ラブアフェア | ナノ


暖かくなってきたためか、どこか浮き立っている池袋の人の群れの間を縫って歩く。都会だから星は見えないが、代わりに半月が見える。鼻歌でも歌いたくなるような穏やかな春の夜だ。
という臨也の愉快な気分は、残念ながら長く続かなかった。通りがかった公園のベンチに、金髪にバーテン服を纏った、よく知る男の姿を見る。それがどうやら、一人ではない。隣りに、ドレッドヘアの男が座っている。
臨也は楽しげにはずんでいた足取りを無意識のうちに止めて、そのふたりの姿を見ていた。月光と街灯に照らされたベンチにいるふたりは、時々笑みさえ零れていて、遠目にも楽しそうに見える。バーテン服の男が、あんな風に明け透けな笑顔を浮かべることは、あまりない。あんな、まるでただの人間みたいな顔を、臨也以外の人間にさらすなんて。それまでの浮き足立った気分が急速に萎み、苛立ちが湧いてくるのを感じた。


*       *

彼はいつだってどこかつまらなそうだったり、そうでないときは不愉快そうだったり、そんな表情ばかり浮かべていた。初めてその姿を見たのは、もう7年ほど前だ。

「ああ、ホラ。あれが平和島さんのとこの…」
「まあ、こんな時間に…」
公園の入り口でこそこそと、近所の主婦と思しきふたり組みが話しているのを聞いた臨也は、ひょいっと公園を覗き込んだ。
かすかな音を立てて小雨が降り出した、まだ寒い春の日だったと記憶している。傘を差すほどでもない、だが長時間打たれれば体が冷えてしまいそうな小雨の中で、彼はベンチに腰を下ろしてぼんやりと立ち並ぶ遊具を見ていた。
平和島静雄という彼の名は、実際にその姿を見る以前から耳にしていた。臨也はその当時小学生だったが、幼い臨也の耳にもその名が残る程度には、その界隈では有名な存在だった。喧嘩に明け暮れる凶悪な不良、それが彼に対する近隣の住人のおおよその見解だ。
だから臨也が、初めて彼の姿を見たときは、いっそ落胆したものだ。初めて見た彼は、髪を染めていたし目つきも鋭かったが、制服の上から見てもまだ少年らしさを過分に残した長身痩躯の体つきで、それは人並みを外れたものには見えなかった。薄暗い空から落ちる粒が金の髪を濡らして、彼はどこかしら寂しげにさえ見えた。
あのときあの男に近づいたのは、幼い臨也の単なる好奇心だった。今でも臨也はそう思っている。
「こんな時間に、何してるの」
彼にかけた第一声は、大してドラマティックでも何でもない、そんな言葉だった。ランドセルを背負った少年に唐突に声を掛けられたことに驚いたのだろう。彼は目を見開いて、臨也を見た。さらさらと軽く、冷たい雨が、彼の肌理の細かい頬をぬらしているのが見えた。
「…うっせえな」
「高校生ってまだ学校じゃないの?」
すぐに視線を外した彼に、それでも言葉をかけ続ける。臨也は新学期が始まったばかりで短縮授業だったが、高校生が帰宅するには早い時間だったのだ。彼は顔を背けたまま、ぼそっとひとこと、言葉を綴った。
「…校舎のガラス割っちまって、もう帰れって言われたんだ」
校内で事件を起こしたため、そのまま学校に置くこともできずに処分が出るまで家での謹慎を申し渡されたのだろう。よく見ると、頬に殴られたような痕があった。乱闘の末の出来事なのかもしれない。
意外につまらないな。それが臨也の抱いた感想だった。悪鬼のごとき不良のような言われ方をしているくせに、ただの少年のような容姿もつまらない。何より、学校から追い返されたというそれだけで、こんなところでちょっと落ち込んだ風情で時を過ごす彼の内面がつまらない。
興味を失い、彼に背を向けた、そのときだ。「おい」と小さく呼び止められた。
「…何?」
「手前、傘は?」
「ないよ。夕方まで晴れ、って予報だったから」
「…なら、これ使えよ」
そう言って彼は、ベンチに投げ出されていた鞄を漁り、面白みもない黒い折り畳み傘を放り投げて寄越した。
「別にいいよ、近いから」
返そうとするが、静雄は受け取ろうとしない。さっさと立ち上がり、立ち去ろうとする。「ねえ、」と呼びかけると、意外に人懐こくも見える焦げ茶の瞳が、彼の腰くらいまでしかない臨也を見下ろす。そして臨也の髪に、ほんの軽く、手を乗せた。
「ガキが濡れたら、風邪引くだろ」
「………」
何それ。そう言おうとしたが、静雄がそこで初めて少しだけ口元を緩めたので、思わず言葉を見失う。笑いかけたつもりなのだろうが、濡れて重みを増した金髪が頬に張り付いて、どことなく寂しげな笑みだった。
そのまま彼は、別れの言葉もなく、さっさと足早に公園を去って行った。臨也はただ睨みつけるように、細かな雨に少しだけ煙る中で遠くなるその青のブレザーを見送っていた。


別に、会いたいわけではない。けれど、傘は返さなくては。そう思いながら、臨也は常に傘を持ち歩いて静雄と出会った公園を常にうろつくようになった。静雄と再会したのは、それから一ヶ月ほど経った頃だ。
相変わらず面白くなさそうに公園のベンチに座る金髪で着崩したブレザー姿の高校生を発見し、臨也は彼のもとに駆け寄った。どうやら静雄は臨也の顔を覚えていたらしい。とことこと目の前に駆け足でやってきた臨也を見て、静雄は目を丸くした。
「はいこれ、返す。そんなボロい傘、いらないからね」
「手前、あのときの…」
「手前じゃないよ。折原臨也」
「はあ?」
「頭悪そうだけど、このくらい覚えておいてよね」
「…てめ…っ」
あからさまな挑発に、ぐっと拳を固めた静雄だが、さすがに腰を屈めなければ目線が合わないような子供を殴る気にはなれなかったらしい。逡巡しながら拳を下ろし、気を落ち着かせるように深い溜め息をついた。
「まあ、いい。ほら、傘返せ」
「……」
そのときの静雄の顔には、ありありと“面倒なガキにはもう関わりたくない”という気持ちが書かれていて、臨也はなんとなく面白くなくなった。ほら、と差し出された手を無視して、もう一度折り畳み傘を抱き込む。
「やっぱり気が変わった。しばらく借りておくね」
「はあ!? いらねえっつってただろ!」
「気が変わったんだって。また会ったときにでも返すよ。多分ね」
ぴきりとこめかみに血筋を浮かべた静雄の瞳の中に、臨也が映っている。それに満足して、臨也はくるりと背を向けてさっさと歩き出した。「あ、おい!」という言葉が追いかけてきたが、無視して歩き出す。スキップでもしたいような、楽しい気分だった。


それから何度も、臨也はその公園で静雄に会った。静雄は臨也を見かけるたびに眦を吊り上げて追いかけてくる。ひとまわり以上に年が離れている子供を相手するには余りに大人気ない対応だった。
「てめ、臨也ぁぁぁ! 今日こそ傘返せ!」
「ええ? どうしよっかなあ」
臨也は身のこなしが軽いし、静雄は年下の子供に怪我をさせるつもりはないらしく、本気で拳を振り上げたりはしない。結果、その馬鹿らしい鬼ごっこは何年にもわたった。静雄の姿が、見慣れたブレザー姿から変わっても、ずっと。
正直なところ、なんの特徴もない、新しくもない折り畳み傘に、静雄がそれほど固執する理由があるとも思えない。それ以上に、臨也にとってもそれは何か価値のあるものではないはずだった。それでも、それを静雄に返すことも、途中で捨てることもしなかった。
その理由を深く考えることなどしなかった。人間の領域を外れた膂力を有する静雄が、年の離れた自分を、眦を吊り上げて追いかけてくる様が面白かったから。そんなところだと思っていた。


静雄がブレザーを脱ぎ、臨也がランドセルを背中から下ろしてからも続いたその鬼ごっこに変化が見られるようになったのは、臨也が中学に入って着始めた、ぱりっとした若々しい学ランもだいぶ身に馴染んできた頃だ。
静雄は高校を卒業後すぐに家を出て、すぐに首になるアルバイトを繰り返しながら糊口を凌いでいたようだが、とうとう定職に付くことになったのだという。
「…バーテン?」
「ああ」
「…シズちゃんを雇ってくれるなんて、よっぽど潰れたいのかな、そのバーは」
「あ!?」
そんな会話を繰り広げたのは、相変わらずのあの公園だった。相変わらず、彼は臨也の姿を見ると大人気なく追いかけてくる。しばらく追いかけっこを繰り広げ、疲れたのでどちらともなくベンチに座り込んだときだった。ここの公園には、しばらく来れないと静雄がぽつりと零したのだ。
ここからは少し距離のある西口方面のバーで、午後から深夜にかけての仕事に入ることになったから、もう日のある時間にここには来れないのだと言う。
「そもそもシズちゃん、お酒飲めたっけ」
「それなりにな」
「嘘ばっかり。だってシズちゃんブラックコーヒーも飲めないじゃない。どうせビールも飲めないんでしょ」
「……とりあえず、その呼び方やめろって何回も言ってんだろ」
ビールを飲めないという指摘に否定はしない。どうやら本当にビールは飲めないらしい。下戸のバーテンダーもいるだろうが、極度に短気な静雄に客商売が長くつとまるとも思えない。どうせいつものように、すぐにやめることにだろう。そう思って臨也は、胸の中に燻ぶるわだかまりを抑えようとした。
ここで会えないのも、恐らく短い間だけの話だ。そう自分に言い聞かせて、そしてそんな自分に驚く。別に会いたいわけではない。そんな言い訳が、少しずつ通用しなくなっていた。
臨也の困惑をよそに、静雄は胸ポケットから煙草を取り出して火をつけている。天下無敵の不良と近所であだ名されていた割りに、意外に生真面目な静雄が煙草を吸い始めたのは、二十歳を過ぎてからのことだった。最初の頃は吸いなれない様子だったが、今では煙草の煙を吐き出すのも妙に様になっている。だが臨也にとっては、その煙草の煙は未だに馴染まない。苦いばかりのものだった。


長くは続かないという臨也の思惑に外れて、バーテンという職業は意外に彼の性に合ったらしい。静雄は既に何年も、バーテンとしての職務を全うしていた。臨也が学校を終えて帰ってくる時間は、静雄はもう基本的に仕事中であり、静雄の言葉通りあの公園で会うことはなくなった。もうあのベンチに、金髪の男の姿を見ることはない。
その代わりに臨也は、学校で時間を潰し、辺りがすっかり暗くなってから西口に近い公園に行くようになった。静雄が、いつもその時間帯にその公園で休憩時間を過ごしていることを知っていたからだ。
「ガキがこんなとこうろつくなよ」
西口は歓楽街に近い。そこを、制服姿でうろつく臨也の姿はかなり浮いていた。静雄も、そんな臨也にいい顔はしなかったが、それでも結局臨也を邪険に扱うことはしなかった。

*         *


静雄が、いつも休憩時間を過ごしているこの公園で、誰かと一緒にいるのを見るのは初めてだった。しかもあんな、笑顔を見せるなんて。
少しその様子を見てから、それでも意を決してベンチに近づこうとすると、ちょうど静雄の横にいたドレッドヘアの男がベンチを立った。じゃあな、というように片手を上げ、静雄から離れていく。公園の入り口付近にいた臨也と、その男がすれ違った。途端に香る、アルコールと、苦い煙草の匂いに顔を顰める。
「…臨也?」
「…やあ」
男を笑顔で見送っていた静雄が、ようやく臨也に気付いたようだ。あの男といたときの柔らかな表情を、苦々しいものに変化させる。
「こんな時間にうろつくなっつってんだろ」
「…それよりさ、今の人誰?」
「トムさんか? 中学の先輩だ」
最近、この辺りで再会したのだという。このあたたかな春の夜に相応しく静雄が上機嫌な理由は、彼に会ったからなのだろうか。中学の頃、静雄はどんな生徒だったのだろう。
臨也は静雄の中学時代のことを知らない。出会ったときに彼は既に高校生だったし、いずれ年が離れすぎていて同じ学校に通うことはなかった。苛立ちが湧いてきて、思わず眉根を寄せる。
臨也がまだ制服に身を包んでいる今、いつの間にか静雄は慣れた仕草で煙草を吸うようになった。ブレザー姿でも、気軽なジーンズ姿でもない、きっちりとしたバーテン服を身に着けている。何も考えずに公園で追いかけっこをしていたときには気付かなかった。7つの年の差とは、そういうことなのだ。
「おい、どうした?」
急に黙り込んだ臨也に、静雄が不思議そうに声を掛けてくる。覗き込むように寄せられた静雄の体から、苦い煙草の匂いがした。あのドレッドヘアの男と同じだ。静雄もあの男も口にする、それなのに臨也が知らない味。
「…ねえ、あの傘のこと、覚えてる?」
口内が苦くて、うまく言葉が出てこない。出てきたのはそんな、突拍子もないことだった。
「あ? お前がパクってるあれか? そろそろ返せよ」
最近はあの古びた傘に関する攻防もなかった。それでも静雄は覚えていたらしい。
「…返さないよ。絶対返さない」
「おい、臨也。手前マジでどうしたんだ」
暗い地面を睨みつけるように下を向く臨也に、静雄が心配げな声を掛けて来る。その声には答えずに、臨也は俯き続けた。
臨也と静雄の間に横たわる年の差は、7つ。大した年の差ではないと言えなくもないが、接点の少ない年齢差ではある。今となって臨也と静雄を結ぶのは、もう古びてきたあの折り畳み傘ひとつだけだ。
「…シズちゃんと同じ年に、なりたいよ」
俯いたまま臨也は、ぽつりとそう零す。思いのほか、苦々しい呟きになった。
詮無いわがままだ。月日は誰にも平等に訪れ、去っていく。臨也と静雄の年の差が縮まることなど永遠にない。
静雄が困惑した様子で、また一歩臨也に近づいてくる。もうすっかり彼に馴染んでしまった煙草の匂いが、目にしみた。


(ラブアフェア)
(2011/04/12)






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