○ 昨晩、ちょっとした捕獲劇の成り行きを見守ったためか、朝に寝坊した。大した用事もなかったので、のんびりとリビングに入る。デリックは今日も、ヘッドフォンをつけて何かを聞きながら掃除をしていた。 「おはよ、デリック」 「…ああ。つうか遅えぞ、今何時だと思ってんだ」 声を掛けると、デリックはヘッドフォンを外して臨也を見て、小さく笑った。すでに登り切った太陽が、柔らかな日差しをリビングに投げかけている。その光の筋を受けて、デリックの金髪が透けて見える。 彼が用意したブランチは、納豆にダシ巻卵だった。納豆は好きではないのでそれを避けて、綺麗にまかれたダシ巻卵をつつく。一口食べて、臨也は噴き出した。 「んだよ」 「デリック、これちょっと甘すぎ」 「そうか? 甘い方がうまいだろ」 「いやそう思ってるのは君くらいだよ…」 デカい図体をして、相変わらず彼は子供舌だ。菓子のように甘い卵焼きを咀嚼して、臨也が淹れるコーヒーのために砂糖を用意した。 来客を知らせるチャイムが鳴ったのは、午後に差し掛かった頃だろう。インターフォンには、見知った白衣姿の男が写っていた。 「やあ。暑いね」 都心を白衣姿で闊歩してきたらしい闇医者は、「ちょっと様子を見に来ただけなんだけどね」と言いながら、招き入れると当然のようにソファに腰掛けた。茶を淹れようとするデリックに、臨也は「ねえデリック、今日は紅茶がいいな。ちょっと買ってきてくれるかい?」と頼む。デリックは怪訝そうな表情をしたが、「分かった」と頷いた。 新羅と臨也を残し、デリックが部屋を出ていく。それを確認してから、新羅が穏やかな表情で「うまくやってるみたいだね」とにこやかに笑った。だがすぐに、その表情を少し引き締めて臨也を見る。 「昨夜、結構大がかりな捕り物があったみたいなんだけど、君の仕業かい?」 臨也は涼やかなガラスのコップに麦茶を注ぎ、それを新羅に差し出しながら笑みを浮かべた。 「何のことかな」 「あんな大がかりな捕り物だったのに、捕まったのはたった二人だったらしい。どうも、M組系の残党らしいね。…7年前、君を撥ねた奴らだろ」 「俺は善良な市民のつとめとして、逃走中の容疑者の潜入先をリークしただけだよ。まあ、いくつか余罪をでっちあげたりはしたけれど」 二人とも暴行の前科があった。再犯の場合は量刑が重くなる。これで、しばらくの間は自由に動き回ることはできないだろう。 「相変わらず、えげつないね」 「何もしてこなければ放っておくつもりだったんだけど。関わってきた以上、徹底的に潰すまでだよ。今後、俺の生活に関わることは許さない」 「ここは、君が元気になってよかった、って喜ぶべきところなのかな?」 友人として、反応に困るよ。と言いながら、新羅はグラスに口を付けた。臨也は立ち上がって書斎に向かい、デスク脇に置かれたチェストからファイルを取り出して、新羅のもとに戻る。自分のグラスに口をつけて冷たい茶で喉を潤してから、ゆっくりと口を開いた。 「ねえ、新羅」 「ん? なんだい?」 「もう確信を持っているから、答えてくれなくてもいいんだけど、一応聞くよ」 「うん?」 不思議そうな顔をしている新羅の前に、臨也は書斎から取り出したファイルを置く。ここしばらく、一番時間と労力を注ぎ込んで得た情報が、そこに詰まっている。 それなりの厚さのあるファイルをめくった新羅は、手を顎に当ててしばらく読みふけったが、やがて心情の読めない不透明な笑顔を臨也に向けた。 「よくこんなに調べられたね。さすが臨也。それなりにつながりのある私でさえ知らない情報ばかりだ。でも、結構危ない橋だったんじゃないかい?」 ネブラの内部機密なんて、と新羅は続ける。臨也は肩を竦めた。 「まあ、さすがにガードが堅かったよ。そこまで調べるのに、2週間ほどかかったからね。特に、平和島静雄関連の情報は」 ファイルには、7年前から現在にかけてのネブラの内部情報に関する情報が書き込まれている。一番欲しかった、静雄の身体に関するデータは念入りに削除されていたが、その当時、静雄の治療と研究にあたっていたチームの情報等は残っている。 「平和島静雄の研究を続けているチームはまだあるね。そのチームのうち数名は、クローン技術を専門としている。でも、7年前から現在にかけて、ネブラでクローン技術が飛躍的に発展したというデータはなかった」 臨也は新羅が持っているファイルを取り上げて、ペラペラと紙をめくる。折れ線グラフの表示されているページを開けた。線が右下がりになっている折れ線グラフを指で示す。 「…これが、平和島静雄の研究チームにあてがわれた研究開発費。7年前から、漸減してる。特殊な製法を用いた特殊なクローンの誕生に成功したなら、こんなグラフにはならないと思わないかい?」 薄く笑いながら臨也は指摘する。新羅は、特にうろたえることもしなかった。表情を変えることなく、臨也の話を聞いている。臨也は先を続けた。 「これらのデータから導かれる結論は、こう。――平和島静雄のクローンの開発は、成功しなかった」 言い切ると、新羅はいっそ笑みを深くした。想定していた指摘だったのだろう。 「その通りだよ。プロジェクトチームはずっと静雄の遺伝子同位体を作り出そうとして、ことごとく失敗した。生命体を作り出すことはかなわなかったんだ」 ネブラのクローニング技術に問題はない。恐らく、問題は静雄の特異性によるものだろう。クローンは、誕生しなかった。 「つまり、デリックは平和島静雄のクローンじゃない。あれは、シズちゃんそのものだね?」 確信を持っていたのに、話がコアの部分に入ると、やはり少しだけ口内が乾いてざらつく。らしくもなく緊張しているのか、と自嘲するが、新羅は特に気負った様子もなく、いっそ清々しげに笑っている。そうして、ゆっくりと唇を開いた。 「いつから、気づいていたんだい?」 ○ いつから、という問いに答えるなら、むしろ気付かなかったのは最初の二日間くらいだ。その間だって、ずっと違和感はあった。クローンは容姿だけを取ればそっくり同じ人間を作れるが、性格形成は遺伝子だけによるものではない。新羅が最初に言った通り、クローンというのは見た目が似ている他人のようなものだ。 だが、デリックの性格や仕草は、多少穏やかで世話好きなところを除けば、平和島静雄に酷似していた。それに。 「ナッキンコールのFly me to the moon」 「は?」 「俺がシズちゃんと聞いていたカバー曲を、歌ってた」 ナット・キング・コールは半世紀以上も前にナッキンコールの愛称で親しまれた、米国のジャズピアニストでもある男性歌手だ。 ジャズのスタンダードナンバーであるFly me to the moonは多くの歌手がカバーしており、それぞれが好きなようにアレンジをきかせている。歌うリズムも曲調も歌い手によってさまざまで、時には歌詞にアレンジを入れている者さえいる。歌い方によって、誰のアレンジなのかというのは意外にわかるものなのだ。かつて静雄は、ナッキンコールのアレンジを好んでいた。というよりも、ナッキンコール以外の歌手の曲を知らないのかもしれない。ほんの一時ジャズに傾倒していた臨也の影響である。 もう7年以上も前、それなりに穏やかで甘い恋人同士のような時間の中で、臨也と静雄はナッキンコールのその曲を聴いていた。白いシーツに包まって、マナー悪くも寝煙草をふかしながら、心地よさげにその曲を何度も繰り返し聞いていたことを覚えている。 低くて甘い声が、In other words とサビの歌詞を綴る。欲しいのも、尊敬するのも恋しいのもあなただけ。つまり、誠実でいてってこと。そんな、臨也と静雄の関係にはまるで似合わない甘い歌詞が皮肉のようで、それでも何だか悪くない、と思いながら臨也も彼の隣でそれを聞いていた。 「あの曲を歌った有名な歌手は数えきれない。フランク・シナトラもジュリー・ロンドンも歌っている。それなのに他の誰でもない、ナッキンコールのアレンジを歌っていたのを聞いたときに、確信を持ったよ」 あれはデリックではない。平和島静雄だ。 新羅は何も否定しなかった。それどころか、にこやかに笑ってさえいる。 「私も、静雄が君をずっと騙せるとは思ってはいなかったけれど。まさかそんなところで気付くなんてね」 「騙せるとは思っていなかったのに、どうしてつまらない嘘をついた?」 デリックが――平和島静雄がこの部屋に帰ってくるまでの時間は限られている。話を進めると、新羅はそこでようやく、顔から笑みを消した。眼鏡のガラスの奥の瞳が、どこかしら冷たく光る。 「君の指摘通り、あれはデリックと言うプロジェクトネームをつけられはしたけれど、平和島静雄に他ならない。なら、おかしな点がいくつも残るだろ?」 どうして死んだことにされたのか。どうして、7年と言う歳月が過ぎたはずなのに、その年月が身体に現れていないのか。当然臨也もそれについて考えたが、平和島静雄の身体に関するデータは抹消されていたので、答えは出ない。 「君が事故に遭った日からほんの数日後、確かに静雄は一度、心肺停止に陥ったんだ」 それまでも意識はほとんどない状態だった。だから臨也の事故のことも知らずに眠り続けていた。そのまま彼は消えてしまうのだと、そう思っていた。だが彼は、奇跡的に息を吹き返した。 ネブラはその事実を隠し、似たような身体的特徴を有する死体を探してそれを平和島静雄の死体として扱った。 「その真意は分からない。推測だけれど、恐らく不可思議な能力を秘めた静雄を、完全なモルモットとして扱いたかったんだと思うよ」 すでに生きているはずがないのに、その特異な体質のせいで永らえた静雄は、さぞや魅惑的な研究対象だったはずだ。生きているはずのない人間になら、何をしても構わないと思ったのだろう。だがそれに気付いた新羅やセルティ、更には平和島幽が圧力をかけて、静雄をネブラから連れ出した。 「静雄は一度、公には死んだことになっていたし、その時の静雄はかなり衰弱していた。それにしばらくの間は意識も混濁していて、どこまで回復するのか分からなかった。だから下手に騒がしくせずに、そのまま経過を見ていたんだ」 結果、静雄は順調に回復した。だが細胞分裂が限界に達していたのに、何事もなかったかのように回復することがありうるだろうか? 新羅は人道から外れた扱いをしないことを条件にネブラと共同で静雄の身体を検査した。 「分かったことは、静雄の体にテロメラーゼの発現が異常に多くみられるということだった」 人の細胞分裂の限界を決定するのはテロメアの長さにあるといわれている。細胞分裂が行われるたびにテロメアが短縮していくのだ。しかしこのテロメアDNAを延長する酵素が存在する。それがテロメラーゼである。 成人の体細胞ではこのテロメラーゼはほとんど見られないはずなのだが、静雄の特異な体にはそんな常識は通用しなかったということなのだろう。テロメラーゼの活性化は正常細胞のガン化をももたらしかねないが、静雄に関してはそれもなかった。 恐らく、死という絶対の危機を回避するため、静雄の身体はまた進化を遂げたのだ。 細胞の分裂寿命を決定するテロメアの短縮がテロメラーゼの働きによって起こらないということは、身体の老化が起こりにくいということも意味する。だから静雄は、20代半ばの姿のまま、外見が止まっているのだ。 「だったら、そう説明すればいい。どうして平和島静雄は死んだなんて言ったんだ」 ぐっとグラスを握りしめながら問う。新羅はもう笑うことはしなかった。ただまっすぐに臨也を見ている。 「理由は大きく分けて二つ。一つ目は、静雄がそれを望んだこと。二つ目は、僕がそれを望んだこと」 「……」 新羅のまっすぐな視線を受けて、臨也は押し黙る。 「静雄は、静雄として君に会うことを拒んだ。その理由は、私には分からない。私は、君に静雄が生きていることをすぐに告げたくはなかった。静雄の老化を止めた体のこともあるし、静雄が君に会いたがらなかったこともある。それと、あとは僕の個人的な感傷」 「…感傷?」 「そう。7年前君の身の上に起こった事故。あれは、僕には君が生きることを放棄したように見えた。君が事故を回避できないとはとても思えなかったからね」 臨也は、返す言葉を持たなかった。新羅の言葉は、きっと、間違ってはいない。あの日、静雄のいない世界に残されることを厭い、死を恐れていたはずの臨也は、確かに死に縋った。 「それが許せなかった、なんて言うつもりはないけれど。私は、君のいない世界に残された静雄を見てきたからね。7年も」 淡々と告げる新羅の声は、どこか渇いている。だが臨也はその声の奥にある、この友人のやるせなさと怒りを、確かに感じていた。 デリックは以前、臨也にこう言った。悲しい夢ばかり見てきたのだと。7年間、ずっと。 (クローズド・ワールド 6) (2011/07/08) → |