもない。だから、オズの態度は大人気ないものだとは思うが、それでも、なんでもないことのように会話を交わすようになるまで、もう少し時間が欲しいと思った。 もう少し時間が経ち、気持ちの整理がついたら、前のように明るく無邪気に応じることもできるだろうが、今のオズにはまだ無理だ。 悔しさも、悲しみも、思慕も、消える兆しさえ見えない。オズはそのまま学校を後にした。 次の日、いつにも増してギルバートはだるそうに見えた。元から白い頬が、さらに青白く見える。 オズは未だにまともにその顔を見て会話をすることができなかったが、それでも教師の異変にはすぐに気付いた。春から馬鹿みたいに彼のことばかり見ていたのだから、勘違いのはずもない。調子が悪いのだろうか。 気にはなったが、前日と同じようにオズは、黙々とプリントの問題を解いて、それを提出した。 「…オズ」 聞きなれた声が、そう呼びかけてくる。 そんな声で呼ぶのは反則だ、とオズは思う。聞きやすい適度に低い声なのに、どこか温かで寂しげな声だ。その声で、やはり縋るようにオズを呼ぶ。応じてしまいたい衝動を抑えて、オズは彼に背を向ける。 憂いを含んだ目を向けてくるギルバートの視線を感じつつも、それから逃げるように教室を出た。 補講は午前で終わったが、オズはその後、所属している生徒会の雑務をこなしていた。何かに没頭していた方が気が紛れるのだ。 しかし、ふと、まだ夕方の5時前だというのに辺りが薄暗いと感じて窓の外を見た。少し前は夏の澄んだ青空が広がっていたはずのそこに、重い雲が立ち込めていた。厚い雨雲だ。 「一雨きそう…」 オズはバス通だが、バス停まで徒歩で5分ほどある。降り出す前に帰ったほうがいいだろうと、帰宅の準備して廊下を歩いているうちに、耐え切れずといった風情で、雨の雫が落ち始める音が聞こえた。 一度降り始めると、夏の夕立の常で、それはひたすらに激しさを増していく。 降り出した雨は強風に煽られ、窓ガラスを叩く。人影がほとんどなく、雨音ばかりが響く学校というのは、まるで世界の果てのようにさえ思われた。 鬱々とした思いのままに、窓ガラス越しに重苦しい空を見上げていると、ばたばたと廊下を走ってくる者がある。ものすごいスピードで駆けてくるその影は、オスカーのものだった。 「オスカー叔父さん! どうしたの?」 「っ、ああオズか。丁度よかった。おまえ、午後にギルを見なかったか?」 「ギル、先生? どうかしたの?」 「…今日はかなり調子が悪そうだったから、保健室に向かわせたんだ。でも保健室は無人だし、ブレイクに訊ねても来ていないと言うし」 確かに、午前の補講を受けていたとき、ギルバートは相当だるそうだった。やはり不調によるものだったのか、とオズは眉根を寄せる。 「オレは午後は見てないよ。具合悪いなら、帰ったんじゃないの? 病院に行ったとか」 オズの疑問に、オスカーは答えを返さなかった。黙り込んで、じっとオズの顔を見る。 「…? どうしたの?」 「いや…多分、それはないだろう」 「何で?」 「遠縁だからお前は知らないよな。今日は…ジャックの命日なんだ」 「……え」 「ジャックは学園から所用で外出して、それから学園に帰ってくる途中で事故に遭ったんだ。あいつはその日、この学園に遊びに来ていて、ジャックの帰りを待っていた」 「そう、なんだ…」 「それからギルバートは、毎年この日にはこの学校に来ていた。今日もこの後、一緒に御参りに行こうという話をしていたんだ。黙って帰るとは思えない」 でもギルバートはふらりと消えて連絡が取れないし、そのうち雨が降り出すし、心配になって捜しているのだ、とオスカーは続けた。 「あいつ、毎年この時期になると未だにかなり不安定になるからな…」 まったくどこにいるんだ、と心配げに呟くオスカーに背を向けて、オズは走り出した。慌てたようなオスカーの声が、「どこに行くんだ」と呼びかけるが、それにも答えずオズは下駄箱から外に出て、校舎裏の洋館を目指した。 この午前、青白い顔で、一度だけ縋るようにオズの名を呟いたギルバート。あのとき答えるべきだったのだろうか、と後悔が浮かぶ。 盛夏の夕立は激しい。校舎を出ると、見る見るうちにオズはずぶ濡れになった。鞄を探れば折り畳み傘が入っているはずだが、それを取り出すような余裕はなかった。 緑の深い中庭を越えて、オズはひたすらに、かつて美しかったという温室に向かって走った。彼はおそらく、あの温室にいるだろうと確信していた。 遠くから見ると、その温室には誰もいないように見えた。だがよく見ると、黒い人影が横たわっている。 「ッ! ギル!!」 オズは夢中になって温室に走りよった。温室に入ると、雨に濡れて濃くなった緑の匂いが強く漂っている。 ガラス張りの温室は、天井のガラスも砕けていて既に天井の役割を殆んど果たしていない。強い雨粒がそのまま、気のままに育った植物に降り注いでいる。 かつて美しかったであろう温室の名残の、緑の柔らかく生い茂った土の床に、ギルは仰向けに倒れこんでいた。 「ギル、大丈夫!?」 駆け寄って呼びかけると、ギルバートは薄っすらと瞼を開けた。どうやら無事であるらしい。 だが強い雨の粒が、砕けた天井から降り注いでいて、ギルバートの身体は酷く濡れていた。降り出したときからこうしているのだろう。 「ギル!」 強めに呼びかけると、全身をしとどに濡らしたギルバートが、その金色の瞳の焦点をオズに合わせる。 そのことに安堵してオズは、柔らかな緑の土に手をつき、ギルバートの身体の上に覆いかぶさった。初めて触れたギルバートの硬い身体は、意外なほどに細い。 「…ギル、」 至近距離でその名を呟く。どこか虚ろな瞳にオズを映したギルバートは、ゆるゆるとその唇を開いた。 「…ジャッ、…」 「…!」 しかしその唇が求めたのは、オズの名前ではなかった。 悲しさとも苛立ちとも切なさともつかない感情がわきあがる。その激情のままに、オズはギルバートの唇を自分のそれで塞いだ。 「…ッ」 オズの突然の行為に、ギルバートはびくりと身体を震わせた。しかし、抵抗する様子はない。キスは触れ合うだけでは終わらず、オズは舌をギルバートの口内に侵入させた。応えることも拒絶することもしない彼の舌を吸い上げる。 もう好きでいることなんてやめようと思っていたのに。その決意も、絡めあう舌の感覚にぐずぐずと崩れていってしまう。 「…っ、ぁ…」 口付けの合間に、ギルバートが息を漏らす。その唇が、自分ではない男の名前を呼ぶことを怖れて、オズは再びそれを塞ぐ。 そのまま絡め合わせたのは、雨に濡れて冷えた体に反して、溶けそうに熱い舌だった。 (夏の果実) (2009/08/29) |