till morrow | ナノ


耳に心地よい低めの声が、淡々と話す。その静かな声を聞いているのが好きだった。
長い睫毛を常に伏せがちにしていて、長めのまっすぐな黒髪がその睫毛にかかる。ただそれだけのことが、とても綺麗に見えて、ずっと見ていたかった。


ジャックはよく、グレンに「何か話しをしてくれないか」と頼んだ。ジャックとしては、他の何でもなくただグレンの話を聞きたかった。だがそう願ってもグレンは「何を話せばいいのか検討もつかない」というので、仕方なく「じゃあ、サブリエの歴史について話してくれ」というような流れになった。
彼は博学で、文学にも歴史にも天文学にも詳しかった。ジャックとて曲がりなりにも貴族の一員ではあるので、それなりに教養豊かではあるが、それでもグレンには敵わないだろう。
「サブリエの歴史」はあるときは、「サブリエの文学」であったり、もしくは「天体の移ろい」であったりした。グレンはそういう知識を語り始めれば滞ることなく、相変わらず伏目がちではあるがとても楽しげに語った。
その中でもグレンが最も楽しげに語ったのが、音楽の話だった。かつて脚光を浴びた作曲家や、孤独のうちに消えたピアニストなど、彼は多くの音楽家を知っていて、その音楽家の奏でた音について語るとき、彼はとても生き生きしているように見えた。
ジャックは音楽が好きだが、遠い昔の音楽家の人生についてそれほど興味があるかと聞かれると、正直なところそれほどでもない。悲しいピアニストの波乱の人生よりも、最近世話をしている幼い兄弟に読み聞かせる甘く優しい童話の方が何倍も好きだ。
それでも、ジャックはグレンが語る言葉を、一言も聞き逃さないように聞いていたし、ほんの僅かな表情の変化も見逃さないよう、静かな口調で語る彼の姿を心に刻み付けた。


「こんな話、聞いていて楽しいのか?」
ジャックがあまり楽しげに聞いていたからだろうか。ある日グレンがそう尋ねてきた。そのとき彼が話してくれた内容は、法学大全とかいうすでに古典のように古臭い文体の、法律の分厚い専門書の内容についてだった。幼子なら、話しを聞き始めて5分後には退屈すぎて眠るだろう。
ジャックとて、法学に深い興味があるかというと、はっきり言ってそんなことはない。語っているのがグレンでなかったのなら、10分後には眠ってしまっていただろうという自信がある。でも、グレンが穏やかに語るから。
「楽しいよ、すごく」
その言葉に、何の偽りもなかった。ただグレンの抑揚に欠ける声を聞き、長い睫毛を伏せがちに語る顔を見ていられたら、それだけで楽しかったのだ。
「そうか?」
「そうだよ」
グレンは怪訝そうな顔をしたが、すぐに話の続きに戻った。また静かな声が紡がれる。それをジャックは心地よく聞いていた。あまりに穏やかな午後だった。


妥協してはならないことを妥協して、探し当てねばならなかった深い深い彼の感情を見つけられなかった。愚かにもそのことに気付かずに、ただ彼の隣りで不自然に穏やかな日常に溺れてしまっていた。
ジャックは瞼を伏せる。辺りは既に火が回っている。ジャックの隣りでは、黒髪の幼い従者が血溜まりに体を横たえている。せめて幼い彼とその弟だけでも、無事に安全な場所に逃がしたかったのだけれど。どうしようもない悔いばかりが浮かんでくる。
一番の過ちは、いつも伏目がちだった唯一無二の友に巣食う狂気に気付かずに、安穏と過ごしていた自分自身だ。多くの時間を、手を伸ばせば触れられるほどに近くで過ごしたというのに。
「グレン…」
ここにはいない友人に呼びかける。呼び声は、轟音を上げて爆ぜるような炎の音に撒かれて消えた。届かないことなどもう知っていた。
「やっぱり私は、君の話が聞きたかったよ」
歴史の話でも法学の話でも、はるか昔のピアニストの話でもなく。ただ、グレンの話が聞きたかった。グレンの話を聞くべきだった。そんなことに今更気付くなど、あまりにも愚かだ。
それでもジャックは、また深い夜を閉じ込めたような黒髪をした親友の、毅然としていてすらどこか哀しげだった顔を思い浮かべる。
「また、よく晴れた穏やかな午後に、君と話ができたなら、」
それはいつになるか分からない。もしかしたら、そんなときはもう永劫に来ないかもしれない。それでも願った。
ジャックの声も、願いも、グレンには届かない。だが願わずにはいられなかった。

「そのときは今度こそ君の声で、君の話を聞かせてくれ」

心の淵からの願いを一度だけ口に乗せて、ジャックは瞼裏に焼きついた親友の哀しげな面影に別れを告げた。
それから、炎の荒れ狂う廊下を歩く。行くべき先は理解していた。
豪奢なこの屋敷の廊下も、おそらくそう間をおかずに崩れ落ちるだろう。だが、迷わずに進んだ。ただ一人、暗闇に取り残されて途方に暮れた子供のように孤独な、彼のもとへ。


(till morrow)
(2009/10/19)




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