クローズド・ワールド3 | ナノ





土鍋から、雑炊を白い碗によそう指先が手馴れていた。
白米を長葱と鶏肉と味噌で味付けた、香りのよい雑炊である。木の匙の添えられたそれは、がらんどうの胃に強く訴えかけてくるものがあった。

「じゃあ、僕はこれで。明日あたり、必要なものを持ってくるよ」
「食べていかねえのか?」
「うん。セルティと食べるからいいよ」
デリックが淹れたコーヒーを飲み終えると、新羅は早々に席を立った。
すでに、デリックが臨也のもとにいることについては、話を終えている。ここに来る前にある程度の話し合いは済んでいたのだろう。新羅が「デリック、今日からしばらく臨也のところで働いてくれる?」と尋ねると、デリックは「ああ」と軽く頷いただけだった。新羅はその後、「またね、二人とも」と軽く手を上げてさっさと部屋を後にしてしまった。
デリックは淡々と碗に雑炊をよそい、臨也の前に差し出す。しかも、「熱いから、気をつけろよ」なんて気遣いの言葉つきだった。調子が狂う。
匙を手に取って雑炊を掬う。適度にダシと絡んだ味噌の味が、口内に広がった。デリックは特に感想を求めてはいないらしく、しばらく黙って臨也がそれをもそもそと食べるのを見守ってから、キッチンの片づけを始めた。どうやら、一緒に食べる気はないらしい。考えてみれば、昼食にはかなり遅いが夕食にはまだ早い時間なので、臨也とは違い胃が空いていないのかもしれない。
一通り片づけを終えたらしいデリックは、さっさと窓際に移動して、家主の許可もなく煙草を取り出して火をつけた。一応、窓ガラスを少し開けてはいるようだが、雨の音とともに独特の苦い煙がかすかに漂ってくる。臨也は思わず動きを止めた。知っている匂いだった。日本で広く出回っている煙草とは異なる、化学添加物の混じっていない、煙草本来の匂い。
デリックが何の銘柄を吸っているのか、喫煙者ではない臨也には正確には分からない。だがこの煙草の匂いは、以前彼が吸っていたそれと同じか、あるいはそれととてもよく似ているものだ。臨也は木匙を持ったまま、知らずその姿を目で追った。
煙を吐き出す口元。金の髪が、窓から入ってくる湿った風に少し揺れている。まっすぐな背中。記憶の中にある彼そのものだ。はっとした表情で見つめる臨也の視線に気付いたのか、デリックはふと臨也を振り返った。
「…臨也?」
何か用か、というように臨也の名を呼ぶ。その声とその姿に、嫌が応にもバーテン姿の男を連想させた。
ノミ蟲、と不名誉な綽名で勝手に臨也を呼んでいたあの男も、時折は、臨也の名を口にすることがあった。大抵は「いーざーやー君よぉ」とか「いぃぃぃぃざあぁぁやぁぁぁ!」とかそんな、どちらかと言えば怒声寄りの呼び方だが。だが時折は、まるでなんでもないことみたいに、何気なく「臨也」と呼ぶ時もあった。あれで結構気まぐれな男で、臨也と殺し合いをしていなくて機嫌のいいごく稀な時間には、あの男はそう呼んだ。そんな時は大抵、穏やかな声音だった。それこそまるで愛しい人間の名前を口ずさんでいるのかと錯覚しそうなほどに。無添加の煙草を唇から離して、煙を吐いてから、「おい、臨也」、と。
「臨也」
煙草を指先に摘まみながら、男がそう呼ぶ。光に透ける金髪も、強い眼光も何一つ、あの男のものと違いはない。それでも、ここにいるのは求めている人間とは、違うのだ。
「…ぶな」
「は?」
「呼ぶな」
「おい、臨也?」
「呼ぶな!」
不審げに煙草をもみ消して近づいてきたデリックの胸ぐらをつかみ、その体を壁に思いきり押し付ける。「うわ、」と軽く声を上げて衝撃に目を細めるが、やはり常人よりもはるかに頑丈にできているらしい。それなりに勢いよく背中を壁に打ち付けたはずだが、痛がるそぶりはなかった。そして反撃を加える気もないらしい。どうすればいいのか分からない、というような顔で臨也を見ていた。
至近距離のために、デリックが少し前まで吸っていた煙草の匂いを身近に感じる。それに、かすかに開いた窓から入ってくる、雨に打たれて濡れたアスファルトの匂いが混じっていて、なんだか酷く悲しくなって喉の奥が痛む。
「…呼ぶなよ…」
絞り出すような声は、掠れていた。
ずるずると、デリックの胸ぐらを掴んだままで床に座り込む。されるがままに床にぺたりと腰を下ろすはめになったデリックは、軽くため息をついてから、するりと臨也の頬に手を伸ばした。ほんの軽く頬を撫で、すぐに臨也の目元を手のひらで覆う。
「…眠いんだろ。もう寝ちまえよ」
「眠くなんて」
ない。そう言ってデリックの手を振り払おうとしたが、強い力で抱き込まれ、言葉を失った。あたたかな肌を衣服越しに感じる。
無言になると、雨音が聞こえてきた。そういえば、夜にかけてかなり降るとテレビの女性キャスターが告げていた。そんなことをふと思い出しながら瞼を伏せる。見知った体温と煙草の匂いに縋るように彼の身体に身を寄せて、臨也はゆっくりと思考を放棄した。




眩しいな、と思いながら目を開く。まだ明瞭ではない意識で、ぼんやりと見知った天井を仰いだ。寝室のそれとは異なる、優しいアイボリーの天井と、体の下のあまり快適ではないクッションの感触に、今いるのがリビングであることを悟る。久しぶりに熟睡したためか、まだ脳が活性化していないし体が怠くて起き上る気がしない。そのままの姿勢でまた瞼を伏せると、人の声が聞こえた。言葉を綴っているわけではなく、ハミングで単純な音階をなぞっている。適度に低くて、聞き覚えのある声だった。
覚えのある旋律に、臨也は動きの遅い頭をなんとか回転させて曲名を思い出す。柔らかで、ちょっとだけ寂しげな旋律。すぐに行き当った。スキータ・デイビスの"The end of the world"だ。もう半世紀も前に流行ったカントリー風のゆっくりとした曲である。
彼に別れを告げられたから世界が終わったはずなのに、どうして日常は何も変わらず続いているのか。そんな内容の歌だったと記憶している。
身を起こして、リビングを見渡す。白いスーツに金髪の男が、大きく縁どられた窓を拭いていた。どうやら一晩明けて、もうすっかり日ものぼりきったような時間であるらしい。
「…デリック」
呼んでも返答はない。よく目を凝らすと、彼はヘッドフォンを装着して何か音楽を聴いているようだ。それに合わせてハミングしていたらしい。歌詞は英語なので、しっかりと歌えないのかもしれない。デリックの知能は知らないが、オリジナルがあの平和島静雄ならありそうな話だ。
寝かされていたソファから起き上り、縦に長い体を動かしながら窓を拭いているデリックのもとに近づく。窓ガラスに映った光景からそれに気付いたらしい彼が、はっと振り返ってばつの悪そうな顔をした。
「あ、わり」
ヘッドフォンを外しながら、うるさかったか、と尋ねてくる。少しの沈黙を置いて臨也が首を横に振ると、ほっと安堵の表情を浮かべた。憎悪がわくほどに見知った顔の、そんな表情を見るのは初めてで、臨也は軽く動きを止める。彼は臨也にそんな表情を向けることは、ついぞなかった。
また思考を飛ばす臨也に構わず、デリックは手にしていた雑巾をおろし、キッチンの方に向かう。
「朝食は作ってある。温めてやるから食えよ」
指さされたテーブルの上には、確かにパンやらスープ皿やらが布巾をかぶっている。デリックは軽やかな足取りで鍋の置かれたコンロに火を入れた。
臨也がぼんやりと椅子を引き、自分の席に落ち着くと、ポタージュのいい匂いが漂ってくる。
リビングとダイニングは、大きく縁どられた窓から入り込む日差しのせいで、きらきらと明るい。どうやら昨日降っていた雨は、とうに上がったようだった。そんなことに気付かず、ずっと眠り続けていたらしい。明るい日差しの中で、皿にスープを汲むデリックの金髪が光に透けて見えた。
「……」
穏やかに降り注ぐ日差しの中で、彼がハミングしていた曲がふと過る。
恋人に愛されなくなった自分と、それでも変わらない日常を対比させて切なさを間接的に訴えているので、失恋の曲として知られているThe end of the worldだが、実は愛する人間を亡くしたときの心情を書いた詞だと後にスキータは零している。
"朝に目覚めて、私は驚く。どうして何もかもが以前と変わっていないのか。どうやって変わらない生活を送ればいいのか、分からない。" そんな歌詞があった。
いい匂いのするダイニングで天井を仰ぎ、臨也は思わず自嘲した。この曲は、なんて今の自分にぴったりなのだろう。




食事を終えてシャワーを浴びてから書斎に入ると、ふらふらとデリックがついてきた。
「…何か用?」
「なんかすることねーか?」
やることがなくて暇らしい。新羅は簡単な雑用をさせればいいと言っていたが、それほど簡単な雑用もない。少し考えて臨也は、デスクの隅に置かれているUSBスティックが数十個入ったプラスティックの箱をデリックの前に置いた。
「じゃあこれ、会社別にして年月順に並べて」
「あ? なんだこれ」
「各社の新聞」
意識を失っていた数年間に発行された新聞のオンラインデータのうち、ざっと目を通した分である。すべてダウンロードしたので、情報量は膨大だった。
「すげえ量だな」
「まあ、7年分だからね」
「あー…」
スティックにはすべて新聞社と年月を記したシールを貼っている。そう難しい作業ではないはずだと思ったが、デリックはそのシールに目を落として、思い切り眉をしかめた。「外国のもあんじゃねーか…」と苦々しくつぶやいている。確かに、主要先進国の主だった新聞社の記事は集めている。シールの表記も各国語だ。多少苦戦するだろうが、文字の並びから同じ会社のものを揃えるくらいはできるだろう、と考え、臨也は自身の仕事に戻ることにする。だが、そんな臨也にデリックが適当にUSBスティックを取り出しながら「なあ」と声をかけてきた。
「聞いていいか」
「…何?」
「なんで、意識を失くしてたんだ?」
まっすぐな瞳で問いかけられる。臨也は苦笑した。もっとも根本的で、もっともばかばかしい疑問だと思ったのだ。
「新羅から聞いてないの?」
「車に轢かれたらしい、ってのは新羅から聞いてるけど。その…アンタがなんでそんなハメに陥ったのかはわかんねえ、って」
アンタ、という呼び方に違和感を覚える。昨日、臨也が名前を呼ぶなと言ったことを真に受けているのだろう。臨也はまた苦笑した。
「ちょっとした抗争に巻き込まれてね。油断してたんだよ」
権力抗争に負けて弱体化が進んでいた反社会的組織を徹底的に潰す情報を、他の組織に流していた。それを恨んだ構成員の犯行だろう。臨也はその後意識を失っていたので知らないが、7年の空白を経てから調べてみると、事件直後にはその組織は結局見事に壊滅したようだった。
臨也を撥ねた実行犯は知らないが、命令を下したと思しき上層部はその大半が霧散している。構成員の生死は定かではないが、臨也が情報屋稼業を再開してもまったく音沙汰もないあたりを見ると、いずれ臨也に再び何かを仕掛けるような余裕はないのだろう。臨也が本気で調べれば行方も分かるだろうが、報復してやろうという気にはならずに放置している。
「…ふうん」
いまひとつ納得できないような顔をして、デリックは臨也を見た。そんな顔をされても、と臨也は肩を竦める。あれは本当に、それだけの事件だった。臨也が油断しただけのことだ。
しばらく不自然な沈黙が続いたが、デリックはふっと顔を逸らして、窓へと視線を投じた。相変わらず、今日は昨日の雨が嘘のようによく晴れている。その眩しさにか、彼は軽く目を細めた。ごく当たり前の、それでいて穏やかな表情だ。
7年前のあの頃。自身の体調の変化を受け止めた平和島静雄も、よくそんな顔をしていた。
ああ、そうだ。ふとその日の記憶がよみがえる。雨の夜だった。耳を塞ぎたくなるような耳障りなエンジン音が響いて、強烈なヘッドライトの明かりに思わず片目を閉ざした。ブレーキをかけることをせずに、突進してくる車は、あまりの速度で影しか捉えられない。
ああ、そうだ。ゆっくりと思い出す。臨也はあのとき、静雄の顔を思い浮かべていた。そうしてこう考えた。これで、置き去りにされることはない、と。そんな馬鹿なことを、そんなときに、他愛もなく。


(クローズド・ワールド 3)
(2011/06/17)







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