ヴィンセントはよく雨の夜に、窓際で目を瞑る。 ナイトレイ家の邸宅は豪奢で、聞こえる雨音は密やかで、時折パラパラと雫が舞い落ちる音が聞こえる程度だ。 それでもその音を、ヴィンセントはひどく気に入っていた。気まぐれに水の音がするその窓際は、本の中でしか知らない「海の底」を思わせた。 そこでまどろんでいると、足音を殺すように、ヴィンセントの部屋の前の通路を歩く人の気配がした。 その気配が消えないうちに、自室から出て声を掛ける。 「兄さん、帰ったんだね」 「…ヴィンス」 暗闇の中で鈍く光る金の目が、のろのろとヴィンセントの姿を映す。それだけで、ヴィンセントは至福を覚える。 夜の闇の中にも、ギルバートの黒い衣装から水が滴っているのが見えた。 「濡れてるね。風邪を引いてしまうよ。誰か呼ぼう」 「いい!」 誰も呼ばないでくれ、と答えた兄は、何かに怯えているようにすらみえた。仕方のない兄さん、と薄く笑んで、ヴィンセントはギルの腕を引いた。 「じゃあ、せめて僕の部屋においで。ギルの部屋よりは暖かいから」 「…いや、」 ヴィンセントの提案さえ跳ね除けようとする兄の腕を、勿論離すようなことはしない。 弱く抵抗するギルバートの手を掴んで、自室の暖炉の傍に置かれたソファに腰掛けさせてから、その髪から滴る水滴を清潔な布で拭う。 しかし、ギルバートはそのヴィンセントの手を跳ね除けた。 「構うな」 出された声は、掠れたものだった。 ギルバートはあまり他人に接触したがらないが、今ここまで彼が人との接触に怯える理由は他にもあるだろう。ヴィンセントは腕を掴んだときから、ギルバートから雨と、それから血の匂いがすることに気付いていた。 「また、嫌な仕事をしてきたの?」 優しく微笑みながら問うと、ギルバートはぎくりと身を強張らせた。哀れなほどに青ざめたその顔にそっと腕を回し、濡れた髪に手を差し込む。 「また誰かを殺してきたんだね」 告げると、ギルバートは苦しげに眉根を寄せて、体を震えさせた。 「可哀想な兄さん」 こんなに震えてしまって。ヴィンセントの慈しむ言葉を聴いても、ギルバートの体の震えは止まらなかった。ぱちぱちと微かな音を上げている暖炉の炎さえ、ギルバートには届いていないのだろう。 (「そんなに嫌なら、やめてしまえばいいんだよ」) (「ナイトレイ家を出てしまえばいいのに」) ヴィンセントはかつて、そう言葉をかけたことがあるが、しかしギルバートは頑なに首を横に振るばかりだった。 純真さを削ってその身を漆黒と血の赤に染めてすら、兄には成し遂げたいものがあるのだという。 ヴィンセントがエコーから紅茶のセットを受け取り、彼女を下がらせてから自室を振り返ると、ギルバートは窓ガラス越しに夜の暗闇を見ていた。 雨が吸い込まれていく暗闇と、炎を絞った蝋燭の合い間に立つギルバートの頬は、水の中にいるように青ざめており、その瞳はひどく思いつめているようだった。その風情に、ヴィンセントは幼い日に、兄が自分に読み聞かせてくれたある童話を思い出す。 「兄さんは人魚姫みたいだね」 ヴィンセントはうっすらと笑みながら兄に告げた。 恋をした人間の王子を追いかけて、美しい声と引き換えに足を得た人魚。 恋に破れ、王子を殺すことも出来ず、泡になって海に消えたという悲しい物語の主人公の一途さは、自身の純真さと換えてまで『力』を手に入れたがった兄も似通っている。 「お前はまた、何を言っているんだ…」 突拍子もないヴィンセントの言に呆れているギルバートに紅茶のカップを手渡し、ヴィンセントもその横に立つ。 「だってギルは、誰かに会うために力を手に入れたのに、その相手に裏切られたとしても、きっとその人を殺せないでしょう?」 人魚姫とおんなじだね。とヴィンセントは笑った。 ギルバートは温かな紅茶の入ったティーカップを手にしたまま、凍りついていた。それから、苦しげに眉根を寄せて、小さく喘ぐように呟いた。 「……を、傷つけることなんて、…できない…」 それを聞いて、ヴィンセントは薄く笑った。兄の言葉はどこまでも兄らしい。 ギルバートが読んでくれた人魚姫も、やはり兄と同じ思いだったのだろうか? ヴィンセントは、兄が自分に読み聞かせてくれた本の内容ならすべて正確に記憶しているが、どうにもその登場人物の心情を察することには鈍い。 青ざめた顔のままティーカップをテーブルに置いたギルバートを、ヴィンセントは後ろから抱きしめた。 「人魚姫は可哀想だね。何もかもを投げ打っても、何一つ得られなかった」 歌うように兄に言う。ギルバートは青い顔のままだったが、きつく目を瞑って何かに耐えているようだった。 しばらくして、ヴィンセントの腕から逃れたギルバートは、ようやくあたたかな紅茶を一口飲んで、溜め息をついた。 「お前は、嫌いだっただろう? あの童話」 一息ついたギルバートは、珍しいことにヴィンセントに話しかけてきた。 確かに、幼い日にギルバートがその物語をヴィンセントに読み聞かせてくれたときに、泡になってしまうのが好きではないと、そんなことを言った。兄が覚えていてくれているとは思わなかったけれど。 「そうだね。でも今では嫌いじゃないよ」 不思議そうな顔をする兄に、ヴィンセントはゆっくりと告げる。 「人魚姫はきっと、人間と一緒にいても幸せにはなれなかっただろうからね」 「…そうか?」 「還る場所は海しかないんだよ。だってもともと、光も届かないような深い海の底で生まれたんだからね」 「…彼女は泡になって消えたんだ。海底に還ったわけじゃない」 真面目に言葉を返してくる兄に、ヴィンセントは笑った。 「おかしな兄さん。だってギルは泡にはならないでしょう?」 ヴィンセントがくすくすと笑い続けると、ギルバートはかみ合わない会話に諦めたように、「そうだな」と応じた。ヴィンセントは満足した。 ヴィンセントとギルバートは、光の届かない、声すら響かない、暗い暗い場所で生まれて、そこ以外に還る場所をもたない。例え光に引かれて太陽の下に出ても、望まれないなら、暗い場所に戻るしかないのだ。 (それなら僕は、兄さんが冷たい海の底に沈んでくるのをじっと待とう。泡にもなれずに堕ちる兄さんを) それは愉しい考えだった。ヴィンセントは更に思考をめぐらせる。 (傷ついて傷ついて、もう歩くことも泳ぐこともできない兄さんを、優しく抱きしめてあげよう。) そうしたら今度こそ、ふたりはずっと傍にいられるだろう。 そのときが来るまでヴィンセントは、暗い暗い海底から、兄を想って歌っていよう、と思う。早くおいで、と。還っておいで、と。 そしてもう、離れないで、と。 (Serenade from darksea) (2009/08/09) |