drowning in blue2 | ナノ


○ October 28, 2004, at 5:22 p.m.

たとえ呪縛でしかなかったとしても、門田の手を離せない。そう気付いたのは、曇天からやがて雨の雫が落ちてくる、そんな日だった。高校の頃だ。

その日は朝から、あまり体調が良くなかった。
「こんなところで何隠れてるのかなあ?」
放課後、立ち入り禁止となっている屋上で、かしましく帰宅の途につく生徒達をぼんやりと見送っていると、憎々しい響きでそんな声が掛けられた。
振り返るまでもなく、入学当初から宿命のように殺し合いのような喧嘩を続けている男が、侮蔑を滲ませて静雄を見ていた。
「うぜえ…今日は見逃してやるから失せろ、ノミ蟲」
じわりと頭部全体に響き渡る痛みのせいで、いつもなら反射で湧き上がってくる闘争心も萎んだままだ。
だが臨也が静雄の体調など考慮するはずもなく、近づいてきたかと思ったら、瞳の侮蔑の色を濃くして、「ドタチン」と呟いた。それは、彼の愛称だ。知らず、体が緊張で硬くなる。
「…んだよ」
「最近、ドタチンとやけに仲がいいみたいだね?」
「手前に関係ねーだろ」
「まあ、関係ないけどね。でもシズちゃんが誤解しないように忠告してあげる」
警戒して牙を剥く静雄に、臨也は顔を近づけて口の箸を持ち上げた。冷たさを帯びてきた風が、雨の匂いを運んでくる。
「ドタチンはひとりぼっちの憐れな化け物を同情してるだけだよ。シズちゃんを好きなわけじゃない」
雨の匂いがまた、濃くなった。辺りの闇も深まって行く。雨が来るのかもしれない。
臨也の言葉に、静雄はただ沈黙した。激しい頭痛のためもあるし、返す言葉をもたなかったためでもある。臨也は静雄の完全な沈黙に満足したようで、口の端を上げたまま屋上を去っていった。
静雄はそれを追うこともせず、空を仰ぐ。いつの間にか隙間のないほどに雲が蔓延っていた。重い色をした雲から、ぽつぽつと雫が垂れてくる。それはすぐに屋上のコンクリートの色を変えるほどに激しくなった。

どのくらいそうしていたのか、10秒程度だったようにも、1分程度だったようにも、はたまた1時間ほどだったようにも思える。雨は激しさを増して、空との間に遮るもののなかった静雄をしとどに濡らしていた。これ以上濡れると、静雄といえどもともと体調の良くない体に障る。そうは思うが、動く気力も見出せない。
ただぼんやりと空を見上げていたときに、ふと屋上の入り口のドアが開く。表れたのは、やはり体を濡らした門田だった。それは静雄の見せた幻かとも思ったが、一度頭を振っても消えなかった。一瞬の間を置いて、静雄はようやく口を開いた。
「門田、お前濡れてるぞ」
あとから考えてみたら、それはなんとも間抜けな問いかけであった。静雄自身が、驟雨に全身を濡らしていたのだから。案の定、門田は一瞬目を瞠ったあとで、小さく吹き出して笑った。はじめて見るそんな表情は、普段大人びた門田を年齢以上に幼く見せた。
「人のこと言えるかよ」
口元をほころばせながら、門田が言う。「そうだな」と返しながら、重い頭を押さえると、その仕草に眉を顰めた門田が、近づいてきて、静雄の腕を取った。
「具合悪いのに雨に濡れてるヤツがあるか」
少し怒った口調で腕を引く。具合が悪いことは隠しているつもりだったが、どうやら門田には気付かれていたらしい。この辺りが、門田の優しさであり、残酷さでもあった。
「かどた」
「…ん?」
無意識のうちに呼んでいた。いつもと同じく応じる門田の腕に触れる。濡れたシャツの感触が伝わる。その感触に、思わず額を擦り付けた。こんな甘ったれた仕草も、頭が痛いからだ、と静雄は言い訳をする。
「どうした、苦しいのか」と心配そうに聞いてくる門田の声にこたえず、ぐっと門田の腕に身を寄せる。

静雄は本来、嘘をつけない性格で、あるいは愚直と言い換えてもいい。愚かしいほどに真っ直ぐなのだ。
にも関わらず、決意したことを実行に移せず、そのことを後悔して自分に失望して、それでも手放せなかったのが、門田との間の呪縛だった。
静雄は、臨也に言われた言葉を反芻する。臨也の言葉は、分かりきっていたことで、門田との関係が始まったときから気付いていた。今更その事実に傷ついたりなんてしない。
だから静雄は、鋭利な硝子の先で切り裂かれたように胸が痛んだわけを正確に理解していた。すなわちそれは、門田と自分を縛る呪いが、恋愛ではなくていいのだと静雄自身が気付いた瞬間だったのだ。恋愛のように脆く壊れやすいものではなく、同情という形であり続けるのなら、静雄は門田の手を離さなくて済む。そんな愚かな想いを抱いている自分を悟ったからだ。
「静雄」
門田はいつもの低い声で呼んで、少し指先を躊躇わせてから静雄の肩を抱いた。驟雨に濡れたシャツに邪魔をされながらも、体温が伝わる。ゆるい抱擁で気付いたことは、彼の体温は永遠に手に入らないということだった。


○ October 28, 2004, at 5:20 p.m.

好きだ、と気付いた瞬間に、同様に、彼は手に入らないのだと、悟っていた。
静雄はいつも、悲しいほどひとりだ。それは静雄の膂力のせいも大きいが、静雄が孤立するよう裏で糸を引いている少年のせいでもある。ともあれ静雄は多くの人間から敬遠され、途方もなく、孤独なのだ。その孤独を埋めることが出来るのは、情報というツールを駆使しながら静雄と渡り歩くことができる、あの少年だけだ。

その日静雄は、朝から体調が悪そうだった。普段どおりの様子を装ってはいたが、ふとした拍子に眉間に皴を寄せる仕草をしていた。門田は気付いてはいたが、普段から苦痛の表情を見せることの少ない静雄のことなので、弱っているところを見られることを嫌がるだろうと考え、いつもと変わらず接していた。
だが、放課後、いつの間にか静雄の姿は消えていた。静雄の体調などお構い無しに、今日も静雄に喧嘩を売る人間は多くいたし、校門の先には帰宅の途につく静雄を待ち伏せしている他校の生徒もいるだろう。さすがに心配になり、門田は静雄の姿を探した。下駄箱にはまだ靴が残っていたので、帰ったということはないだろう。
いつもよくいる中庭を探しているときに、重い雲が垂れ込めていた空からぽつぽつと雨の雫が落ちてくる。それはすぐに激しさを増していった。あの馬鹿、濡れてないだろうな。そんな不安が沸いてきて、門田は舌打ちをしながら、よく昼食を取るのに使う、立ち入り禁止の屋上に向かった。

掃除の行き届いていない古びた階段を上がっていくと、普段は人影のないところに誰かがぼんやりと立っていたので、門田は脚を止めた。見知った少年が、力無げに屋上へと続く扉に寄りかかっていたのだ。俯きがちな視線は酷く暗く、傷ついているように見えた。
「…臨也?」
普段は人を嘲るような表情ばかりを浮かべている臨也の、そんな表情に思わず名前を呼びかけると、臨也は驚いたように門田を見た。他人の気配に敏い彼が、門田には本当に気付いていなかったらしい。
「……っ」
臨也はいつもの人を馬鹿にしたような顔を向けようとして、失敗したようだった。その顔はいっそ泣き出しそうなもので、臨也自身もそれに気付いたのだろう。ふいっと顔を背け、何も言わずに門田の脇をすり抜けて去っていった。
臨也のこれほどに余裕のない行動は珍しい。すぐに、静雄がらみだと気付いた。だとすれば、やはりこの先に静雄がいるのか。門田は、少し前まで臨也が寄りかかっていたその扉を開けた。その先ではやはり、降りだした雨に気だるげに濡れている静雄の姿があった。
静雄は、闖入してきた門田を見て、驚いたように目を瞠った。その表情がつい先ほどの臨也と被る。門田がここに現れる前に、ふたりの間に何があったのかは分からないが、もしかしたらそれは門田に、正確に言えば門田と静雄の関係に、関することなのかもしれない。門田は臨也の酷く傷ついているような俯いた顔や、門田の脇をすり抜けて行くときの唇を噛んだ顔を思い起こす。
臨也は、門田が静雄を手に入れたと思っているのだろうか。だとすれば、それは大きな間違いだ。門田は心中で似合わない自嘲をする。
門田は、静雄を手に入れたりしていない。ただ、呪いをかけただけだ。好意でも恋情でもなく、同情という呪いを。そしてその呪いは見事に成功して、門田と静雄は呪縛で離れられなくなった。


よく、静雄は寂しくて泣きそうな顔をしていた。だから門田はそこにつけこんで呪いをかけた。
始まりの呪いの言葉は、数ヶ月前の盛夏。その言葉は、こうだった。
「寂しいのか」

静雄は、途方に暮れた幼子みたいな口調で、寂しい、と答えた。


○ August 8, 2004, at 5:02 p.m.

「寂しいのか」
それは呪いの問いかけだった。そして救いの問いかけでもあった。
静雄にとって、門田はいつも救いだった。静雄を怖がることも憎むこともせず、好奇からでもなく向き合ってくれる。門田が静雄に笑顔を向けてくれているときだけが、その頃の静雄にとって幸せなときだった。

喧嘩に明け暮れて逃してしまったプールの授業の補講が、夏休みの夕方に行われていた。もしかしたら、他の生徒と会わせずに補講を済ませるため、静雄の補講のみ夕方に組まれたのかもしれない。
静雄は泳ぎは苦手ではない。25メートルのプールをクロールで往復すると、担当の教師は、「じゃあこれで終わりね、お疲れ」と言ってそそくさと去っていった。先週も3人の生徒を病院送りにした静雄に、極力関わりたくないという姿勢が見て取れる。
一人プールに残されて、静雄は水面に体をたゆたわせていた。水泳部の練習は昼間に行われたのか、今は誰もいない。あたりは静かで、静雄は妙に悲しかった。
そこに現れたのが、やはり門田だった。
「お疲れさん」
いつの間にかプールサイドに来た門田は、静雄にそう言って笑いかけた。自習室で読書していたら、窓から静雄が見えたから来たのだという。門田の笑顔を見て安心して、それなのに何故か妙に悲しくなる。門田は、プールから上がる気配のない静雄を不思議そうに見てから、ふと真顔になって、「静雄」と呼びかけた。

「おまえ、寂しいのか」

それは呪いの問いかけだった。
静雄は、ぼんやりとした面持ちで門田を見ていた。そんな静雄を真っ直ぐに見て、門田は言葉を続けた。
「寂しいなら、言えよ。傍にいる」
それは呪いの言葉だった。そして救いの言葉でもあった。

「…寂しい」

口から、自然にそんな言葉が落ちた。これで、呪縛が完成したのだ。
門田は、プールの水に身を浸らせたままの静雄に手を伸ばす。静雄はそれに掴まり、門田のしっかりした肩に縋った。静雄の動きに合わせて、ばしゃん、と水の跳ねる音が聞こえた。


(drowing in blue 2)
(2010/09/07)






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