水中火傷 | ナノ


※未成年が飲酒しているシーンがありますが真似をしないでくださいすみません!


お前に再会できてよかった、と敬愛する上司が軽い口調で言う。俺は会いたくはなかったです。とは言えなかった。その言葉はきっと半分近くは真実だったが、半分以上は偽りだと知っていた。

そんな静雄の複雑な内心を知らないトムは、お前のおかげで仕事が楽になったしよ、と嬉しげな口調で言う。アルコールが入っているためか、とても上機嫌なようだった。仕事帰りに二人で寄った居酒屋での話である。
「その代わり、全力疾走しないといけない機会も増えたけどな」
「…すんません」
「いんや、いい運動になるべ。お前がいると心強いしよー、何より退屈しねえよ」
まんざら嘘でもなさそうなその言葉に、単純だという自覚のある静雄は、少し前の複雑な思いをすっかり忘れて嬉しくなる。だがそんな浮ついた気持ちは、長く続いたりはしなかった。トムが、静雄の空いたグラスに瓶ビールを注いだからだ。
「トムさん、俺…」
「あれ、そーいやお前ビール苦手だったな」
悪い悪い、と謝りながら、静雄のグラスを自分の方に手繰り寄せようとするトムの手を、静雄は慌てて止めた。
酒の席で、相手のグラスが空いていたら新たな酒を注ごうとするのはマナーのうちだ。ただその静雄のグラスが、ビールではなくカルピスサワーが入っていたグラスだっただけだ。トムの行動に落ち度は少ない。
「いいっすよ、飲みます」
「飲めんのか?」
不思議そうに静雄の表情を覗き込んでくるトムの前で、静雄はまだ少し泡が残っているグラスに口をつけた。喉を通る液体は、やはり苦い。トムの手前、あまり表情には出したくなかったが、意識すればするほど苦くてついつい顔を歪めてしまう。すると、それを見ていたトムが小さく噴き出した。
「いいって、無理すんなよ静雄。そういうとこ、昔から変わってねえなあ」
笑いながらトムは、ぽん、と手のひらを軽く静雄の頭に置いてから、居酒屋のドリンクメニューを静雄の方に差し出した。静雄の本来の嗜好にあった他の酒を注文しろ、と言外に勧めているらしい。
「…トムさんも、変わってませんよ」
昔から変わらず、静雄のような常識外の存在にも優しい。出会ったあの遠い日から、変わらない。
「そうか? あ、それ俺がもらうわ」
静雄が飲み残したビールの入ったグラスを今度こそ自分のもとに持っていき、それを呷る。一息にグラスの半分近くを嚥下して、うまそうに息を吐いた。静雄は思わず目を逸らす。
変わっていない、と思っていた。その思いをふと翻す。やはりトムは変わった。昔はトムも、静雄と同じでビールは苦いと言って飲めなかったはずなのに。出会ってもう10年以上の月日が、流れてしまったらしい。静雄は未だあの頃のまま。ビールの苦みに思いきり顔を顰めたあの日のまま、変わらぬ想いの中に置き去りにされているというのに。



静雄はビールが苦手だ。
思えばそれは、初めて飲んだ時の苦い印象が脳裏に刻まれてしまっているからかもしれない。

静雄がビールを初めて飲んだのは、中学生になって間もなく一年が経過しようとする、そんな浅い春だった。
「ちょっと遠出しようぜ」
午後からは卒業式に向けての演習があるため、短縮授業だった日のことだ。午前の授業が終わり、ぷらぷらと中庭の掃除をしていた静雄のもとに、ふらりとトムがやってきて、そんなことを言った。
「これからっすか? トム先輩、午後は卒業式の練習でしょ?」
「そんなんサボって大丈夫だって。静雄、何か予定ある?」
卒業式には全学年が参加するが、在校生は静かに座っていれば問題ないので、今日の演習には不参加だった。だから静雄の午後の予定は、できれば喧嘩することなく極力平和に自宅に戻ることくらいのものだ。
それを伝えると、トムは「じゃあ遠出しようぜ」とまた言って笑って見せた。断る理由も、意思もないので頷く。「どこに行くんですか」と聞いてみたところ、トムはしばらく考えた後で「海にでも行ってみるか」と返答した。ありがちな回答だが、豊島区の中学生にとっては、それは確かに途方もなく遠い場所ではあった。

電車を乗り継ぎ港区の海辺に着いたのは、もう15時を回った頃だったように思う。潮の匂いのする風が吹きすぎる、見晴らしのいい海辺を、足場に気を付けながら二人で歩いた。人影はまばらで、曇った空と海の境界線がやけにきれいだったのを覚えている。
「結構さみいなー」
「まだ3月ですしね」
3月、何日だろう。2日後に卒業式の予行演習があって、本番まで、あと何日なのだろう。
思わず立ち止まってぼんやりと卒業式までの日数を数えていると、トムが不思議そうに覗き込んでくる。「なんでもないっす」と手を振ると、トムは怪訝そうにしてから、ふと思いついたように手提げかばんをごそごそと漁り、銀色の缶を取り出した。
「それ…」
「家にあったやつパクってきた」
「いいんすか?」
「一口飲んでみるだけ。海でビールって憧れねえ?」
その憧れはなんとなく理解できるが。
結果から言えば、二人は一口ずつ飲んで、中身は捨てることになった。正確に言えば、静雄が飲んだのは一口というよりは一滴くらいである。
まず、こそっと一口飲んだトムが「苦っ」と顔を顰め、その缶を静雄に渡した。「無理すんなよ」というトムの声に顔を横に振り、静雄は恐る恐る缶に唇を寄せ、ほんの軽く啜った。しかしすぐに口内に広がる苦味に、思わず噎せてしまった。
「お、おい静雄、大丈夫かあ?」
慌ててトムが静雄の背中を軽く叩く。大丈夫です、となんとか答えるが、涙目だったのは自覚している。
「ほんと苦いっすね」
「そだな。やっぱガラじゃねえなー」
真面目ではないが、下手なことはしない。それが、中学で田中トムが培ってきた評価だ。静雄の前では何故かこんな風に、少しはめを外すこともあるが、本来トムはわざわざ道を外すようなことはしない。少なくとも、静雄の知る、同じ中学に通っている先輩としてのこの1年足らずのトムはそうだった。この先のことは、分からないけれど。
「…あとちょっとで、卒業か…」
静雄の思考を読んだように、トムがぽつりと呟く。静雄は思わず顔を俯けた。表情を隠すような高度なテクニックを身に着けていない幼い子供だったのだ。
「おい、静雄?」
押し黙った静雄に、トムが怪訝そうに聞いてくる。それでもなお頑なに顔を上げない静雄の頬に、トムの手が触れた。
「酔ったか? 大丈夫か?」
少し慌てたような声だった。答えないといけない、と思うけれど、ろくに言葉が出てこない。春先の浜風に当たっていたせいだろうか、冷えてしまった頬に、トムの指先が痛むほどに熱かった。
「…苦いっすね」
出てきたのは、そんな言葉だった。不思議なものだ。酔っていないことと、不思議に胸が痛むことを伝えたいと思っていたのに。
トムはそれをビールに対する感想だと思ったのだろう。そうだな、と苦笑した。その拍子に、静雄の頬に寄せていた手を戻す。それでも、静雄の頬には熱が残っていた。



二人の時間はそのとき止まったまま、もう動き出すことがないと思っていた。そうであればいいとも思っていた。だから、再会したくなかった、という思いはけして嘘ではない。

居酒屋を出た時点で、静雄はそれなりに酔っていた。静雄は普段から沸点が低く一度箍が外れれば近くにあった自販機くらいは軽く投げるが、酔っているとその箍の外れ方が一際激しい。あたり一面を焦土と化しかねない。そのため、常識ある上司は公共の福祉に鑑みて、酔った静雄を放置することはできなかったのだろう。
片腕を貸して、自分の部屋まで連れて帰ってくれた。
「すんません…」
「いーからホラ、ちょっと休んどけ。ココアでもいれてやるよ」
静雄をソファにくつろがせて、トムはキッチンへと戻って行った。残された静雄は、酔いのせいでくらくらする視界を覆うために己の手の甲を瞼の上に載せた。そのときに、自身の体がひどく冷えていることに気付く。
アルコールを摂取すると、人間の体温は低下することがある。飲酒直後は体温も上昇するが、一定時間が経過すると、体温調節機能が低下しているのに皮膚の血管が拡張している状態により熱が発散し、体温が下がっていくのだ。というような理屈を理解してはいないが、静雄はアルコールの耐性が低いためか、その傾向が顕著だ。
酒を飲んでしばらくたつと、手足の先から始まって、体全体がひどく冷える。24歳にもなれば弱いながらもそれなりに酒を飲む機会は多い。静雄自身は、酔いの一つの症状だと慣れてしまっていた。
冷えた手を持て余してぎゅっと握ると、あの浜辺でのことが思い出されてきた。
あの後すぐトムは中学を卒業し、会う機会はなかった。再会するまでには、あの日、ビールを一口飲んでその苦さに顔を顰めていたあの少年が、うまそうに喉を鳴らしてそれを呷るようになるほどの時間が、着実に経過したのだ。その間に、トムに触れられたときに生じた熱も、少しは冷えているはずだった。だが、この部屋にたどり着くまでに、静雄を支えていた腕から感じるトムの熱を、まだ感じている。
薄く瞼を開けると、初めて入ったトムの部屋の、なじみのない光景が広がっていた。青色のカーテンが引かれているためか、街灯りが青みを帯びて差し込んでいる。仄かに青い部屋で瞼を閉じると、心地よい酩酊感もあってか、水の中にいるような気持ちになった。
アルコールのせいで眠気が増してまとまらない思考のまま、静雄は水中を泳ぐ魚を連想した。

一度、平和島家では夏の露店で幽が掬った金魚を飼ったことがある。暗くなってもじとりと熱い夏の夜に、水中をすいすいと泳ぐ金の魚は、ひどく涼やかだった。
その金魚を小さなビニール袋から水槽に移す際、ちょこまかと動くそれに焦れて静雄が思わず水に指先をいれて直接それをつかもうとすると、それをまだ幼い幽が止めた。
「触れてはだめだよ、兄さん。人の手は、金魚には熱い。金魚がやけどするよ」
幼いがしっかりした口調で言った弟の言葉を、静雄は水中に漂うような酩酊感のなかで思い出していた。


「おーい静雄、熱いもの飲めそうか?」
どうやら本当にココアを作ったらしいトムが、甘い匂いのするマグカップを片手に静雄の顔を覗き込んでいる。静雄は慌てて体を起こそうとするが、それをトムがとどめた。
「まだ寝てていいって。ってお前、体つめてーな!」
ふとした動作の拍子に静雄の指先に触れたトムがその冷たさに驚いた顔をして見せる。静雄に触れたトムの肌は、静雄とは比較にならないほど暖かだった。もともとのアルコールに対する耐性が静雄よりずっと強いのだろう。静雄のような症状に襲われることはないらしい。
「いつものことです。大丈夫っす」
「そうは言ってもよー、お前すっげー冷たいからよ。ほら」
ゆっくりと体を起こそうとする静雄を留めながら、トムは静雄の頬に手の甲で触れた。肌の温度が低下している静雄にとっては、それはひどく熱い皮膚だった。中学のあの時から、ずっと変わらず静雄の中に熱を残す温度だ。

低温の魚は、人の体温でやけどすることがあるという。それなら、人の域をはみ出している静雄が、トムの体温に痛みを感じるのも道理かもしれない。
だが魚なら、身を捩ってその熱から逃れることもできただろう。しかし静雄には、それができなかった。身を捩ることなどできるはずもなく、静雄は自身の頬に触れるトムの手に自身の手を重ねてしまう。けだるく冷えた頬と手の両方に、トムの体温を感じた。それは、やはりひどく、熱い。
「トムさん…」
「ん?」
熱に浮かされるように、その名を呼ぶ。呼びかけに応じて静雄の表情を覗き込むガラス越しの瞳は、出会って何年経っても変わらず、残酷なまでに優しいものだった。彼の肌が、熱い。
「トムさん。好きです。好きなんです」
熱い。痛むほどに熱い。そう訴えたかったはずなのに、水中で喘ぐような苦しさを感じながら口をついて出た言葉は、それとは異なっていた。おかしなことだ。
トムが息を飲む気配がする。静雄はきつく瞼を閉じながらも、トムの手を離さなかった。熱い手のひらだ。
だがたとえ醜い火傷のあとのようにその傷が残るとしても、もうその手を離せそうにはなかった。


(水中火傷)
(2011/05/02)





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