○ 5日目 朝起きると、静雄が簡単な朝食を作り、臨也がコーヒーを淹れる。静雄が帰ってくると、また臨也がコーヒーを淹れる。そんな生活が、日常の一部になりつつあった。 帰宅後、コーヒーを飲んでから静雄は風呂に入り、上がったところで見た光景は、臨也が床に座っててテレビを見ながら缶ビールを呷っている姿だった。風呂上りに、そんな姿を見せられたせいで、急激に喉が渇きを訴える。静雄は冷蔵庫を開けてみると、自身が買った覚えのない缶ビールや缶チューハイが並んでいた。静雄はごく当たり前のように物色してから缶チューハイを取り出し、プルタブをあけた。 「ちょっとシズちゃん、それ俺のなんだけど」 「俺の家の冷蔵庫に入ってたんだから、俺のもんだろ」 「…シズちゃんって、某不二雄先生の世界にいたら、絶対メタボ体型のガキ大将だよね」 隣りでぶつくさ文句を言っている男を無視して、レモンの缶チューハイを喉に流し込む。やっぱり美味い。 つまみに、しまってあったジャーキーを取り出して食べていると、臨也が缶ビールを片手にもそもそと近づいてきて、ジャーキーに手を伸ばしてきた。チューハイを勝手に拝借した都合上、伸びてきた手には特に静雄は文句を言わなかったため、しばらく二人は好き勝手に酒を飲んだりつまみを食べたりしていた。 しばらく無言の状況が続いていたが、やがて2缶目らしいビールのプルタブに指をかけながら臨也が、「なんかさあ、」と口にした。 「俺ちょっと今覚えてないんだけど、俺とシズちゃんってずっとこんな感じだったわけ?」 「…あ?」 「高校時代に知り合った人間に関する記憶はあんまりないけど、高校以降の記憶にはそれほど欠損はないんだよ。でもやっぱりかなり曖昧な部分はたくさんあって、多分それって、俺が忘れちゃってる人間が関わってた記憶だと思うんだよね」 プルタブをあけて、喉を潤しながら臨也が言う。そういえば、ここで共に暮らして5日が過ぎるが、記憶についての話はしたことがなかった。これは記憶を取り戻しつつあるのか、と静雄は無意識のうちに身構える。 「シズちゃんのことも全然覚えてないんだけど、ものすごくおぼろになってる記憶に、妙に出場頻度の高い人影があってさあ。俺、そいつのことばっかり見てるんだよ。ほんとに馬鹿みたいにそればっかり目で追ってんの。もしかしてあれってシズちゃんなのかな」 「…さあな」 確かに静雄と臨也の因縁は深い。臨也が現在曖昧だと評した記憶の多くには、静雄も関わっているはずである。そしてそれらの記憶の多くは、少なくとも静雄にとっては不快なものばかりだ。思い出したくもない。 だがそのことを知らない臨也は、缶ビールをフローリングの上に置き、じっと隣りに座る静雄を見た。 「んだよ」 「ねえ、あれはシズちゃんなんでしょ」 「知らねぇって」 唯一の取り柄ともいえる整った顔が、やたらと近くにある。かつては侮蔑と嫌悪を浮かべて静雄を見ていたその赤い瞳が、今日はまっすぐに熱っぽく静雄を映していた。妙な沈黙が続いて、静雄は何故か臨也から目を逸らせなかった。なので、先に目線を外したのは臨也だ。視線を下げて、溜め息を吐いてから、この男にしては弱々しく呟いた。 「弱ったな。俺、けっこうシズちゃんのこと、好きみたいだ」 嫌ではない程度に甘い声に、静雄は動きを止める。何を言われたのか、すぐには理解できなかった。 そして理解をした瞬間、静雄は妙に悲しくなった。 「…お前、酔ってんだろ」 「……うん。うん、そうだね」 臨也は俯いたままで、小さくそう答えた。静雄は飲み終えた缶チューハイを片し、そのまま寝室へと入りベッドへと身を沈めた。 臨也がアルコールに強いかどうかなんて知らないが、たかが缶ビール2本程度で酔うほどに弱いとは思えない。だがそういうことにして、流してしまいたかった。 たとえ、臨也の曖昧な記憶に出てくる人影が静雄なのだとしても、その影ばかりを臨也が馬鹿みたいに臨也が追いかけた理由は、好意からではなく、この上ない蔑みと憎しみに満ちたものだということを、静雄は誰よりよく知っていた。 そして、その曖昧な記憶に囚われて、今の臨也が自分を好きだと言うのなら、それはただの虚妄に過ぎないのだということも。 ○ 6日目 数日で記憶が戻るとの新羅の言葉に反して、臨也の記憶は戻らなかった。 そんな中で、静雄が自身の感情の明白な変化を認めたのは、六日目の夜だった。 仕事から帰ってきたら、いつものように狭いリビングのテーブルに仇敵が座っていて、静雄を見ると、嬉しげに笑って「お帰り」と声を掛けてきた。そういえば、6日も一緒に住んでいて、そんなごく普通の挨拶の言葉をかけられたのははじめてだ。戸惑っているうちに、臨也はキッチンに向かってしまった。またコーヒーを淹れるのだろう。 言葉を返すタイミングを失ってしまった。明日、同じように臨也が声を掛けてきたら、明日こそは答えよう。そう思って、そんな自分に愕然とする。 いつから、一体いつから憎くてたまらなかった折原臨也との“明日”を望むようになったのか。 さらにその夜、こんなことがあった。夜のうちに洗濯機を回そうと思い、ついでだから着ていたシャツも洗おうとそれを脱いだその瞬間に、歯を磨きに来たらしい臨也が洗面所に入ってきた。確かに静雄は上半身裸の状態だったが、花も恥らう乙女でもあるまいし、どうってことはない。そう、なんてことのない出来事だったはずだ。 だが静雄は咄嗟に、右腕を臨也の死角に隠したのだ。 「洗濯機、まわすの?」 「…ああ」 「じゃあ俺のシャツもついでに洗ってよ」 「一枚1000円な」 「たっか!」 臨也は静雄の不自然な動作には気付かなかったらしい。静雄は急いで、近くにあった長袖のシャツを着込んだ。 何故、腕を隠すような仕草をしたのか。静雄は、轟音を立てて回る洗濯機を見ながら、自身の行動について考える。答えは、すぐに出た。今回ばかりは、もう目を背けることができなかった。 すなわち、静雄は、臨也に己の右腕を見られることを怖れたのだ。たった3日前にざっくり切られたはずなのに、すでに傷痕の名残すらない右腕を。 では、と静雄は更に自問する。なぜ、もうとっくに傷の消えた腕を見られることを怖れたのか。その答えの問いも、悲しいくらいに近くにあった。目を背けたくなるほど近くに。 つまり臨也に、自分が人間ではないことを知られるのが、どうしようもなく怖かったのだ、と。 ○ 7日目 「お帰り、シズちゃん」 「……ああ」 朝から夜までずっと雨が降っていた。深夜に近い今となっても、やみそうな気配もない。 臨也は夜半から、フローリングに座り込んで、また酒を飲み始めていた。今日はビールではなく、瓶に入った透明なリキュールを、氷を入れたグラスに注いで飲んでいる。当然、この家にもともとあった酒ではなく、臨也が購入してきたものだろう。 興味を引かれて瓶を取り上げると、鮮やかなステンドグラス風のラベルがついていた。見覚えのある銘柄だった。 「パライソ?」 「そう。シズちゃんが知ってるなんて意外だな。 ああ、バーテンだったんだっけ?」 「長く続かなかったけどな」 目の前のこの因縁深い男のせいで。だがそんなことを綺麗さっぱり忘れている臨也は、苦笑している静雄をちょっと不思議そうに見てから、またグラスを傾けた。 パライソは、バーテンをやっていた期間などたかが知れている静雄でもそれなりに知っている程度には、知名度の高いライチ・リキュールである。他のフルーツとの相性もよく、オンザロックやストレートよりもカクテルの材料として使われることが多い。このリキュールにグレープフルーツジュースとトニック・ウォーターをステアしたものなどが有名だ。 「グレープフルーツジュースくらいならあるぞ」 「シズちゃんが作ってくれるの?」 「ふざけろ」 「……まあ、今日はカクテルよりもロックな気分だからさ」 ちょっと凹んだような顔を見せた後で、気を取り直すようにまた一口、澄んだリキュールを飲んだ。なんとなく気を引かれて、臨也が持っていたそのグラスを奪い取り、静雄も口にする。冷たいリキュールは、ライチの甘さと強いアルコールが心地よく喉を灼く。 「バーテンだったなら知ってるかもしれないけど、パライソってさ、楽園って意味なんだよ」 「…へえ」 聞いたことがあったかも知れないが、大して興味もなかったのか取りあえず覚えていない。だがその名前は、この美しいリキュールにとても合う気がした。 「ここにはこの酒が似合うよ。シズちゃんがいて、俺にとっての楽園だから」 「バカなのか?」 持ち前の無駄に澄んだ声で何かほざいている男の言葉を一刀両断にしてやるが、それでも今回はめげなかった臨也が、瞳に真剣な色を湛えて静雄を見つめながら、さらに口を開いた。 「シズちゃん、好き。好きだよ」 「…うるせえ」 この男の好意の言葉など、素直に受け取れるはずがないのだ。どうせ、記憶が戻れば、あるいは静雄の人の域を超えた体質を知れば、嘲笑い侮蔑し憎むのだから。 だが静雄の拒絶の言葉などさして効果はなかったようだ。嫌味なほどに綺麗に整った顔がやけに近いな、と思ったら、かさついた唇が触れ合う。キスされた、と気付いたのは、その顔が離れてからだった。 「…なっ、てめぇ…っ」 頭に血が上って、ぐっと拳を握り締める。だが殴ろう、としたそのときに、臨也がちょっと悲しそうに笑ったので、思わず動きが止まった。急速に怒気が萎む。動きを止めた静雄の耳もとで、また臨也が囁いた。 「…好きだよ」 溜め息みたいな呟きだった。 言うだけ言って、臨也はくるりと背を向けて、またリキュールを呷る。何故だか分からないが、背中を向けられたことが気に入らなかった。 今なら、リキュールに含まれているアルコールのせいにしてしまえるかも知れない。そんなことを思って、臨也の背に自分の背を少しだけ預ける。 「臨也。もう一回言えよ」 請うと、少しの沈黙の後に、雨音に紛れて聞き馴染んだ声が聞こえた。あと何度、聞けるか分からないその言葉は、静かな囁きだった。 そのときの気分をなんて表現すればいいのか、静雄には分からない。 ただ、ひどく、泣きたかった。 (フリークスの楽園 3) (2010/06/24) → |