寒くてさみしい石造りの廊下にエコーの主は倒れていた。堅牢なこの邸宅の廊下は、歩くたびにかつかつと冷たい音がする。エコーはわざと足音を殺さず歩いたが、主人は動く気配も見せなかった。 「ヴィンセント様」 「……ん…、」 「ヴィンセント様。目を覚ましてください。お風邪を召されます」 広大な邸宅内の多くの部屋は、赤々と暖炉に火が入っているというのに、どうしてわざわざこんな寒くて寂しい場所を選ぶのだろうか。エコーはそれなりに長い時間をヴィンセントと共に過ごしているが、未だに主人の心中は分からない。 こんな、さみしく雪の降る、凍える日に。こんなさみしく冷たい場所で、エコーの主人は丸くなっていた。 「ヴィンセント様。どうか自室にお戻りください」 エコーではこの主人を部屋まで運ぶことはできないが、放置すれば、さすがに凍死はしないだろうが身体を壊しかねない。これで起きる気配がないのなら、毛布を重ねて持ってくるしかないだろう。 そんなことをつらつらと考えていると、どうやら眠りから少しずつ覚醒したらしいヴィンセントが、もそもそと身体を起こし、薄っすらと瞳を開けた。眠り鼠に当てられていたのか、随分と深い眠りだったようで、瞼が少し腫れぼったくなっている。 「お目覚めですか」 「……エコー?」 「そうです。お休みになられるならもっと暖かな場所を選んでください。今夜は冷えますので」 「…少し明るいけど、雪、積もったの?」 「ええ、積もりました」 欠伸交じりに主人が尋ねるので、エコーは淡々とそれに答えた。 堅牢な廊下の窓の外では、雪が降り止まない。そのせいか、いつにも増してこの屋敷は無音の静けさだった。常に闇に包まれているようなこの邸宅が、白光りする雪のせいで、少しだけ明るい。それは仄かで、さみしい明るさだった。 「そう。だからこんなに寒いんだね」 「ですから、どうぞお部屋に」 「エコー、おいで」 「……」 主人は、エコーの言葉など聴かずに繊細な手で手招きした。エコーは逆らわず、ヴィンセントの隣りに腰を下ろす。ヴィンセントはふわりとその頭をエコーの肩に凭れさせた。 「夢を見ていたよ」 ヴィンセントは、静かで穏やかな口調でそう告げた。そのまま夢の続きを見るように、ヴィンセントはどこかうっとりとした様子で先を続けた。 「ずうっと昔の頃の夢。寒くて寒くて、髪も凍るような雪の日にね。野良犬も出ないような裏道で、こうやって兄さんと、二人っきりだったんだ」 ヴィンセントは実兄のギルバートを溺愛しているが、二人の遠い過去の話をすることは滅多にない。エコーは沈黙でそれに答える。 「兄さんってば僕の手をずっと握って、何度も何度も、寒くない? って聞いてくるんだよ。ふたりともがたがた震えていて、寒くないわけなんてないのにね。…雪が辺り一面に降って、白くて、夜なのに明るくて、綺麗だったな」 ふふ、とヴィンセントは小さく笑った。いたいけな子供のような、幸せそうな笑い方だった。 エコーは無言を通した。こんなときに口にする合いの手など知らないからだ。 ただ、ヴィンセントの体温を感じながら瞳を伏せる。瞼には、隙間もないほどに寄り添う幼いギルバートとヴィンセントの姿が映った。それは、触れたらすぐに消えてしまいそうな、綺麗な結晶のようだった。実物ではなくただの幻だと理解している。 ヴィンセントは、雪が降り出すと決まって、寒いこの屋敷の廊下をふらりと歩き出す。――あるいはそれは、この、踏みしめるたびにかつかつと氷のような音を立てる冷たい屋敷で、兄を捜しているのかもしれない、と不意にエコーは思った。 「ねえエコー。あの夜にあの白い中で、兄さんと二人で冷たくなっていれば、それはそれで幸せだったと思うかい?」 不思議なほどに穏やかな声で、ヴィンセントは問うた。 エコーは答えなかった。 その答えはエコーには出せないし、ヴィンセントも、実際に答えを求めてはいないだろう。ただエコーは、閉じた瞼の裏で、互いの身体を労わるように、震える小さな身体を寄せ合う兄弟の幻を追っていた。 ヴィンセントはもう一度、ふふ、と小さく笑った。 無言が降ってくる。ただ雪の積もる中で、辺りは悲しいほどに静かだった。 静寂に耳を傾ける間もなく、微かな寝息が聞こえ始める。気まぐれなエコーの主人は、また眠り始めてしまったようだった。エコーは小さく溜め息を吐く。 少し経っても起きる気配がないなら、こっそりと抜け出して厚手の毛布を持ってこよう、とエコーは考えた。そのあとは、せめてヴィンセントが雪の中で覚醒するまでは、この場にいよう、とも。 (降雪挿話) (2009/09/22) |