クローズド・ワールド2 | ナノ




じりじりと少しずつ、睡眠時間が減ってきている。浅い眠りを繰り返して、寝ても覚めても常に夢を見ているような気分になる。そんな状態が長く続くと、さすがに仕事にも支障をきたしてきた。
臨也が意識を失っていた間に研究職に就いていた元秘書をヘッドハンティングしたばかりだったが、あまり仕事に精を出せる状態ではなくなったため、その秘書にもしばらくの休暇を申し渡した。絶対の趣味だったはずの人間観察にも力が入らず、臨也は昼日中からぼんやりとソファにもたれた。
目を閉じると浮かぶ現実を遠のかせるような浅い夢には、いつも同じ姿が出てくる。今自分が眠りたいのか、眠りたくないのか、臨也には分からなかった。

何をするでもなく、リモコンでテレビの電源を入れる。寝不足のために体の重い臨也などにお構いなしに、画面の中では軽快な口調で若い女性のキャスターが午後からの天気を知らせていた。
『現在こちら渋谷では重い曇り空が広がっておりますが、午後になると小雨がぱらつき始め、夕方には1時間に5ミリ程度の強い雨となるでしょう。これから外出される方は、傘の用意をお忘れなく』
そんな言葉でどうやら天気予報は終わったらしい。テレビ画面は切り替わり、電化製品のCMが流れ始めた。だがチャンネルを変えようとしたその瞬間に、臨也はびくりと動きを止める。
それなりに大きな画面では、アスファルトと無表情に忙しなく行き過ぎる群衆の中で、風に髪を遊ばせながらひとりの青年がふと立ち止まっていた。その端正な顔立ちはどこか物憂げで、つまらなそうな瞳をしている。だが、はっと思い立ったように彼は、己の着ているジャケットのポケットから、春先の美しい新緑のような鮮やかな色合いの携帯型音楽プレイヤーを取り出し、それに付随していたイヤホンを無造作に耳に装着した。それから指先で軽く、プレイヤーに触れた。
途端に、それまで流れていた都会の雑踏が消え、クリアな音質で男性ボーカルの洋楽が流れ出す。耳に残るアップテンポの曲調に、画面内の青年は憂いのある顔を一転させ、ふっと口元を綻ばせた。
それを見て、臨也は知らず、ソファから腰を浮かせていた。己の手を、その青年の方に伸ばす。
彼の、そんな顔は見たことがない。ああ、けれど。
「…ズ、ちゃ…」
呼びかけた瞬間に、青年は軽い足取りで群衆をすり抜けていく。あっという間に画面に映るのは彼のすらりとした後ろ姿だけになった。それが、軽快な音楽だけを残して都会のアスファルトにまぎれた瞬間に、青年が手にしていた携帯プレーヤーと商標が画面にアップに映される。それを見て、臨也ははっと我に返った。
なんということはない、わずか30秒ほどのCMだ。映っていたのは、当然、臨也が名前を呼んだ彼ではなく、その弟である。以前から、面立ちだけならそれなりに似ている兄弟だとは思っていたが、臨也が知っている彼より頬のラインが鋭くなり、中性的な雰囲気が薄くなったせいだろうか。彼は、在りし日のその兄の姿に、よく似ていた。
だが、それだけのはずだ、と臨也は思う。今映っていた羽島幽平は、髪も金髪ではないし、兄ほどの長身ではない。それなのに、臨也は彼の姿を、静雄だと思った。そんなはずはないのに。
否定する臨也の意思に反して、脳が勝手に映像を作り変えて再生する。雑踏の中に立ち止まる、金髪の青年。臨也の脳内で彼は、口元を緩ませて、柔らかに微笑む。だがすぐに過ぎ去って、後ろ姿になってしまう彼に、臨也はまた手を伸ばした。
勝手に作り出した幻が、指先にとどまるはずもない。虚しく空を切った指先を、臨也はぎゅっと握りしめた。
「…会い、たい」
言葉にしてしまえば、たったそれだけだ。だがそれだけで充分だった。目の奥が熱く、痛くなってくる。空を切った指先で強く目を抑え、臨也は込み上げてくる嗚咽を殺した。





午後から雨、というキャスターの予報は見事当たっていた。あの後ぽつぽつと降り始めた雨は、やがて大降りになり、やむ気配を見せない。マンションから一歩外に出ると、さらさらと冷たい雨が頬を濡らした。その感触に一度目を細めてから足を進めると、ふと傘を差した人影がこちらにやってくることに気付いた。
「こんな天気なのに、そんな恰好でどこに行くんだい?」
自分こそどこにいても、どんな天候の時でも変わらない白衣姿の闇医者である。
「ちょっと気分転換に、近くを散歩にね」
「ここから池袋までの距離を近くと表現するのは無理があるよ」
「……池袋に行くなんて、俺は一言も言ってない」
苦し紛れに反論するが、新羅は肩をすくめて受け流した。
「セルティが、池袋をまるで幽鬼のごとく歩く君を何度も見ているよ。…少し痩せたね。きちんと食べているかい?」
「…何の用なの?」
いい加減、内心のあまり窺えない新羅との会話に嫌気がさして直接的な言葉で尋ねた。新羅は一歩臨也に近づいて、己の上にあった傘を臨也の方に傾ける。
「君が不眠症気味だって君の秘書から聞いた。睡眠導入剤を手配してきたよ」
「いらない」
「臨也。睡眠の必要性は君もよく理解しているだろう? ゆっくり眠ったほうがいいよ」
眠って彼の夢を見て、そしてまた彼のいない世界に目覚めるのはもう懲り懲りなのだ。そう思いながら重く沈黙する臨也に一つため息を吐いてから、新羅は懐から携帯電話を取り出して、臨也を目の前にしながら誰かに電話をかける。
「ああ、セルティかい? 近くにいるかな? …やっぱり、配達を頼むよ」
恋人に向ける優しく甘ったるい声音は、何年も前と少しも変わらない。直後、雨の午後に不思議に馴染む爽快なエンジン音が聞こえ、見知った黒の影が新羅のすぐ近くで止まった。
臨也が目覚めてから、遠巻きにその姿を見たことはあったものの、実際に対面するのは7年ぶりとなる。時間の流れが人間とは異なる種族なので当然だが、生ける都市伝説のボディラインに月日の流れは感じなかった。
「配達って、…!」
問いかけて、臨也は動きを止める。セルティのバイクの後ろから、細長い影が軽快に降りたからだ。派手な白いスーツを着込んでいる。フルフェイスのヘルメットを被っているため顔は見えないが、その長身と均整のとれた体格に、臨也は嫌というほど覚えがあった。
硬直した臨也の前で、派手なスーツの男は、うっとうしいとでも言いたげに、ひどくぞんざいな仕草でヘルメットを外す。その様を、臨也は言葉を忘れてただ茫然と見ていた。
黒いヘルメットの下からあらわれた金の髪が、雨の降る薄暗い午後の中で、まぶしいほどに鮮やかだった。





米を煮込むいい匂いが漂っている。食欲などなかったが、空洞になっていた胃を刺激する匂いであることは間違いがない。そんな甘くも優しい匂いが漂う空間で、臨也と新羅は向き合っていた。
「…随分と悪趣味な冗談じゃないかい?」
「まあ僕も、あまり趣味がいいとは思ってないけれど」
のんびりと苦笑する新羅に、臨也は思わず舌打ちを零す。ダイニングへと続く扉は閉めているのに、軽快に包丁で何かを刻む音がかすかに聞こえていた。


雨の中、ヘルメットを脱いで現れた男の顔は、嫌になるほどよく知っているものだった。もっとも忌まわしく、それでいてもっとも会いたかった存在。男は、臨也の記憶にある平和島静雄とまったく同じ顔をしていた。絶句して立ち尽くす臨也に、新羅は常と変わらない声で、「雨もひどくなってきたし、とりあえず部屋に入れてくれないかい?」と提案したのだ。
運び屋はどうやら他にも仕事を抱えていたらしい。何か言いたげに、中身のないヘルメットを臨也と新羅の方に向けていたが、やがて二言三言PDAに書きそれを新羅に見せ、バイクから降りた長身の男に名残惜しげに視線を投げてから、臨也と意思の疎通をはかることなく去っていった。それを軽く手を振りながら見送った後、新羅は所在無げに立っていた長身の影を、こう呼んだ。
「デリック、おいで。臨也の部屋に上げてもらおう」
「……ああ」
忌々しいことに、声も記憶にあるそれと変わらない。デリックと呼ばれた男は、雨に金の髪を打たせながら、ゆっくりと臨也の方に歩いてくる。金の髪の下にある切れ長の瞳が、かちりと臨也を捉えた。大した気概もなさそうな様子なのに、それでも生命力にあふれた瞳をしている。思わず手を伸ばしそうになって、臨也はようやくそれを留めた。
部屋に上がった新羅は、デリックと呼ぶその相手に、「何かお腹に優しい食べ物を作ってくれる?」と頼んだ。デリックは何か言いたげな顔をしたが、やがて小さく一つ頷くと、キッチンに向かった。
勝手なことをするな、と言いたかったが、新羅に問い詰めたいことがあったので、臨也はしぶしぶと最近ろくに使っていないキッチンを明け渡し、自分と新羅は書斎へと向かったのだ。


「…それで、アレは何なの」
目線を、今は料理に興じているらしい男がいる部屋へと続く扉へ投げかけながら尋ねると、新羅は苦笑を引きこめた。話が本筋に入って、新羅が身にまとう空気が冷たくなる。新羅は眼鏡のフレームを一度指先で押し上げてから、抑揚なく、それでいてゆっくりと語り始めた。
「静雄の細胞分裂が限界に達していた7年前、ネブラがその治療に乗り出していたのは知っているよね?」
「治療? あれは人外の研究だろ」
「まあ、それについては私も否定しない。結局ネブラは静雄を救えなかったしね。ネブラは静雄の体細胞を採取して、培養していた。人外の力を持っていた生物の研究だったのか、良心を信じて治療行為の一環だったのか、それとも両方だったのかは分からないけれど」
人間の細胞分裂には限りがある。静雄のからだは、傷を修復し、筋力を強めるために異常な細胞分裂を繰り返し、7年前に限界を迎えた。臨也が知る最後の静雄は、ベッドに寝かされ一日の大半を寝て過ごしているような状態だった。
「ネブラは静雄の死後に、残された静雄の体細胞を使って、筋力の強化された人間を作った。つまり、静雄の遺伝子同位体だ」
「…クローン」
「そうとも言えるね」
「馬鹿馬鹿しい。平和島静雄の死後に作られたクローンなら、今は7つかそこらのはずだろ」
デリックと呼ばれていたあの男は、臨也の記憶にあるそのままの平和島静雄の姿をしていた。つまり、二十代半ばにならない程度の姿だ。
「ネブラは独自に、受精卵を使わない動物のクローン作製方法を開発済みだったのさ。そしてネブラは研究のため、体の進化がある程度まで進んだ年齢に設定した。それから、クローンの欠点であるテロメアの短さを補うために、成長のための細胞分裂の回数を極力減らした」
結果生み出されたクローン体は、設定された当初の年齢のまま、ほとんど成長することなく過ごしているのだという。
「そんな突拍子もない話を信じろっていうわけ?」
「信じる信じないは君の自由だよ。24歳のころの姿のまま、死んだ静雄の姿かたちをした男が、今隣の部屋で料理に勤しんでいる驚天動地の現状をもっとうまく説明できるなら、それでいい」
少し考えを巡らせれば、それはいくらでも可能な気がした。たとえば整形だとか。実際に目の前の闇医者が眉一つ動かさずにやってのけているのだ、ネブラも不可能なはずがない。だが臨也は、その考えを否定する。同じような背格好の男を見つけ出し、静雄そっくりに整形する利点が、ネブラにあるとは思えない。それに、あの声。あれはまさしく、平和島静雄の声だった。
「…あいつが持っていた膂力は、受け継がれたの?」
「おおよそね。やらせたことはないけれど、おそらく電柱を引き倒すくらいなら片手でできるんじゃないかな。ただ、静雄よりも幾分、抑制が可能みたいだよ」
それならなおさら、知らない誰かの整形という説は薄くなる。
「デリック、って呼んでたよね」
「ネブラの研究チームで呼んでいた彼のコードネームが、Psychedelic Dreamsだったんだ。だから、デリック」
デリックの生体・細胞に関する研究は一通り終えて、社会に適応させるための実験に入っているらしい。そこで、ネブラにつながりがあり、かつオリジナルの事情をよく知っている新羅が一時的に預かっていたのだという。
だがそろそろ、他の環境へ移した方がいいのではないか、という話が持ち上がっていた。
「僕もセルティも表には出ない専門職だから、デリックを社会に適合させるにはあまり向いていなくてね。でも、突然社会に投げ出しても、デリックはうまくやってはいけないだろ。どこか、デリックの事情を知っていて、それでいて簡単な雑用を請負わせられるところを探していた」
「…俺は、あんなのを押し付けられるのはごめんだよ」
話を流れを読んで先にそう言ったちょうどそのとき、こんこん、よりも少し強めの、ごん、というようなノックの音が聞こえた。乱雑なたたき方だ。
「おい、メシできたぜ?」
扉越しにそんな声を掛けられる。いつの間にか、米を炊く甘い匂いが、味噌の匂いと混じっていた。
「もう少ししたら行くよ。そうだデリック、僕と臨也の分のコーヒーを淹れておいてくれないかい?」
「分かった」
素直にそう答えて、気配がドアから離れていく。それを確認してから、新羅はまた臨也に視線を戻した。
「あれで結構料理も上手だし、…まあセルティにはちょっと及ばないかな。掃除も好きだし、意外にいいと思うけど」
「なんで俺が、あいつの顔と一緒に過ごさなきゃいけないんだよ」
「臨也。睡眠導入剤を手配してきたって言っただろ? クローンは姿かたちが似ている他人のようなものだけれど、恐らくデリックは、君の精神に何らかの影響を与えると思うんだ」
少なくとも、静雄の姿を求めて池袋をふらふらと歩き回ることはなくなるだろう、と訴えたいらしい。デリックの行く先も決まり、臨也の精神も落ち着けば、まさに一石二鳥、というところなのだろう。
「…俺が断ったら、あいつはどうなるの?」
「んー、まあこれは、無理強いしてもしかたないことだからね。ネブラに戻すことになるかな。そこでまた新しい居場所を斡旋してもらうことになるんじゃない? でも本当はあんまりネブラには戻したくないんだよね。ネブラ内ではせっかく筋力の発達した人間を作り出したんだから戦闘にこそ使うべきだって人間も多くいるみたいで」
セルティもそれには反対するだろうし、と新羅は続けた。臨也は天井を仰ぐ。
あたりには、味噌の匂いに混じって、炒られたコーヒー豆の芳しい匂いも漂ってくる。臨也の知る平和島静雄は、コーヒーの淹れ方なんて知らなかった。あれは、静雄ではない。
それでも、憎しみ、焦がれた男と同じ、強い瞳をしていた。臨也の前を通り過ぎていったあの幻と同じ姿。あの幻を、指先に留めることができるなら。

一度瞼を伏せてから、臨也は新羅を強く見据えた。


(クローズド・ワールド 2)
(2011/05/27)







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