クローズド・ワールド7 | ナノ



新羅は言葉を続けた。
「事故に遭った君が意識を取り戻す可能性は、絶望的だった。体が回復した静雄は、君のいない世界で7年間を過ごしたんだよ」
目に見えて落ち込むことはしない。けれど静雄は、ひどく無気力に過ごすことが多かったという。
公では死んだことになっているため、かつての仕事に戻れない静雄は、新羅とセルティの家で生活をするようになったが、一日ぼうっとしていて見るに堪えない状態だった。
「気分転換にセルティと料理をしたりもしていたけど、ほとんど一日ずっと音楽を聴いて過ごしたりしていてね」
絶対的な相手のいない世界の静寂は、今の臨也にはよく分かる。それを紛らわすために、彼は音楽を聴いていたのだろうか。
今も、その悲しい夢の影に怯えて、彼はヘッドフォンを身にまとっているのだろうか。
「僕はそんな静雄をずっと見てきたから、やっぱり多少思うところはあるよ。君も同じ思いをして然るべきだと思った。僕の、安直で利己的な、復讐だった」
新羅は静雄の友人として、7年間静雄の傍にいた。静雄の姿を求めて池袋をさまよっていた臨也と同じように、悄然とした静雄の姿をずっと見続けてきたのなら、死に逃げた臨也に対してそう思うのは、あるいは当然なのかもしれない。

臨也がいない世界で、平和島静雄は何を思っていたのだろう。
デリックが――静雄がずっと見ていたという悲しい夢に、思いを馳せた。

「でも僕も、意気阻喪して池袋を徘徊する君を見ているのはやっぱり忍びなかったからね。静雄が君に会わないとしても、いつかは静雄が生きていることを君に告げようと思っていた。けど、やっぱりと言うべきかな、静雄は結局、意識を取り戻した君に会うことを決断したよ」
だからクローンだと突拍子もない説明をしてデリックを臨也のもとに届けたのだと新羅は言った。ずっと冷たく硬い印象を保っていた瞳を弛め、悪戯がばれた子供のようにきまり悪げで、それでいてどこか清々しそうな顔をして見せた。
「さっきも言った通り、静雄が君をずっと騙していられるとは露程も思ってはいなかったけど、さすが臨也。バレるのが思ったよりも早かったね。これで、僕の復讐は終わりだ」

「終わってないよ、新羅」

ガラスのカップを呷って喉を潤してから、臨也ははっきりとそう言った。
「え?」
「君のそのささやかな復讐は、終わっていない。俺はデリックがシズちゃんだなんて、知らなかったことにするからね」
「…静雄に、言わないつもりなのかい? 彼も、デリックのふりをし続けるのはつらいと思うんだけれど」
「つらい? そんなこと、俺には関係ない。俺はあくまで知らないふりをするよ」
臨也は口角を上げて笑みを浮かべる。歪んだ笑みだと自覚している。
「…どうしてだい」
「デリックが平和島静雄だということを俺が知ったとすれば、アイツは間違いなく、俺の前から姿を消すはずだ。俺の命を賭けて断言できる」
もともと平和島静雄と折原臨也は、長く時をともに過ごせるような仲ではないのだ。静雄ではなく、デリックとして傍にいたからこそ、ここでの穏やかな生活は成り立っていた。
何より臨也は、7年前に酷い言葉で静雄を切り捨てた。静雄が意識を取り戻した臨也に会いたがらなかった理由は、そこにあるのだろう。静雄はまた臨也に切り捨てられることを怖れているし、何より自分を切り捨ててた臨也のことを、確かに憎んでいるはずだ。
「ねえ新羅。君は、君の復讐だと言ったけれど、それはやっぱり、平和島静雄の復讐でもあったんだよ。アイツは、自分が死ねば残された俺が苦しむことを、どこかで知っていたはずだ。だから平和島静雄として俺に会うことを嫌がったんだ」
「……」
「その結果、俺は苦しんだよ。シズちゃんの復讐は見事に達成された。けど、アイツはやっぱり愚かだね。俺を捨てられずに、デリックなんて身代わりをよこしたんだから」
静雄は臨也を憎みながらも、臨也の傍にありたいとも思ったのだろう。平和島静雄として臨也とともに過ごすことはできない。そんな葛藤の結果生み出されたのが、デリックだった。
今度は新羅が押し黙る。臨也は薄い笑みを浮かべたまま、先を続けた。
「デリックがシズちゃんだと俺が気付いてアイツの復讐に終止符を打てば、デリックもシズちゃんに戻って俺の前から消える。だから俺は、気づかなかったふりをするよ、ずっと」
そうすることによって、この先も臨也はデリックと生きていく。
臨也はわざと、平和島静雄との共通点や相違点をデリックの前でちらつかせて、彼の反応を窺ったりもしていた。でもそれも、もうやめる。
「…君がそれを望んでも、静雄がそれを望むかは分からないよ。君はこのまま年を重ねても、静雄は今のまま、老いることはない。それを厭って、いずれ君の前から姿を消す可能性もあるだろ?」
静かな口調で、新羅が問いかけてくる。臨也はソファから立ち上がって、リビングの広い窓の前に立った。日差しが惜しみなく降り注いでいる街路が見える。
臨也は明るい午後の日差しの中に彼の姿を探しながら、答えた。
「ないよ。俺がその可能性を否定させた。俺はアイツに、ずっと俺のそばにいると言わせることに成功したんだ。新羅も知ってるだろう? 平和島静雄は、一度した約束はたがえない」
臨也はとうに、その可能性に気づいていた。だからあの夕立の日、狡猾な臨也は彼の背に縋ったのだ。寂しげな声を出せば、デリックのふりをした静雄はすぐにその言葉を口にした。自身を臨也に縛り付ける言葉だと、知っていたはずなのに。本当に彼は愚かだ。泣きたくなるほど。
窓の外の、日差しを反射してきらきらと光る街路の影に、こちらに向かってくる金の髪を見つけた。臨也は知らずに口元を綻ばせる。
そんな臨也を見て、新羅は短く、ため息を吐いた。
「…君たちは、本当に、悲しいほどに愚かだね」
付き合いの長い友人のそんな言葉に、臨也は笑みを深める。
新羅は傍観者だ。臨也と静雄が真に望まない限り、ことの顛末を静雄に告げることはしないだろう。
これでこの世界に残されたのは、本当に愚かな二人だけになったのだ。




冷たい麦茶を新羅の前のグラスに注ぐと、少し長く話をした後のためか、新羅はそれを美味しそうに飲み干した。それを見届けてから、臨也は声を掛ける。
「ねえ、新羅。最後にこれだけ、聞いていいかい?」
「僕に答えられることなら」
「俺は、あの病室で誰かに名前を呼ばれたような気がして、長い眠りから目を覚ましたよ。…デリックが――シズちゃんが、俺の病室に来たことはあったかい?」
問いかけたそのときに、リビングの奥にある玄関で物音が聞こえた。街路を通っていた彼が帰宅したのだ。臨也は目を細める。新羅は小さく笑って見せた。
「その問いに、私の答えは必要かな?」
「……いや、いいよ」
紅茶の茶葉が入ってると思しき紙袋を携えて、デリックがリビングに入ってくる。
デリックは、臨也と新羅が囲むテーブルの前に置かれたグラスを見て、動きを止めた。
「…んだよ、普通に麦茶飲んでんじゃねーか」
「ごめんね、新羅が冷たいのが飲みたいって言うから。それより、おかえりデリック」
衒いもなく微笑んで迎え入れると、デリックは少し照れたように顔を俯けた。そしてその顔のまま、そそくさとキッチンの方に向かう。
一連のやり取りを見ていた新羅は、静かに席を立ち、「そろそろお暇するよ」と言った。
「あ? 紅茶淹れるから飲んで行けよ」
「いや、いいよ。これからセルティとデートなんだ」
早めに帰って張り切って準備しないとね、と新羅はいつまで経ってもあまり変化の見られない顔で惚気る。デリックは「ああそうかよ」とげっそりと呟いただけで、それ以上は留めなかった。

新羅が去ると、穏やかな静寂に包まれた部屋で、デリックはケトルを火にかけた。やはり紅茶を淹れる気らしい。臨也は当然のようにヘッドフォンを装着しようとする彼の腕を掴んだ。
「なんだよ」
「音楽聞きたいなら、そっちのプレーヤーで聞こう。ずっとヘッドフォンをつけてると、耳が悪くなるよ」
「今更だろ」
「いいから。ね、二人で聞こうよ」
もう、耳を塞いでも逃れられない静寂が続く、悲しい夢は終わったのだから。
「? 変な奴だな」
甘ったるい声を出す臨也に不審げな顔をしながらも、デリックはダイニングに置かれたオーディオプレーヤーで音楽を掛けた。ジャズらしいアルトサックスとピアノの音が、物憂げで、それでいて甘い音律を綴る。
デリックはそれを確認してから、キッチンの方に戻ってティーカップを出し、ふと臨也の方を見た。
「そういや、ついでにクッキー買ってきたんだ。アンタも食うだろ?」
「うん。ねえ、デリック」
「…あ?」
「名前、呼んでよ」
「はあ?」
アンタ、という不自然な呼び方ではなく名前を呼んでくれと頼むと、デリックはますます不思議そうな顔をする。デリックがここに来たばかりの頃に、かなりきつい口調で名前を呼ぶなと言ってあるので、それも当然なのだろう。
だがもう一度、呼んで、と頼むと、デリックは少しためらいながら、「臨也」とその名を口にした。
「うん」
「臨也」
「うん。もう一回、呼んで」
「…臨也」
眠っている臨也にいつも近づいてくるデリックが、その髪に触れながらいつも小さく何かを呟いていた。その響きと同じ、柔らかで優しい、それでいて少し寂しい声だった。ずっと、この声に、呼ばれていた。
答える代りに、近づいて彼の身体を抱き寄せる。見知った煙草の匂いがして、無性に泣きたくなった。
以前のように、呼び返すべきあのなじみ深い呼び名を、臨也は失くしてしまった。代わりに得たものは、終わりのない復讐で縛り付けた甘い日々だ。
ごめん、と胸のうちで小さく謝罪する。けれど彼の名前も、その自由意思さえも踏みつけても、もうこの存在を手放す気はないのだ。
彼のかけたCDの物憂げなピアノが、明るい室内に聞こえ続けている。それに少し酔ったとでも言うようなしぐさで、臨也は彼の首筋に、顔を埋めた。

これでこの世界は、愚かな二人を内に秘めたまま、永遠に閉ざされたのだ。


(クローズド・ワールド 7・完)
(2011/07/09)






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