本を読む、というのは、ギルバートにとっては魔法をかけるようなものだった。 それも、黙読ではない。音読する。そしてただの音読ではない。朗読して、誰かに読み聞かせる。この場合、重要なのは読者が声に出して読むことであり、そしてそれを聞く人間がいるということだ。 はじめて朗読の魔法にかかったのは、まだベザリウス家でオズに仕えていたときのことだ。 ベザリウス家にきてそれほど年月の経っていない頃で、怪我もすっかり癒えて精神的にも落ち着いてきてはいたが、それでも時折何かに酷く怯えてしまうことがあった。 何に怯えていたのか、ギルバート自身にさえよく分からないし覚えていないが、ただ怖くて怖くて、前を見ることにも後ろを振り返ることにもできない。そんな瞬間が、時折訪れた。 その夜も、何があったわけでもないのに酷く怖くなって、ギルバート用に用意された個室のベッドの上で小さくなり、シーツを握り締めてガタガタと震えていた。そんなときに、主であるオズがギルバートの部屋を訪れたのだ。 オズはベザリウス家の唯一の男子で、自分の主人だ。それが、一使用人に過ぎないギルバートの部屋を訪れるなどあってはならない。慌てて飛び起きると、オズは「眠れないから相手をしろ」と言ってきた。 取りあえず主人を自分の質素な部屋に長時間いさせることなどできないと何とか説き伏せて、主人の眠るべき部屋に戻す。オズはぶつくさと文句を言いながらも柔らかな寝台に身を横たえたが、しかしギルバートを解放してはくれなかった。 「なんか話とかしろよ」 「無理です! 坊ちゃんに聞かせるような話なんて知りません!」 「じゃあ本を読め」 「…でもボク、あんまり字を読むの得意じゃないし…」 実のところ、ベザリウス家に保護される以前の記憶はなかったが、不思議なことに当初から文字を読むことはできた。だがやはりそれも最低限のものでしかなく、とても主人に本を読み聞かせられるようなものではなかった。そもそも、誰かに本を読むという行為自体したことがない。 すると、オズは小さく溜め息をついて「仕方ないなあ」とぼやいた後で、ベッドサイドのテーブルに置かれていた薄目の本を取り上げ、ごそごそと体をずらした。 「ほら、ここ入って」 「…え!?」 「ここ入れって言ってんの。オレが読んでやるから、おまえは聞いてろ」 「むむむ無理です! 駄目です!! 坊ちゃんと同じベッドになんて上がれません!!」 「いいから。主人命令」 「…ううう…」 泣く泣くオズの横に入る。主人のベッドは温かでふわふわで、ギルバートは落ち着かなかった。 ギルバートがベッドに入ったことを確認してからオズは、手にした本を開いた。 さすがにいつもエイダに読み聞かせているだけあって、オズは朗読が上手い。その声を聞いていると、いつの間にかふわふわと幸せな気分になって、さらに眠気が襲ってきた。 そういえば、ついさっきまで怖くて眠気なんて遠かったはずなのに。ギルバートは不思議に思う。こんな風に、溶けてしまいそうなほどに幸せな気分になるなんて。本を朗読するって、魔法みたいだな。そのときギルバートは初めてそう思ったのだ。 せっかく坊ちゃんが本を読んでくれているのに、自分が眠るわけにはいかない。そうは思いながらも、やわらかく降り積もるような眠気に勝てそうにない。瞼を伏せると、それまで本を読んでいた主人の声が一瞬とまり、髪に優しい感触があった。 「…おやすみ、ギル」 そんな声が聞こえた気がしたのが最後で、ギルバートは溶けてしまいそうに幸せな夢の中に落ちていった。 次の朝は、主人の柔らかなベッドの中で、主人と身を寄せ合うようにして眠っていたところを、頭に角を生やしたミセス・ケイトに起こされた。使用人が主人と同じベッドで眠っていたのだから、彼女の怒りも当然だ。ギルバートは顔を青くして謝ったが、意外なことにミセス・ケイトは小言こそたくさん言ったが、思っていたほどは怒らなかった。 「それで、よく眠れたの?」 「え? …ハイ、よく眠れました」 「…それなら、いいわ。でもこれっきりですよ!」 「は、はい! もちろん!」 それで小言もおしまいだった。ギルバートにはわけが分からなかったが、ミセス・ケイトの後ろでオズが悪戯っぽい、しかし優しい瞳をしてこちらを見ていたことだけが印象に残った。 後から考えれば簡単な話で、ギルバートが恐怖に震えて眠れない日があることなど、オズやミセス・ケイトにはお見通しだったのだろう。だからオズは、ギルを呼んで本を読み聞かせたのだし、ミセス・ケイトもそれが分かっていたからあまり怒らなかったのだろう。 眠れないから相手をしろ、というのはオズのやさしさで、ギルバートを自分の部屋に呼ぶための言い訳に過ぎなかったのだ。 それからギルバートは、オズが本を朗読してくれたその夜を思い出すだけで幸せな気分になった。 久しぶりに本を朗読する、という魔法を思い出したのは、それから2年の年月が経ったときだった。 オズがアヴィスに落とされ、ギルバートがナイトレイ家に養子として迎えられてから半年ほど経った頃だろうか。ナイトレイ家には、実弟だというヴィンセントのほかにも、エリオットという義弟がいた。 まだ10歳にもならない幼い義弟だが、年の割りにしっかりとした性格をしており、正直なところ、ギルバートに対する態度は刺々しい。唐突に、敵対する公爵家の使用人だった者が義理の兄となったのだから、受けいれろと言う方が無理があるとギルバートも諦めてはいた。 ある夜、そのエリオットが熱を出した。どうやら風邪らしい。ギルバートはその義弟の様態が気にはなって、深夜近く、エリオットを看ていた使用人たちも引き上げた頃に、そっとエリオットの部屋を訪れた。 「…なにしにきた」 こっそりと様子を見るだけのつもりだったが、自室への侵入者にすぐに気付いたエリオットが、声をあげる。 「あの…、具合はどう?」 「もんだいない」 「そう、それなら…」 いいんだけど、と言おうとしたが、ベッド脇に置かれた蝋燭に照らされたエリオットの顔が思っていた以上に赤くて、ギルバートは思わず彼の額に手を触れた。熱い。 「…さわるな!」 「エリオット、ひどい熱じゃないか! 待ってて、今誰か呼んでくる」 「よけいなまねはするな!」 強く跳ね除けられて、ギルバートは体を硬くする。 ナイトレイ家の人間は、よく教育が行き届いてはいるが、必要以上に子供たちの世話を焼いたりはしない。それがこの家の方針なのだろうが、ベザリウス家にいたギルバートには、それがどこかよそよそしく映った。今だって、こんな状態のエリオットを一人にするなんて、と思ってしまう。 少し思案したが、ギルバートはエリオットの枕元に留まることを決意した。水桶でタオルを絞り、彼の額におく。また余計なことをするなと怒られるかと思ったが、エリオットは何も言わずにギルバートを見ていた。 「…ボク、いないほうがいい?」 「……べつに」 エリオットは顔を逸らして、そう小さく呟いた。どうやら邪魔ではないらしい。それに少し安堵したが、今度は、次にやるべきことが思いつかず焦ることになった。 エリオットは相変わらず顔を熱で真っ赤にして、息苦しそうにしている。もしかしたら、苦しくて寝付けないのかもしれない。そう感じて、さらにどうしよう、と焦っていたときに、不意にあの夜のことを思い出した。怖くて怖くて眠れなかったときに、オズが本を朗読してくれたあの魔法の夜だ。 意を決してエリオットの部屋を見回し、ソファの前に置かれていた本を手に取る。やはりそれは子供向けの童話だった。 開くと、最初のほうににしおりが挟んである。机の前の椅子を持ってエリオットの枕元に戻り、そのページを小さい声で読み始めた。エリオットは驚いたようだったが、やはり何も言わない。 オズのもとにいたときよりはだいぶ字も読めるようになったが、やはり得意ではない。朗読などもってのほかで、オズとは比べようもないほどへたくそな朗読になってしまった。何度もつっかえてしまい、そのたびに恥ずかしくなる。 「ごめんね、うるさい?」 こんな朗読では、自分が味わったような幸せな気持ちにはなれないだろうと不安に思い尋ねると、少し間をおいて、また「べつに」という答えが返ってきた。それに勇気づけられて、また本を読み始める。 すると、それから数ページ進んだ頃に、小さな寝息が聞こえ始めた。エリオットが眠ったのだ。その顔が、ずっと安らいでいるように見えて、ギルバートは嬉しくなる。やはり、本を朗読する、というのは、魔法をかけることなのだ。魔法のように、相手を安らげることができるのだ。ギルバートは確信した。 次の朝、熱を冷ましたエリオットは、やはりいつもと同じく硬い態度で接してきたし、ギルバートもそれは当然だと思ってはいたが、少しだけ以前の刺々しさが薄れたことにも気付いていた。 そして話は現在に戻る。 オズがアヴィスから戻り、所用があって久しく帰ってはこなかったナイトレイ家に足を踏み入れると、ラトウィッジ校の休暇を利用して帰宅していたらしいエリオットと鉢合わせた。 17歳になり、すっかり大人びた義弟は、最近ではギルバートに対する態度を以前より硬化させていた。敵対する公爵家の跡継ぎを主人と慕い、ナイトレイ家を毛嫌いしているギルバートなので、嫌われるのも仕方ないとは思ってはいるが、それにしても最近のエリオットはとみに態度がきつい。 その日も、ギルバートと屋敷で遭遇するなり、自室に引っ込んでしまった。「久しぶりだな」と声を掛ける暇もなかった。さすがに心が折れそうだ、と凹んでいたら、エリオットの従者でありよき理解者でもあるリーオが、「お義兄さんに久しぶりに会えたんで、気恥ずかしいだけですよ。本当はすごく嬉しいんです」と言ってくれた。 その言葉に励まされて、ギルバートは夕食後、エリオットの部屋を訪ねた。彼は不機嫌そうな顔でギルバートを見たが、それでも部屋に迎え入れてくれた。 しっかりと目線を合わせるのも久しぶりだったので、ギルバートは彼の成長振りにかなり驚く。であった頃は10にもならなかったため、オズと比べても随分小さいな、と思っていた少年だが、いつのまにか随分と大きくなった。 「なんだ、じろじろと見て」 「いや、大きくなったと思って。…もうオズより大きいな」 後半は独り言のつもりで呟いたのだが、しっかりとそれを耳にしたエリオットは、不機嫌に眉尻を上げた。そのことにギルバートは気付かなかったが。 それなりに読書の好きな義弟の部屋は、幼い頃に比べて本が増えている。それを見るとはなしに眺めていると、本棚の片隅に、彼に似つかわしくない薄手の本が数冊並んでいることに気付いた。背表紙に書かれた見覚えのあるタイトルに、それがかつてギルバートがエリオットに読み聞かせたあの童話だと気付く。ギルバートの視線の先に気付いたエリオットが、慌ててその本を隠す。 「これはその、内容が気に入っているからまだ置いてあるだけだ!」 焦ってそう言い訳するエリオットを不思議に思いながら、見られるのが嫌なようなので視線を外すと、今度は別の本が目に入った。それを手に取ると、心に深く馴染んだものと寸分の違いもない。 「その本がどうかしたのか」 「いや、この本、初めてオズがオレに読んでくれた本なんだ」 思いがけない過去との遭遇に、思わずテンション高く答えてしまう。ギルバートからまたオズ、という名前を聞いたとたんに、エリオットが唇を噛んだことになど、ギルバートは気付かなかった。エリオットの変化になど気付かずに、懐かしいな、と呟いてその薄い本を開く。タイトルと、10年以上前にオズが読んだ始まりの一節を口にしたときに、ぐっと腕を引かれたかと思いきや、そのまま後ろに倒されてしまった。 幸い柔らかなカーペットが敷かれているので大して痛くはないが、衝撃に目を見開く。上品な天井と、それから鋭い目をしたエリオットが映った。 「エリ、オット…?」 「おまえは! 結局…っ!」 鋭い視線と悔しげな表情に、自分が何か彼の逆鱗に触れることをしてしまったらしいと気付くが、それが何か、この上なく鈍いと評判のギルバートには分からない。分かったことは、子供だとばかり思っていた義弟が、その肩のラインなど、いつのまにか思っていたよりも精悍さを手に入れているということだけだった。 そのエリオットの表情は、やがて切なさを帯びて、耐え切れない、というようにその顔がギルバートに近づいてくる。 「オレは、ずっと…!」 それに続く言葉を聞きながらギルバートは、真っ白になった頭を必死に回転させる。しかし動きの鈍い頭は何の役にも立ちはしない。 ただギルバートは、たった一節の朗読で、今度は自分は一体どんな魔法をエリオットにかけてしまったのだろうと、どこか遠くそんなことを考えた。 (ワンセンテンス・グラヴィティ) (2009/10/05) |