クローズド・ワールド | ナノ



※いろいろと異色の、三十路臨也とデリックのシリアス長編です。
※死にネタを匂わす表現があります。苦手な方は全力で回避してください。
※医学というか科学全般に関する知識はゼロなため、そのあたりの突っ込みどころ満載です。


柔らかで優しい、それでいて寂しい声に呼ばれるように、すうっと意識が浮かんだ。
白い、白い壁に囲まれた狭くも広くもない正方形の部屋で瞼を開ける。壁の白さがいっそ目に痛いほどだ。その眩しさに何度か瞬きをして、白い天井を眺めた。どこもかしこも白いこの部屋は、なんだか諦めを煽ってくる。じわじわと湧き上がってくる感情は、絶望的な色をしていた。
「ああ…本当に、起きたんだね」
掛けられた声に、臨也はぼんやりと視線を動かす。白い壁を背景に、白衣の男が立っていた。黒い縁の奥に重く煌めく黒の双眼に、見覚えがあるように思う。正確には、臨也の知っている人間に、とてもよく似ている。
「多分、僕は今君が、似ていると思い浮かべた人物そのものだよ」
「………」
臨也はゆっくりと唇を開いた。思考を読まれたことに対する文句を言いたかったし、そんなはずはないと抵抗したかった。それなのに、喉がひどく乾いていてうまく声が出ない。
「言葉を話したいなら、ゆっくりでいいよ。ちなみにまだ起き上らない方がいい。…ねえ臨也。会いたかったよ」
「………」
臨也の知っているあの闇医者ならば、そんな言葉をこんなに真摯な瞳で口にしたりはしない。けれどなぜか、その言葉はすとんと胸の中に落ちて、臨也は彼が、中学時代からの友人であることを認めた。見知った姿より、明らかに数年、年を重ねてはいたけれど。
まだ少し眠るかい? という男の問いかけに、臨也はふるりと首を横に振った。すると男は、臨也の知る彼の話し方よりずっとゆっくりとした口調で、穏やかにこう言った。7年後の未来へようこそ、と。
臨也はぐったりと力が入らず重い腕を持ち上げて、手のひらで瞼を覆う。

白い世界から遮断されて、それでもじわりじわりと、諦念が浮かんできてやまなかった。


「君はやっぱり、見かけによらず丈夫だね。血圧心拍数脳波その他異常なし。この分なら、そう時間を置かずにリハビリに移行できそうだ」
少し眠って目が覚めたら、見知らぬ人間が数人部屋に入ってきて、やれ採血だ検査だと慌ただしかった。それが一通り終わって一息ついたころに、するりと音もなく、この白衣の男がやってきたのだ。
「とりあえず、食事はまだ固形物は控えようか。少しずつ、様子を見よう。何か質問はあるかい?」
「…新羅」
臨也はゆっくりと口を開き、彼の名を呼んだ。臨也にとってその名は、なじみ深い名前のはずだ。だが呼んだ声は酷く掠れていた。なに? というように視線を向ける男に、臨也は唾を飲みこんで、ずっと脳裏に浮かんでいた彼のことを、尋ねた。
「…シズちゃん、は?」
新羅の名を口にした時よりもずっと、ざらざらに掠れた声だった。ようやく言葉を聞き取れる程度の、ひどい声だ。それを笑いもせずに新羅は、すっと一度瞼を伏せてから、漆黒の瞳で臨也を見つめた。
「臨也。君の記憶に障害がないかどうかまで、今の僕にはわからない。君の持つ7年前の記憶にある最後の静雄はどんな姿だった?」
その言葉に促されて、臨也はゆっくりと記憶を巡らせる。長身に金髪のあの男は、バーテン服を着ていた。だがそれは最後の姿ではない。臨也の記憶にある最後の彼は、ちょうどこの部屋のような真っ白の空間の、白いベッドに寝かされていた。かすかに上下する胸元だけが、彼が生きていることを教えてくれている。
浮かんだ記憶の情景に眉を顰めた臨也の肩に、宥めるように手を掛けて、新羅は静かな口調で先を続けた。
「君の記憶に欠陥がないと仮定するなら、君の知っている静雄の状態は、その後好転したりはしなかった」
抑揚に欠ける新羅の声を聞きながら、臨也は己の胸の、憎々しいほど奥深くに刻まれた姿を思い浮かべる。ぱさついた金髪。日焼けにあまり縁のない白い頬が、陶器のようだった。あと幾日、命を留めていられるか分からない、体だった。
「君が意識不明に陥って数日後、静雄は死んだよ」
その声をラジオから流れてくる遠い世界の出来事のことのようにぼんやりと聞き、臨也は瞼を閉じる。

目覚めてしまったその瞬間に、臨也はどこかで気付いていた。7年の空白を超えたその先の未来。諦めを誘うどこまでも白い世界。
ここは、平和島静雄のいない世界だ。




7年間という年月が長いか短いかについては議論の余地があるところだが、少なくともこの期間に、ずっと危ぶまれてきた我が国の経済が破たんすることも、政治体制が大きく変容することもなかったらしい。臨也の資産は変わらず貯蓄されていたし、臨也の家族も、それぞれ7年という年月を刻みながらも無事に生活しており、臨也の意識が回復したことに涙を流して喜んだ。
リハビリで日常生活に支障が出ない程度まで肉体を回復させてから退院した臨也は、以前使っていたものとは異なる物件を探し、住居兼オフィスとした。7年間という年月は、情報を生活の糧とする、という観点から見れば、気が遠くなるほど長い年月だ。情報は日々、刻一刻と形を変える。この7年間の情報を吸収することは、ずっと動かなかった体に以前と同様の筋力をつけさせることよりもはるかに時間が掛かる。
臨也は居を構えてしばらくの間、オフィスに引きこもって7年間のブランクを埋めるべく、情報の収集に努めた。


「たった数週でまた情報屋を始められるまで情報を習得するなんてさすが臨也。剛毅果断だねえ」
嫌味でもなんでもなく、新羅がしみじみと呟いた。
情報屋などという商売は当然信用が得られなければ成り立たない。どんな理由であれ、長期間情報から離れていた人間は、情報屋としては廃れていくほか道はないのだ。だが、折原臨也というブランドは、そんな常識をものともしなかった。得意先だった反社会的勢力に復帰したと連絡を入れると、そう時間を置かずして依頼も入った。
「うん、特に問題はないみたいだ。君の方で、何か体の違和感とかはあるかい?」
退院後一か月を経て行った一通りの検査の結果に満足げに頷き、そう臨也に問いかけてくる新羅の顔を、臨也は無言で見返した。ストレスとあまり縁のない生活をしているためか、新羅の顔は三十路に突入した男にしては若々しく、表情はどこか幼い。だが、20代前半の頃よりもさらにシャープになった頬のラインや目元に、数年分の年月が表れていた。
同じことは、いつも鏡を覗くたびにそこに映し出される自身の顔にも言えた。7年も意識を失ったままベッドの住人になっていたのだから、その分痩せていたし筋力も衰えている。数年間の空白を経てみる自分の顔は、やはり年月を経たものになっていた。
「違和感? それはあるよ」
「…まあ、そうだろうけどね」
「体は問題ない。…たまに鏡に映った自分の顔に驚くことはあるけれど、そのうち慣れると思う。体重も筋力も順調に戻ってきているよ。仕事も問題ないし、九瑠璃と舞流はいくつになっても呆れた中二病だ」
「彼女たちも、君にだけは言われたくないだろうと思うけれど」
「俺もさっそく人間観察も再開したよ」
人間は何年の空白を経ても相変わらず愛すべき存在だ。くだらなくて愚かしくて美しくて滑稽で愛おしい。新宿にも池袋にも、相変わらず臨也の愛する人間たちが集っている。
臨也はリビングの窓に目を投じた。池袋では珍しい、閑静な立地のこの闇医者の住まいだが、やはり窓を開けていると都会らしい喧騒が入ってくる。遠い、車のクラクション。ざわめき。子供の声。臨也が愛を注ぐ人間たちが奏でる音が、このリビングにも聞こえてくる。
「…でも、新羅。凄い違和感があるんだ。池袋は7年経っても、ほとんど変わりはない。ろくでもない連中がそこかしこで渦を巻いていて、サイモンは胡散臭い日本語で寿司屋のキャッチをやってる。サンシャイン通りは統一性のない若者でごった返していて、耳を塞ぎたくなるほどうるさいよ。ねえ、でも」
つらつらと湧き上がってくる言葉をよどみなく口にして、しかし臨也はそこで唐突に言葉を切った。開け放たれた窓から入ってくる柔らかな風が、臨也の頬を撫でた。都会の雑音が、ひどく遠い。
意識を取り戻し、退院してから臨也はすぐに、池袋の街中を歩き回った。何度も、何度も。気付けば池袋を歩いているような状態だった。目的なんてないはずだ、と思っていた。だが、気が付けばいつも同じ影を探しているのだ。
「ねえ、新羅。違和感が消えないんだ。この街のどこを探しても、あいつがいない」
池袋の街中でも目に付く長身に、金の髪。細い肢体に忌々しい膂力を秘めたバーテン服の男の姿を、臨也は気付けば探していた。だが、どんなに池袋を歩いても、自動販売機やごみ箱が宙を舞う光景には巡り会えない。
「…臨也」
諭すようにやわらかく名前を呼ぶ新羅の声に、臨也は瞼を伏せた。臨也も理解はしているのだ、平和島静雄がもう7年も前に世界から消えていることなど。だが、臨也は今でも、窓から入ってくるかすかな池袋の街の喧騒の中に、彼の声を探している。
「あいつがいない世界は、ちょっと静かすぎて困るよ。耳鳴りがする」
「まだ、慣れそうにないかい?」
「…そうだね、しばらくはね。俺がどれだけあいつを憎んで忌み嫌ってきたか、新羅は知ってるだろ? 早く死んでほしくて、いろんなことをしてきたよ。その中には新羅、君が知っていることも、知らないこともある。目障りで仕方がなかったんだ」
喉をついて出てくる臨也の独白を、新羅はいつも通り、心情の窺えない表情で聞いていた。言葉を返さない新羅に肩をすくめて、臨也は言葉を続けた。
「でも、ふと目覚めたら7年後で、とっくの昔にあいつは死んでるらしい。ねえ新羅、あいつのいない、このやけに静かな世界にひとりで投げ出されて、俺はどうやって生きていけばいい?」
問いかけても、新羅はやはり無言だった。
臨也自身も、自分が柄にもなく非論理的で感情的な話をしていると自覚している。それでも、じわじわと湧いてくる苦い思いを、胸の内にとどめる術を持たなかったのだ。

「…こんな酷い復讐はないよね。単細胞のくせに、あいつは本当に思い通りにならない」

ぽつりと、落ちるような呟きになった。まるで泣き出しそうな子供だと臨也は自嘲する。
恨まれていることも憎まれていることも、知っていた。その復讐がこれだとしたら、それはあまりに有効で、あまりに残酷だった。
やわらかなそよ風が、頬を撫でる。臨也は沈黙の落ちた部屋で、また彼の声を探す。そんな臨也の様子を、新羅は無言でただじっと見ていた。


(クローズド・ワールド)
(2011/05/17)








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