○ デリックはよく、眠っている臨也のもとに近づいてくる。 もともと臨也は眠りが浅い傾向がある上に、人の気配には敏感だ。だから知っていた。さすがに寝室に入ってくることはないが、書斎やリビングで寝入っていると、いつもふらりと寄ってくる。 その日もそうだった。前日遅くまで情報収集に明け暮れていたせいか、正午を過ぎたあたりから眠気が襲ってきた。一度PCをスリープモードにして、デスクに突っ伏する。ほどなく、浅い眠りに落ちて行った。うつらうつらと、夢を見る。だがそれも長くはない。人が近づいてくる気配があったからだ。 馴染みの深い、独特の煙草の匂い。また、デリックが来たのか。夢うつつの状態で、そんなことを思う。デリックは、静かに近づいてきて、臨也の髪に軽く触れた。 「……」 吐息が聞こえた。あるいは、何かを小さく呟いたようにも思う。うまく聞き取れない。そのまま離れていこうとする気配に、臨也はふと手を伸ばした。デリックの腕を掴む。 「…起きてたのか」 「寝てたよ。夢を見てた」 「夢?」 「そう。この世で一番厭わしくて、会いたい奴の夢」 そうしてふと呼ばれた気がして目を開けたら、デリックがいた。嘘ではない。デリックは顔を俯けた。いつの間にか、日が落ちかけているらしい。書斎は夕暮れの色に染まっていて、俯いたデリックの顔は影が濃くてよく見えない。 「7年もずっと寝てたんだろ? その間に夢なんて一生分見たんじゃねえのか」 「どうかな? 夢どころじゃなかった気がするよ」 ゆっくりと体を起こし、伸びをする。まだ少し、頭が重い。頭を軽く振ってから、臨也はデリックに顔を向けた。夕日の差し込む書斎の中で、デリックの顔が少し滲んで見える。 「…君は? 君も夢を見るかい?」 「俺は……」 デリックは静かに臨也の顔を見た。かちりと視線が合う。デリックは思わず、というように臨也の方に腕を伸ばし、しかし臨也に触れる前にそれを留めた。それから、ほんのわずかに苦笑する気配がある。 「そうだな。…悲しい夢ばっか見てたよ」 7年間、ずっとな。と彼は言った。 ○ 数日経つと、しっかりと食事と睡眠をとるようになったためか、体調はすこぶるよくなった。顧客の評判を落とさないうちにと情報屋の稼業も再開し、それなりに軌道に乗ってきた。そうすると、いつまでも屋内で燻っているわけにもいかなくなる。PCで情報を入手、あるいはそれを操作するだけでは、情報屋の仕事は立ち行かない。 情報収集のための活動それ自体も、うまく手足として動いてくれる部下がいない今では臨也自身が動かなければならないこともあるだろうが、それ以上に、たとえ情報はPC上で入手できたとしても、商売品である情報の受け渡しに公共の場所を指定するクライアントは少なくはない。 電子データで相手の端末に送れば済むと思われがちだが、電子データというのはその痕跡をなかなか完全には消しきれないという意外にやっかいな性質をもつ。紙のデータにして、抹消する必要性が生じたならば燃やしてしまうという昔なじみの単純な方法が、一番確実なのだ。 というような事情から、情報は目立たない場所で紙媒体のものを直接手渡してくれ、という要望はあとを絶たない。 「…T公園、ねえ」 その依頼もその類のものだ。情報の受け取り場所は新宿区の有名な公園のベンチ。正直なところ、多少怪しい依頼ではあった。クライアントの欲する情報の入手難易度は、5段階評価にすれば下から2番目程度だろうか。臨也にとってみれば決して難しい仕事ではない。もう一つ、臨也は厄介な情報収集に手を焼いていたが、そっちの片手間でできたほどだ。 依頼主の身分等は明かされていないが、臨也に依頼してくる人間が自身の出自を隠したがることは珍しくはない。だが、隠しようのないきな臭さを感じてはいた。 情報はやはりさしたる苦労もなく入手できたが、さて何の波風もなく受け渡しが終わるだろうか。まあ、無理だろうな。 そんなことを考えながらリビングに戻り、食器を洗っていたデリックに「ちょっと出かけてくるよ」と声を掛ける。すると、普段なら「ああ」と答えるだけの彼は、何故か水道の水を止めてハンドタオルで手を拭いた。 「俺も行く」 「は? いいよ、別に。仕事だから、ついてこられても困る」 「…なんか嫌な予感すんだよ」 適当に後ろにいるから気にするな、とデリックは言う。勘のいい男だ。しかしそうは言っても、長身と金髪、なぜかいつも着ている白いスーツで、目立つなという方が無理だ。それでも頑固についてくると言い張る彼に、臨也は諦めのため息を吐いた。 「じゃあ、知り合いだってことがばれないようにして」 「ああ」 池袋界隈では、平和島静雄の伝説はまだ消え去ってはいない。とっくに死んだか島替えしたかしてもういないが、かつて怪物のようなバーテン服の男がいた。そんな話は、今でも池袋ではまことしやかに囁かれている。だが、静雄の容姿を覚えている者は限られているだろうし、何よりクライアントの指定場所は池袋ではなく新宿の公園だ。遠巻きについてくる分には、まああまり、問題はないだろう。 そう思っていたのが、間違いだった。そう気づいたのは、突如抱きついてきた彼が、苦痛の声を漏らした瞬間だった。 「……っ、てぇな!」 痛みを訴えたのは一瞬で、すぐにデリックはその背後にいた男に肘鉄を食らわせた。鈍い音がして、男の体が吹っ飛び、随分離れたところにある青々とした植込みに突っ込んだ。 「…デリック!」 突如抱き込まれたことで、驚きのあまり思わず動きを止めてしまった。だが、すぐに何があったか悟る。デリックの傷の様子を確認しようとするが、デリックは「いいから、そっち!」とベンチ側に視線を投げた。ベンチには、臨也の取引相手がいたはずだ。 だが、デリックという闖入者によって、恐らく計画的だったであろう臨也を害するという目的が達せず、さらに公園で憩っていた一般市民も騒ぎ始めたことで、完全に失敗したと気付いたのだろう。取引相手だったスーツ姿の男は、さっさと逃げ出していた。 「あの野郎!」 デリックはその男を追おうとしたらしい。だが臨也はその腕を掴んで止めた。 「いいよ、デリック。どうせ素性は分かってる」 依頼が怪しいと踏んだときから、クライアントについてはひそかに調べていた。素性を調べていると、臨也が7年前に関わった組織に行き当った。恐らく臨也を恨み、車で撥ねるという行動に出た組織だ。臨也が復帰しても、何か仕掛けるほどの余裕はないだろうと踏んでいたのだが、どうやら残党が数人残っていたらしい。 「じゃあアイツ、しめるか」 植込みに上半身を突っ込んだ状態の男の方に、指をパキパキと小気味よく鳴らしながら近づこうとするデリックを、臨也は止めた。 「いい。…下手に人が集まる前に、戻ろう。傷は?」 「ん? 大して刺さってねえよ」 それでも一応確認しようとすると、サイレンが聞こえ始めた。遠巻きに騒動を見守っていた誰かが通報したのかもしれない。交番はそれほど遠くはない。通報すれば、かなり短時間で駆け込んでくるはずだ。臨也は鋭く舌打ちをして、デリックの腕を掴んで走り出した。 「お、おい?」 「人目につきにくいルートで帰ろう。こっち」 「…ああ」 広大な公園は、深みを増した緑が美しい。こんなところを二人で手を取り合って走り抜けるとは、考えてみればだいぶおかしな話だ。誰にも尾行されていないことを確認しながら路地裏に入り込み、そこで一旦止まって二人で荒くなった息を整えた。 「…このくらいで、息が切れるなんて、運動不足なんじゃない」 「アンタこそ、いい年して、全力疾走すんなよオッサン」 「俺は永遠の21歳だから」 「うわ、うぜえ」 そんなことを言い合っていたが、ふとサイレンの音が近くなったことに気付く。思わずデリックと顔を見合わせた。 「しばらくここで落ち着くのを待った方がいいかな…」 「ダメだ」 「は?」 臨也の独り言に近い提案を即座に却下したデリックは、顔を上げて薄汚れたビルの合間から空を見た。つられて臨也も空を見上げると、重い雲が新宿の薄汚れた街を覆っている。 「雨降りそうだろ? 洗濯物とり込んでねぇんだよ」 だから急いで帰りたいのだ、と訴えている。臨也は頭を抱えた。どこの主婦だ。 だがこっちの苦悩など無視して、デリックはサイレンが遠くなったのを確認するとすぐに臨也の腕を取り、さっさと路地裏から抜け出した。その瞬間を待っていたかのように、ぽつ、と頬に冷たい滴が当たった。初夏の夕時の常で、すぐにそれは激しさを増していく。 「…ほら見ろ!」 「だったら家で待っていればよかっただろ! 大体、なんで――」 ついてきて、庇ったりしたんだ。そんな言葉を言いかけて、飲み込む。 実際のところ、臨也は今回のクライアントが恐らく何かを仕掛けてくるだろうことは分かっていた。知っていて敢えて取引に応じて、うまく立ち回って更なる情報を引き出そうと思っていたのだ。 公園内ならば7年前のように車で襲ってくる危険性もない。生身の人間が相手なら、臨也はよほどのことがない限り負けない。現に、クライアントに資料を渡した瞬間に後ろから迫ってきた影に、臨也は気付いていた。恐らく最初から二人組で、一人が臨也と取引をして気を引く間に、後ろからもう一人がナイフで臨也を害するというような作戦だったのだろう。臨也がそれに気づき、応戦しようと懐のフォールディングナイフの柄を握った瞬間に、かなり離れた位置でそれとなくこちらの様子を窺っていたはずのデリックに抱き込まれたのだ。 ふとその時の感触がよみがえって、臨也は強さを増していく雨の中で立ち止まった。あの時の彼は、まるで、ひどく大切なものを必死に守るようなしぐさをしていた。 「…おい?」 「なんでもないよ」 唐突に足を止めた臨也を怪訝そうに見たデリックに首を振って見せて、臨也はデリックの腕を再び握った。「早く帰ろう」と言うと、デリックは不思議そうな顔をしながらもうなずく。頬を、冷たい雨が叩く。臨也はそれを感じながら笑った。きっと客観的に見れば、それはひどく、歪んだ笑い方になっていただろう。 ○ マンションの部屋に戻ると、急いで洗濯物をとり込もうとするデリックに「いいから傷、見せて」と促す。デリックは多少逡巡した雰囲気を見せたが、やがて静かにシャツに手を掛けた。薄暗い部屋に、白い背が晒される。 「刺さってねえって言ってるだろ」 「うん、そうみたいだね」 肩甲骨の下あたりにわずかな切り傷が見えるが、すでに血も止まっている。襲ってきた男のナイフはデリックの皮膚は傷つけられたが、その下には届かなかったのだろう。 臨也はその背に触れて、傷を確認した。その指先の感触に驚いたのか、デリックが軽く背を撓らせる。 「おい、くすぐってえ」 抗議の声を無視して、その背をゆるく抱きしめる。雨に打たれたためか、気怠く冷えた肌だった。体を寄せて首筋に唇を寄せると、デリックは体を強張らせた。その反応に苦笑する。 「ねえ、デリック。新羅から聞いているかい?」 「…何を」 「俺と平和島静雄の関係だよ。キスも、セックスもする関係だった」 それは新羅も知っていたことだ。歪んだ執着がもたらしたおかしな関係だった。あるいは、確かに恋慕も愛情もそこにあったのだと、今ならば言える。 デリックは重く沈黙した。 「………」 「知ってたのかな? じゃあ新羅も知らないことを教えてあげよう。俺はこっぴどく、シズちゃんを振ったよ」 穏やかに二人で過ごす時間も、確かにあった。7年前のあの頃、そんな時間が増えていたのを、臨也は知っている。本気で殺し合いを繰り広げて、まるで喧嘩の延長のようなセックスをして、それでも心地よい時間が、確かにあったのだ。そんな時に、静雄の身体に刻まれたタイムリミットが浮き彫りになった。 あの頃の怒りとも虚しさとも焦りとも知れない感情は、今でも胸のうちに確かに残っている。間もなく平和島静雄は消えるのだというその事実に対して、臨也はあまりに無力だった。ただ、すべてを受け入れるように穏やかな顔をする静雄が許せなかった。置いていくくせに、という怒りが理不尽なものであったかどうか、今でもそれは分からない。ただ、ひどく傷つけたかった。 『君がさっさと死んでくれるみたいで嬉しいよ』 もう顔を見ることはないだろう。じゃあね。 そんなことを告げて、振り返ることもせずに静雄の病室を去った。その後まもなく臨也は事故に遭っているので、それが静雄を見た最後ということになる。あの時静雄がどんな顔をしていたのか、それは分からない。けれど、静雄は臨也を憎んだはずだ。確かに二人で共有していたはずの穏やかな時間をすべて否定して、臨也は逃げ出したのだ。 雨の音が少し遠ざかる。これも夏の夕立の常で、激しく降ればそう時間を要さずに雨足は弱くなる。それにさえ消えそうな声で、臨也は囁くように言葉を綴った。 「君は無条件に俺に優しいけれど」 「…んなことねえよ」 「あるよ。現に体を張って俺を庇った」 「あれは…」 思わず体が動いただけだとデリックは言った。反論になっていない、と臨也は苦笑する。 「シズちゃんは俺を憎んでいたはずだよ。シズちゃんのいない世界に俺はひとりで残された。これはアイツの復讐なんだ。だからデリック、君が俺に優しくする必要はないんだよ。君はもう、新羅のところに戻ればいい」 この閉ざされた世界で苦しんでのたうつのが罰なのだ。そう言うと、デリックは背中を強張らせたままぽつりと言葉を零した。 「…俺は、平和島静雄じゃねえ」 「うん」 「だから、お前の罰とか、知らねえよ。…ここにいる」 その声は少し震えているように感じた。だが確かに、彼はここにいる、と言ったのだ。新羅のところには戻らず、ここにいる、と。 「いいの? 多分俺は、君をシズちゃんの代わりのように見てしまうけれど」 「それでも、いいぜ。そばにいる」 「ずっと?」 「ああ」 遠ざかりつつあった雨音が、とうとう途絶える。それを感じながら、臨也はデリックの首に額を寄せた。 彼は、愚かだ。静寂の落ちた部屋で、臨也は暗く笑った。そんな笑みを張り付かせていないと、どうしてだか涙が出そうになってしまう。ああ、彼は、愚かだ。 (クローズド・ワールド 5) (2011/07/07) → |