○ 2日目 静雄の朝は、一応は勤め人なのでそれなりに早い。いつもどおり、じりじりと鳴りはじめた目覚まし時計を止めて、よし今朝は時計を壊さず起床することに成功した、今日はいい日になりそうだ、とか思いながら寝室のドアを開けた瞬間に、気分が急降下した。 ほんの小さなリビングキッチンの床に置かれたクッションを枕代わりに、憎き仇敵がぐうぐうと惰眠を貪っている。一気に昨日の出来事が思い出されて、気が重くなる。それでも時間が止まるはずもなく、出社時間は近づくので、取りあえずその塊をまたいで朝食を―― 「ぐえっ」 「パン、買ってあったよな」 「ちょっと、ただ寝てただけなのに、なぜか腹部に突如重みがのしかかったような気がするんだけど。故意的な重みが」 「気のせいだろ」 食パンを棚から出してマーガリンを塗っていると、何故か臨也がのそのそとやってきて、勝手に食パンを齧り始めた。会話をするのも億劫なので、好きにさせておく。 身だしなみを整えてさて出勤、という時間になると、食パンを齧り終えた臨也が、またリビングで丸くなっていた。 「お前、昼飯とかどうするんだ?」 「…んー…適当に出前取るか食べに行くよ」 朝交わした会話はせいぜいそんなところだ。支障のない範囲内で仕事もすると言っていたし、どこかに出かけるならそれも構わない。むしろそのまま帰ってこなかったなら万々歳だ。 などと思っていたが、帰宅すると残念なことに、臨也がパソコンに向かってキーを叩いていたので、やはり反射で臨戦態勢になってしまいそうになる。だが臨也からまったく戦意が感じられないので、すぐに警戒を解いた。 集中しているようだったので声を掛けなかったが、静雄がリビングに入ると、席を立ってキッチンに向かい、コーヒーを淹れ始めた。 「って、なんだそれ」 見たことのない高そうなコーヒー豆の缶とドリッパーなどが並んでいたので、思わず聞いてみる。 「ん? 俺、結構コーヒー飲むから、淹れるための一式買ったんだよ」 「へえ」 その答えには特に関心もなかったので、適当に相槌を打ってさて風呂でも入ろうと思ったときに、「はい」とマグカップを差し出された。湯気の出る、いい匂いのする液体が入っている。 「…カフェオレ?」 「そう。朝食勝手にパンもらったから、お返し」 毒入りだな。静雄はほとんど条件反射で思った。この男が何の魂胆もなく、静雄に飲食物を与えるはずがない。だが警戒心丸出しの静雄の前で、臨也は実に美味そうにコーヒーを口にしている。正直、仕事で疲れた体に、芳しいコーヒーの香りというのは、結構重力がある。 人並みはずれて頑丈なこの体なら、まあ多少の毒素も大丈夫だろう、と言い訳をして、静雄はマグカップに口付けた。 「どう?」 「…うまい」 静雄は基本的に根が素直なので、正直に答えた。少し濃い目に淹れたコーヒーに入れた牛乳は、きちんと温められていたのだろう。しっかりと高温を保ったカフェオレは、微かに甘い。 「そう。じゃあ借りは返したから」 それだけ言って臨也は、再び自分の作業に没頭した。 キッチンに残された静雄は、自分が知っている臨也と今の臨也との違和感と戦いながら、絶妙な味のカフェオレをこくこくと飲んでいた。 ○ 3日目 静雄は痛覚が鈍い。痛みをまったく感じないということはないが、少なくとも傷に相応する痛みは感じない。何せ拳銃で撃たれても気付かなかったほどだ。それもまた、人間の域を超えてしまっていることを示すもので、臨也が静雄を“化け物”と蔑む理由の一つだった。 さすがに仇敵との同居も3日目ともなれば、玄関の扉を開けた瞬間に憎しみの対象である男の顔があっても、もうそれほど驚かないし、条件反射でこめかみがピクリとしたりもしない。と静雄は思っていたのだが、臨也の方はそうでもなかったのか、ドアを開けて現れた静雄の姿を見るなり、軽く目を瞠った。 「なんで片腕血だらけなの?」 深夜と呼んでも差し支えのない時間帯に帰ってきた家主にかけられた居候の第一声はそんな言葉だった。 「あー…、切られた」 「随分ばっさりやられたねえ」 ばっさりやられたのか? と静雄はいっそ不思議に思う。何せさほど痛みは感じないので、血は結構出ているがばっさり切られた、という実感はない。 「切り裂き魔でも出たわけ?」 「多分違うだろ」 なんてことはない、事務所からの帰り道、一人で街灯の少ない路地を歩いていたら、何十人かの人間に囲まれた、というだけだ。「この前の恨みだ!」とか何とか叫びながら後ろから切りかかってきたナイフが腕を掠った。 この前っていつだよ、心当たりありすぎて分からねー。けど幽にもらったバーテン服が切れちまっただろこの野郎! くらいに思いながら、静雄はその人間を綺麗にアスファルトに沈めて、淡々と帰宅の途に戻った。静雄からすれば、日常の枠内の出来事だった。 「あ、ちょっとどこ行くの」 「シャツ、血がついたから洗う」 その上で、無駄かもしれないが修繕できないか試すつもりだった。 「せめて手当てしてからにしたら?」 「別に、こんくらいいいだろ」 「いや、血がたれてるんだって。掃除が面倒だろ」 確かにそれはそうだ。取りあえず出血が止まるまで、これ以上家を汚さないようにするのが良策だろう。 「…タオル巻いときゃいいかな」 「だったら手当てしなよ。救急箱ある?」 救急箱。静雄にはあまり縁のない単語だが、確か以前、幽が「念のため」と言って持ってきてくれたのがそのままクローゼットに入っていたはずだ。それを告げると、臨也は「ふうん」と一言発してから、家の奥へと入っていった。そしてすぐに戻ってきたと思ったら、その手には赤い十字架のマークがついた、木製の手提げ鞄を持っていた。 何だこれは、と静雄はそればかりを何度も心の中で呟いた。何だこれは。 目の前で、臨也が静雄の腕の傷の治療を行っている。あの、自分を貶め傷つけることを望み、それを躊躇いなく実行してきた臨也が、である。 「あんまり深くないね。っていうか綺麗に皮一枚部分だけ切られてるねえ」 いっそ感心した口調で呟いている。静雄の筋肉繊維は、メスも折るほどなのでそれは当然なのだが、そのことを知らない臨也にしては、驚嘆に値する傷なのかもしれない。 「お風呂に入っても濡らさないように気をつけなよ。多分結構痛むから」 「……」 それはなんてことのない言葉だった。だがそれは、妙に静雄の胸に残った。 静雄が、この程度の傷で痛みなど覚えるはずもない。むしろ、今夜中には綺麗に消える可能性も高い。それを知れば、あるいはそれを思い出せば、絶対にそんな言葉を口にしたりはしなかっただろう。 意外に器用に、静雄の腕に包帯をくるくると巻く臨也を見ていたら、静雄は、感じ続けていた違和感の正体に気付いた。 臨也は、まかり間違っても善人ではない。性根の曲がり方なら右に出るものはいない。だが、一方で誰に対しても嫌悪と侮蔑をもって接するわけではない。臨也は表現方法こそ大きく間違えてはいるが、人間を愛する男である。 つまり、今の臨也は、静雄を憎しみ蔑む“化け物”ではなく、ただの“人間”として見て、接しているのだ。だから、今のような気遣いの言葉を口にもする。それならば、と静雄は思う。 それならば、こいつのこんな態度はすぐに無くなるだろう。静雄は、確かに自分が人の領域をとっくに超えてしまっていることを知っていたので。 その単純な事実に向き合ったとき、痛覚の鈍い体の、その奥が、少しだけ痛みを訴えたような気がした。 ○ 4日目 周囲の人間に、犬猿の仲だと認識されている男二人で、鍋を囲んでいる。 異様な光景だ。臨也と静雄の日常を知っている人間が見たら、腰を抜かすかもしれない。実際、静雄自身にとってもこの光景は、異常以外の何者でもない。 こんな異常な事態のきっかけは、昨夜の出来事に遡る。つまり、怪我をして帰ってきた静雄を、臨也が治療した、というのが発端である。 静雄は色々と錯乱していたのだが、少し考えてみれば、どうやら臨也は特になんの裏もなく静雄に治療を施したということになる。静雄は困った。どんな形であれ、仇敵に借りを作ってしまったのだ。多分、礼でも言えばそれですむことなのだろうが、たとえ記憶がないとはいえど、あの臨也に素直に謝礼の意を示すなど、はっきりいって癪だ。 そこで静雄はこう切り出した。 「臨也、なんか食いたいもんあるか?」 その結果、取立て予定が立て込んでいなかったため、早々に帰宅の途についた静雄は、鍋の材料を買って帰り、男二人の鍋作りに勤しむことになったのである。 「なんか野菜の切り方、大雑把じゃない? 俺、野菜苦手だからもうちょっと小さく切って欲しかったんだけど」 「うぜえ」 実際、静雄はそれなりに自炊をするが、鍋は苦手だ。野菜を切り分けて行くの作業が難解なのである。何せ、まな板どころかその下のシンクをも切り込みかねない。なので、自然な成り行きで、包丁を使う回数を減らすことになり、結果野菜が大きくなる。 「文句あんなら食うな」 「いやいや、美味しいよ結構。長ネギがやたらと長いけど」 「長ネギは長いもんだろ」 「いやえっと…まあいいや」 ぶつくさ言いながら、それでも臨也はよく食べた。 ひとしきり具材を食べ終えてから、静雄は少し離れたところで一服しながら臨也に尋ねた。 「シメはうどんでいいな」 「えー? 普通そこは雑炊でしょ」 「うどんしか買ってきてねえ」 「レトルトのご飯の買い置きがあるの知ってるよ」 とびきりの笑顔で近づいてきて、得意げに情報を披露する記憶喪失の情報屋に、静雄は思わず舌打ちをする。 「駄目だ、うどんだ」 「じゃあジャンケンね。はい、最初はグー、ジャンケン、」 ぽん。日本人の悲しい性で、条件反射で応じてしまった。臨也がパー、静雄がグー。 「はい決定!」 得意満面に宣言するその顔が憎々しい。静雄は一度煙草の煙を深く吸い込んでから、思いきりその顔に向けて煙を吐き出してやった。 無防備にそれを吸い込んでしまった臨也は、たまらずむせだした。 「…げほっ、ちょ、げほッ! ちょっとさすがに、げほ! 酷い…げほごほッ!」 むせながら何か静雄を非難しているようだ。だが殆んど咳こんでいて、何を言いたいのか分からない。 顔を赤くして咳き込む臨也が、涙目で静雄を睨んでいる。これも、はじめて見る表情だ。静雄は可笑しくって煙草を手にしたまま吹きだした。臨也は恨みがましい視線のままだ。 笑いながら静雄は思う。お互い、まるで人間みたいなやり取りをしているものだ。だがこれも、そう悪くはない。 だが、静雄がただの人間であるはずもない。静雄は、記憶を失う前の臨也が『化け物』と忌み嫌った存在である。 忘れていたそのことを思い出させたのは、夜半に風呂に入ろうとした静雄に臨也がかけたこんな言葉だった。 「そういえば、昨日の傷どう? まだ痛む?」 その問いに、思わず体が一瞬静止してしまった。 「……いや」 「あとで包帯巻こうか?」 「いい」 そう、とだけ臨也は応じた。特に疑問は感じなかったようである。 静雄は、本来正直な男だ。嘘など滅多につかないし、そもそも嘘をつくような器用さを兼ね備えていない。そのことを静雄自身がよく知っていた。だから、今の会話にも特に嘘はなかった。 ただ、黙っていただけだ。昨夜負った傷など、今日の昼には跡形もなく消えていたのだということを。 ならばどうして口を噤んだのか。その理由を深く追ってしまうことが、らしくもなく静雄は、怖かった。 (フリークスの楽園 2) (2010/06/23) → |