stilly Nocturne | ナノ


※来神高校3年の静雄と、十代半ばくらいの幽。かなり色々捏造です。医学の知識は皆無です。


息を吐き出せばまだ白い。雨が降り出せば、雪に変わりそうだ。そんな、まだ春には遠い日のことだ。
その日、静雄は怪我をして帰ってきた。頬にガーゼを張り、その他にも顔に青く痣になりかけている箇所があった。喧嘩をしたらしい。兄の体に痕を残すくらいなので、相手は武器をもった多人数だったのだろうと幽は予想した。
その日、口内を傷つけてしまったので、静雄は夕飯をあまり口にできなかった。
それを気遣った母が、深夜に程近い時間に、簡単な軽食を作っていた。そして風呂上りの幽に、「ちょうど良かった。これ、静雄に持っていってあげてくれない?」と頼んできた。確かに、あの兄ならばそろそろ回復しているだろう。快諾して2階にある兄の部屋に行く。寝ていることも危惧したが、兄は自室からベランダに出ていた。
「兄貴」
「おう、幽か。どうした?」
未だに貼られている頬のガーゼの白さが痛々しいが、痣の腫れはほとんど引いたようだった。
「傷、治ってきたなら少し食べなって、母さんが」
軽食を示すと、兄は嬉しそうな顔をして、「サンキュー」と礼を言った。
一度手に持ったトレイを机に置き、幽も兄のいるベランダに出てみる。風が冷たいが、その代わりに雲のあまりない夜空だった。都会の空なので、けして澄み切っているわけではないが、いくつかの星の光が確かに届いている。
「青星が見えるね」
都会の澱んだ夜の空で、それでもいくつか見える星の中、とりわけ明るい光を放つ星を幽は指差す。
「覚えてたのか」
静雄は驚いた顔を見せた。幽が指差したのは、おおいぬ座の一等星、シリウスである。それを青星と呼ぶのだと幽に教えたのは、他でもない静雄だった。
「あの頃はカタカナの言葉をなかなか覚えらんなくてな。和名で青星ってのだけ覚えてたんだ」
だから、あの時はシリウスではなく青星と教えたのだと、静雄は少しだけ恥ずかしそうに告げた。
「それにしてもお前、あんな昔のことよく覚えてんなあ」
「覚えてるよ」


忘れるはずなんてない。それは、兄が、幽の前で最後に涙を流した日だ。


その日も、まだ春の遠い日だった。
幽は10歳だった。兄は12歳くらいだっただろう。その日、兄が投げたボールが幽の足に当たり、負傷したのだ。
幽と静雄は、ただキャッチボールをしていただけだ。特に兄の感情に大きな起伏があったわけではない。ただ、力をコントロールできなかった、それだけの話だ。
骨折には至らなかったが、幽はそれから数日、自宅のベッドの上で過ごすことを強いられた。
その夜、幽の枕元にやってきた兄は、足に包帯を巻いた幽を見て、ただ涙を溢れさせていた。
大した怪我ではないし、気にする必要はない。幽はそう言いたかったが、言ったところで兄の気がおさまるとも思えない。だが、声を出すこともできずに涙を零す兄の姿が、酷くかなしかった。
幽は少し思案してから、最近兄が学校で借りた星座の本を読んでいたことを思い出した幽は、こう兄に提案した。
「兄さん、星がみたい」
そう言って手を伸ばす。負ぶってくれ、と言外に含めた仕草だったが、兄は少し躊躇った。それでも幽がまっすぐに兄を見ていると、静雄はおずおずと幽の手を取り、負ぶってテラスまで運んでくれた。
本当は、まったく歩けないほどの怪我ではなかったし、幽自身は別に星がそれほど好きなわけでもない。それでも幽は幼いなりに、自分の体温が兄の悲しみを癒すことを知っていた。
春には遠い夜は、キンと音を立てているのかと思うほどに空気が澄んで張り詰めていた。テラスに出ると吐く息が白くて、兄は「寒くないか、幽」と聞いてきた。それに「寒くないよ」と答えてから、兄の背中から夜空を見上げた。都会のくすんだ夜の中で、それでも確かに、いくつかの星がほのあかりを放っていた。
「幽、あれが、青星だ」
兄が、暗い夜の中で一番に明るい光を放つ星を指して言った。青星。静雄の、まだ小さく細い背中に負ぶさり、兄の首に回した腕に少しだけ力をこめて、幽は一度呟いた。
「きれいだね」
「そうだな」
「ありがとう、兄さん」
星を見せてくれて。触れるほどに近くにある兄の耳にそう言うと、兄は何も言葉を返しはしなかったけれど、耳が少しだけ赤くなった。


あれからもう何年もの時が過ぎた。
静雄は、ベランダの手すりに後ろ向きに寄りかかり、くすんだ空を見上げている。春には遠い今の季節は、空気が澄んでいて星が一番見えるのだという。だが都心にほど近いこの家のベランダから見える星などたかが知れている。
それでも、このくすんだ空にあって、あの明るい星の光は届く。
幽は、のけぞった兄の白い喉から目を逸らし、シリウスを見た。
あの幼い頃の夜は、兄の背に負ぶさり、兄の首に腕を回して、兄が指す星のあかりを見た。それだけで幸せだった。
あの星の明るさは変わらないのに、いつの間に、幽の感情は変わってしまったのだろう。

ぼんやりと思案に暮れる幽の隣りで、静雄は小さく「あのよぉ、幽」と声を掛けてきた。静かで穏やかな声だった。
「なに?」
「幽には一番最初に言っておく。…俺、春になったら家を出る」
それは、落ち着いた、決意に満ちた声だった。幽は一瞬動きを止めたあとで、ゆっくりと星空を見上げた。優しく確かな光を放つ青星。あの星は変わってはいないのに、幽の感情も、静雄との距離も間違いなく変わっていく。
「…そう」
「んな顔すんなよ。春まではこの家にいるし、どうせそんなに遠くには行かねえから」
幽はよく無表情だと言われるが、兄にはしっかりと幽の表情が伝わってしまうようだ。静雄はほんの軽く、幽の頭に手を載せた。
あの幼い日から、静雄は幽の前で泣いたことは一度もない。けれど、兄はいつだって自身の力に苦しんでいるし、これからも苦しんで行くのだろう。兄は優しく強く、弱く、いつだって傷ついている。でも幽は、自身の体温で慰めるすべを、失ってしまっていた。


静雄は勉強が得意な方ではない。と言うよりも、高校に入ってからは喧嘩に明け暮れて、勉強どころではなさそうだ。もともと暴力をふるうたびに自己嫌悪に陥る兄が、好んで喧嘩ばかりするはずもない。どうやら、裏で糸を引いている人間がいるらしい。
結果として、静雄は進学の道を考えたことはないようだ。かといって、暴力に荒らされた生活を送る静雄が、就職活動など行っているはずもない。結果、しばらくはフリーターとして過ごすらしい。それならば、家を離れる必要はない。実家を出ればその分だけ生活費が必要になる。だが兄は、あえて家から出るという選択をした。
その理由は、幽にはなんとなく分かる。喧嘩に明け暮れた高校時代の三年間で、静雄の膂力は、間違いなく強化された。兄は、誰よりも家族に自身の力が害をなすことを怖れている。あの幼い日に、幽にボールを投げただけで怪我をさせてしまったように、なんてことのない日常で、誰かを害することを怖れている。
静雄はもう決めてしまったのだろう。それならば、幽にとめるすべはないのだ。


次の日、兄はまた怪我をして帰ってきた。
もともと三年生はもう自由登校なのだが、兄は補修を受けねばならない関係上、毎日学校に行っている。だが今回はそうとう酷い怪我だったようで、昼前には学校から帰ってきたらしい。
兄は、両耳が聞こえなくなっていた。
喧嘩で後ろから鈍器で頭部を殴打されたのがその原因らしいが、数週で治るとの診断だった。兄ならば、数日で完治させるだろう。
「すげえ違和感ある…」
というのが静雄の感想だったが、耳が聞こえないと自身がきちんと話せているかどうか不安があるのだろう。兄はいつも以上に口数が少なかった。

夜、兄の部屋を訪れると、兄はやはりベランダにいた。ぼんやりと外を見ている静雄の背が、なんだか心細そうで、引かれるように幽はベランダに近づいた。物音を感知しない兄は、かなり近づいても幽に気付かなかったので、幽はその背に触れた。生まれたときからずっと見ていた背。あの夜に負ぶさった背。そして、間もなくこの家を出て幽から離れていく背。こんなにも、いとおしい背中だ。
「うお、…幽か。びびった」
触れてようやく幽に気付いた兄が、そう言ってちょっと苦笑して、それから幽の顔を見て眉根を寄せた。幽は自身がどんな顔をしているのか分からなかったし、おそらく他人が見ればそれはどこまでも無表情だったはずだ。だが、静雄には幽が酷く悲しんでいることが伝わってしまったのだろう。
無音の世界にいる兄は、背に縋ってくる幽を安心させるように、「大丈夫だ、すぐ治る」とゆっくりと言って笑って見せた。
――そうじゃない。この体温は、慰めでも癒しでもない。
もっと欲にまみれたものでしかない。幽は思ったが、口にはしなかった。あの幼い日には、自分の体温で癒すように兄の背に負ぶさった。だが今はもう、兄への思いが変わってしまっている。もう、純粋に癒すために体温を与えることなど、できないのだ。
「兄貴、」
兄の背を抱きしめて、その首筋に顔を埋めたまま呼びかけるが、返答はなかった。聞こえていないのだから当然だ。
兄の金の髪に鼻先を埋めてみると、寂しさとも愛しさとも切なさとも分からない感情がわき上がって来る。
「兄貴。…兄さん、兄さん」
兄が幽の前で最後に泣いた日に、幽を負ぶった背よりも、ずっと大きくなった、しかし未だに薄い背にかぶさり、その首に腕を回す。あの日も、今と同じように兄の背に縋っていた。だが二人は月日を経て背丈も伸びた。そして何より、幽の心情はあの日から大きく変わってしまっている。もう、留めておくことが苦しいほどに。
「兄さん、兄さん。好き。好きなんだ」
聞こえていない兄の耳に、何度となくそう囁いた。兄には絶対に届かないからこその告白だった。
兄はいつになく接触を求める幽を振り返って不思議そうな顔をしてから、ぽん、と軽く幽の髪にその手を置いた。いつもと変わらない優しさで、いつもと変わらない仕草だった。それが妙に悲しくて、幽は兄の手を取った。
くすんだ夜空を確かに照らす星を示した手。幽はそれを、自分の頬に擦り付けた。ありったけの思いをこめて。


静雄の聴覚の異常は、数日どころか、次の日の昼には治った。
「幽にもめーわくかけちまったな」
「ううん、全然」
幽は、首を横に振って見せながら、永遠に届くことのない告白を胸にしまう。
兄の耳に伝わる言葉で、思いを告げる日は、おそらく永劫にこない。
それでも幽は、夜空を見上げるたびに青星を探すだろう。春が来て星の位置が変わり、あの星座が見えなくなってもずっと、兄が示した星あかりを、探し続けるだろう。彷徨い続ける旅人が、それだけを頼りに縋るように。


(Stilly Nocturne)
(2010/07/16)





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