「俺、女抱けないんすよ」 一瞬、世界が止まった。 次の日はオフ、という解放感に包まれた夜、適当な居酒屋でトムは部下である静雄と飲んでいた。 静雄はけしてアルコールに強いほうでもない。ビールと少量の日本酒で顔を赤くした池袋最強を、「お前ほんと酒弱いよなぁ」とからかうと、弱いがさほどタチの悪い酔い方をしない静雄は、実に気分良さげに「少しの酒で楽しく酔っ払えてお得じゃないですか」とか返してきた。酒も美味いし、お通しのありがちな枝豆の塩加減も悪くない。定番の軟骨のから揚げも美味いし部下もかわいい。明日はオフだし言うことなし。トムは非常にいい気分で酔っ払っていた。 二件目の居酒屋で焼酎を飲み完全に出来上がったところで、じゃあ西口丸井裏のソープにでも行くか、と提案すると、静雄はなんてことない口調で、「俺はいいですからトムさん行って来てくださいよ」とつれないことを言う。 「なんだよ静雄ー、一緒に行こうぜ? 結構かわいい子そろえてる店紹介するからさあ」 「俺はほんといいんですって」 「金ないとかそういうのか?」 「いやそんなことないっすけど。まあ余るほどはないですけど」 「もしかしてそういう相手が出来たとか?」 そういえばこの部下と、この手の話はあまりしたことがなかったように思う。アルコールのせいで多少滑りが良くなった舌にまかせて、ついついしつこく尋ねすぎた。やばいか、と冷や汗が背筋に流れるが、普段は沸点の低い部下が、今夜は機嫌を損なった様子もない。それでも一瞬、確かに不自然な沈黙があった。 そしてその不自然な沈黙の後、まるで「そういや最近暑くなってきましたね」とか、そういうまるでよくある場繋ぎの定型句を口にするように穏やかに静雄は、「いやそういうわけじゃなくて、」と断ってから、間違いようのない口調で、冒頭の台詞を言った。 深夜に程近い居酒屋の薄い壁一枚で区切られた狭い個室の、わざと絞られた明かりに照らされた静雄はサングラスを外している。アルコールのせいで軽く潤んでいるようにも見えるその瞳にはしかし、偽りは見られなかった。 女を抱けない。静雄の言葉を、鈍い頭で噛み砕いてみる。 「その、…ゲイなのか?」 まず最初に行き着く疑問はそれだった。だが静雄の返答は、「いや多分違うと思いますよ」とかいう、曖昧さを多分に残すものだった。 「………不能とか」 聞くのは憚られたが、ここまでくるともう毒を食らわば皿まで、みたいな心境になってくる。 「いやいやいやないっすよ」 「そ、そうか…よかった」 いやよかったのか? なんとも微妙な空気が流れてしまって、さてどうしたもんかとトムは考える。そんな気配を感じ取り、静雄は苦笑してから、煙草ケースを取り出して一本咥えた。それを見てトムも猛烈に煙を肺に取り込みたくなる。自分の胸ポケットに手をやると、いつもは入っているはずのケースがなかった。夕方に切らしてそのままだったのだ。 一連のトムの動作を見てそれを悟ったのだろう。静雄は自分の煙草ケースをトムに差し出した。 「俺ので良かったら、どうぞ」 「お、サンキュ」 遠慮なく一本拝借し、咥えてから火をつける。苦い煙を肺に満たす。自分が愛用するものとは異なる銘柄は、メンソール特有の清涼感を喉に残す。 「あー…」 吸い込んだ肺をゆっくりと吐ききってから、今までの会話を打ち切って別の話題にしよう、とトムは話題を探す。静雄はそんなトムを見て、ちらっと苦笑してみせる。 「俺が理性とばして女なんて抱いたら、大怪我負わせそうなんで」 紫煙を吐き出しながら、やはり穏やかな声で、静雄は言った。苦い煙と共に吐き出されたその理由に、トムは灰皿を手繰り寄せようとしていた手を止めた。急に煙草の苦味が増したように感じる。 そんなことないだろ、とは言えなかった。否定はできない。けれどそれは、ひどく、かなしい。触れたら壊すから、愛さない。それは極めて単純で、いとおしく美しくてかなしい。 苦々しい煙草を、結局トムは吸い切ることなく灰皿に押し付けた。 「この煙草、気に入らなかったっすか?」 見当違いなことを不思議そうに静雄が聞いてくる。それに答えることもせずにトムは、静雄の手首を掴んだ。 「ど、どうしたんすか」 無言で立ち上がったトムに半強制的に付き合わされた静雄が、戸惑いの声を上げる。それすら無視してトムは、無言のまま会計を済ませて店を出た。 静雄の力なら、トムの腕など赤子の手をひねるよりもたやすく振り払えただろう。だが静雄はそれをしなかった。 「…こっからなら、俺の家の方が近いな」 「は?」 「行くぞ」 「は!?」 初夏に向かいつつある池袋の夜はやけに蒸し暑かった。 トムは二十をいくつも過ぎているので、自分の性癖をそれなりによく知っていた。 すなわちトムは、ゲイではない。女性の胸とか尻とかの柔らかなラインを愛しているし、溜まったときにお世話になるのもやっぱりそんなやさしいラインを持った女性だ。なので、繰り返すがトムはゲイではない。 かといって、完璧なストレートでもないだろう、という自覚はあった。数年前、たまたまネットを回っていたら行き着いてしまったゲイ向けサイトで見た口には出せないような画像に性的興奮を覚えたことがあった。それから何度か、同性への欲情は経験している。 結果、トムは自分の性癖についてこう結論付けている。つまり、自分はストレート寄りのバイなのだろう、と。 では、平和島静雄に対して性的欲求を覚えたことはあるのか。答えはイエスだった。 常に意識しているわけではない。ただ今までで何度か、明確な欲望ではなく、「お、今のいいなあ」程度の淡い興奮を抱いたことがある程度だ。 例えば、フライドポテトを掴んで咀嚼したあと、指先についた塩を舐めたときのその赤い舌に。例えば、急に降りだした雨に打たれたとき、濡れたサングラスを外して俯くその白い頬に、金の髪から雫が落ちたその瞬間に。確かにトムは、池袋の自動喧嘩人形に欲情した。 別に罪悪感を覚えたりはしない。二十代半ばの男なら、特に意識せずとも自然とそういう欲求は起こってしまうものだ。 だがそういった経験から、トムは知っていた。自分は、平和島静雄を抱けるだろうということを。 静雄は何度かトムの家に来たことがある。酒と肴と煙草を持ち寄って、いつも二人で適度に酔っ払っては適当に雑魚寝する。なので静雄は、トムのベッドを使ったことはない。なのに今日、無言のまま居酒屋から程近いトムの家の、さらにはベッドの前まで連れてこられて、静雄は目を白黒させていた。 「あ、あの…トムさん」 「あん?」 羽織っていた上着を脱ぎ捨てる。静雄は妙に不安そうだった。トムの行動を一切合財理解していないのだろう。それはそうだ、実際トム自身にも自分の行動原理が良く分からない。 ただ分かっていることがひとつだけある。 トムは相変わらず不安そうな静雄のタイに手を掛けた。素早く外して、ベストにも手をかける。 「ちょ…っ、まじでどうしたんすかトムさん」 慌てて静雄がトムの腕を掴んで止める。トムに殆んど痛みを残さない程度の力だった。静雄からすれば、まるで羽根がくすめるような、そんな接触にしたはずだ。 そういえば、どんな形であれ、静雄からの接触というのは長い付き合いでもほとんどない。それもやはり、万一にもトムを傷つけないようにとの意識が働いたからだろうか。 「静雄」 「は、はい」 「抱きたい」 「……………は?」 唯一分かっていることは、人との接触を満足に知らない静雄を抱きたい、という感情だけだ。 同情? 結構だ。きっかけが同情であれなんであれ、とにかく今は目の前の静雄を抱きたい。理由はそれだけで十分だった。 静雄は、硬直していた。言葉通り、体を硬くして直立していた。何を言われたのか必死に理解しようとしている、そんなところだろう。 そんな様子が哀れで可愛くて、トムはその金の髪に手を差し込んで頭を寄せ、耳もとで名前を呼んだ。思いのほか甘くざらついた声になった。ああ、俺は欲情しているな、と思う。 「…、トムさんっ」 名前を呼ばれたことでようやく我にかえったのか、静雄がわたわたと暴れだす。と言っても、やはり池袋の喧嘩人形にしてはささやかな暴れ方だった。トムでも腕一本で封じられるほどに。 「女抱くのは無理なんだろ。じゃあ抱かれるのはイケるんじゃねーの。っつーわけで、抱きたい」 「いやいや、なんでそんなことになんすか」 「他人の肌っつーのは結構悪くないもんなんだよ。お前だって、してみたいだろ」 「いやいいっすよマジで! なんかの拍子に暴れたら俺、トムさんの背骨とか折りかねないんで!」 結構切実な訴えだった。静雄にとっても、トムにとってもだ。 「トムさんにそんな危ないことさせるくらいなら、門田とかあの六条とかいうガキに頼みますから!」 「………」 あいつらなら頑丈だし、と続けた静雄に、トムは沈黙する。 なんて頼むつもりだ、「抱いてくれ」ってか? その力あるまっすぐな視線で? それは言われた方も相当驚愕することだろう。などと冷静に考える一方で、怒りに似た感情がわき上がってくるのも感じる。 「だから、…っトムさん!?」 抗議の声を無視して、トムは静雄の肩を抑えた。ぐっと顔を近づける。喧嘩慣れしている静雄は、反射で目を閉じたりはしなかった。なので、目を開いたままで、キスをする。噛まれるかとも思ったが、静雄は体を強張らせるだけだった。 一度目は軽く唇を触れ合わせるだけ。いったん唇を離してから、二度目は深く口付ける。 「んん、」 唇を離しても、静雄は目を見開いたまま硬直していた。 無理やりは趣味ではないし、そもそも静雄が本気で嫌がったら無理やり性行為に持ち込むことなどまず不可能だ。なので、静雄が心底嫌がるなら、「悪ぃ、酔ってとち狂ってた」とかなんとか言ってやめるという逃げ道を作るつもりも、ほんのわずかにあった。だが今の静雄の発言で、そんな微妙な選択肢も吹っ飛ぶ。 「おまえなあ…」 本当にトムのことを慮っての発言だというのは分かっている。それでも、苛立つのを抑えられそうになかった。 静雄はそんなトムの心情などまるきり理解していない。 ごつ、と額をあわせる。トムは結構痛かったのだが、静雄は痛みなど感じてはいないだろう。 「お前のダチが、じゃなくて、俺が、お前を抱きたいの」 至近距離で言ってやる。居酒屋を出てからそれほど時間が経ったわけではないが、今静雄の顔が真っ赤なのは、アルコールが回っているせいではないだろう。 「静雄、抱きたい」 今夜で四度目の言葉を、赤く染まった耳に吹き込む。これは反則に近いな、とそれなりに恋愛経験を積んできたトムは思った。静雄が、初めて出会った少年期からトムを慕ってくれていたこの静雄が、断れないことをトムは知っていた。 (プリズム・リズム) (2010/06/13) |