※イザシズベースですが、前半は正臣と臨也がひたすら会話してます。 ※後半、イザシズでほんのわずかに性描写がありますので、義務教育中の方は閲覧しないでください。 夕焼けの照らす世界は酷く寂しい。街のいたるところから生える影が伸びて、どこまでも伸びて、いつか地球を覆ってしまうのではないか、なんて幼い妄執を掻き立てられる。 こんな夕暮れ時は、沙樹といたい、と正臣は思った。沙樹の柔らかで滑らかかな手の肌の感触を思い出す。 あの手を握って、子猫同士がそうするように身を摺り寄せ合わせていれば、どこまでも長く伸びていく影も落ちてくる闇も怖くないのに。 そんな詮無いことを考えながら、ため息を吐き、正臣は洒落たエントランスに入った。 「失礼しますよ、と」 一応声を掛けると、この部屋の主はだだっ広い書斎の奥の窓際に立っていた。都会の乾いた風が、頬を冷やす。 「やあ、久しぶりだね」 「…できれば俺は、もうしばらく、できれば永遠に会いたくなかったですけど」 「あっはは、相変わらずきついね正臣君は」 正臣が何を言っても傷ついたりするはずがないくせに。正臣はさっさと己に課された仕事を全うしようと、書類を渡すために足を進めた。 リビングと書斎が一体化した、腹が立つほどに整理された部屋。折原臨也という男は、自分の空間には自分が選んだ自分の好みに合う最上級のものしか置かない男だ。だが正臣はその日、違和感を感じてすぐに足を止めた。 臨也の好みなのか、臨也自身はたまにフレグランスなどを付けたりはしていたが、この空間は基本的に無臭だった。 だが今日は、わずかに漂う匂いを感じた。窓を開けているのに残っている、独特の甘みと苦みを加味したざらりとする煙の匂い。煙草だ。 「…また、静雄さん来てたんですか」 書類とデータの入ったSDを手渡しながら聞くと、臨也はさも不快げな顔をつくって見せた。 「おかげで随分と時間を潰されたよ。本当に迷惑だ」 毎回しっかりと迎え入れるくせに。胸の内で毒づきながら、正臣はデータを確認している臨也のわきに立った。贅沢にくり貫かれた窓の外に、夕暮れの暗い赤に染まっていく街が見える。 何とはなしに視線をずらし、正臣はぎくりと体をこわばらせた。薄闇の中で、PCを操作する臨也の、襟ぐりの少しあいた服の合間に見える首の付け根あたりが、赤く腫れてきている。よくある打撲の症状だ。よくよく観察していると、どうやら左腕も負傷しているようだ。キーボードを操作する動きに違和感を感じた。 腹立たしいことだが、臨也は武道についてもけして素人ではない。高校時代から静雄と犬猿の仲だったというだけはありそれなりに喧嘩慣れしているし、身のこなしも軽い。よほどの相手ではない限り、臨也に傷を負わせることは難しい。だから、相手など自ずと限られてくる。 この無臭の空間に残る、ざらりとした煙草の匂い。平和島静雄だ。 「…それ、湿布くらい貼っておいた方がいいですよ」 気にしてやる義理もないかと思ったが、完全に無視ができないのが正臣の長所でもあり短所でもある。 「大した怪我でもないんだけどね」 「腫れ、たぶん酷くなりますよ? 貼りにくいなら俺がやりましょうか」 「あはは、正臣君は優しいねえ」 放っておけない性分なだけだ。 じゃあせっかくだから、と渡された湿布を、多少乱雑に首元にべたりと貼ると、その刺激にか、臨也の背が軽く撓った。その顔が珍しく、痛みをあらわにしていて、正臣は驚く。 「あ、すんません」 思わず謝罪したが、その瞬間に、違和感が走る。湿布を貼った首の付け根が痛んだのではない。おそらく、正臣の左手が、湿布を貼った拍子に軽く臨也の背に触れたことが原因だ。だとすれば、手当てをすべきはこちらではなかったらしい。 「…背中もですか? 随分派手に喧嘩したみたいですね」 首の付け根に、おそらく左腕、更に背中を負傷するとあれば、相当のものだ。背中も手当てしますか、と聞くと、臨也は首を横に振った。 「こっちはいいよ。引っ掻き傷だからね」 「………」 その意味をしばし考えて、行き着いた答えに、深い溜め息を吐きたくなった。つまり、背中に腕を回して、爪を立てるような状況にあったわけだ。それは確かに、正臣としても治療をするのは遠慮したい。動きを止めた正臣の顔を覗き込んで、臨也はからかうように先を続けた。 「爪なんて立てて、アイツも結構可愛いところもあるよね」 「…同意しかねますけど」 「…でも、駄目だ」 臨也はそれまでの柔らかな口調を一転させ、吐き出すようにそう言った。底冷えするような響きだった。 「…何、が」 気おされながら聞き返すと、臨也は差し込む夕陽を背景に、部屋の一点を見つめている。その視線を追うと。灰皿があった。おそらく静雄が残したものと思われる、煙草の吸殻と灰が残っている。臨也はそれをじっと見ていた。 「猫がじゃれるみたいな態度は似合わないだろ、俺たちには。ちょっと最近、他のことに気を取られたりして何も仕掛けなかったから、俺が天敵だって忘れちゃったのかなあ。そろそろ、アイツを嵌める罠を仕掛けないと」 抑揚に欠ける声に、本気が透けている。この男なら、これからすぐにでも静雄を嵌めるための計画を実施するのだろう。正臣は、臨也の根幹部分に植えつけられている静雄への執着を知っていた。 抱き合って、じゃれ合うような行為は、自分達には似合わないのだとはっきりと言い切った。少しでも自分への態度を軟化させれば、この男はそのたびにこうして突き放してきたのだろう。 「…寂しくないですか」 思わずぽつりと聞いてしまい、後悔する。正臣は臨也の内面に踏み込む気もないし、それを臨也が許すとはまったく思えないからだ。 臨也は、正臣の言に唇を片方吊り上げて、皮肉な表情を作って見せた。 「他人から見たら憐れで滑稽でもね、俺はこれが唯一で絶対の方法だと思っているよ」 臨也は言い切って皮肉な笑いを深め、落日の景色を見た。夕陽はさらに色を濃くし、いままさに沈まんとしている。 しばらく沈黙が落ちる。臨也は沈む夕陽をじっと見ていたが、やがてふと口を開いた。 「俺が高校の頃ね、高校の校舎には化け物が棲んでいたんだけど」 「…は?」 「よく、校舎裏で派手な喧嘩を繰り返してね。いや、喧嘩という言葉はあそこまで圧倒的な力の差がある場合には使わないかな。あれはむしろ、一方的な補食に近い」 まあ、もともとは俺がけしかけた連中なんだけど、と臨也は鼻を鳴らして言った。唐突に何の話だ、と思ったが、どうも高校の頃の平和島静雄の話らしいと気づく。正臣は黙って続きを促した。 「…ある放課後、他校の生徒が数十人で喧嘩を売りに来てね。まあ、決着はすぐに着いたんだけど。俺が一応様子を見にいつもの校舎裏に行くと、数十人が倒れ伏す校舎裏の真ん中で、あの化け物はぼんやりと立っていたんだ」 情景が目に浮かんだ。静雄の人の域を越えた力のことはよく知っている。圧倒的な力で何十人もの人間を地に沈めた彼の金髪が、かすかな風に軽くはためく姿までも再現された。 「その日も見事な夕陽でね、空が暗い赤に燃えているようだった。あの化け物はね、己が叩き潰した人間たちの真ん中で、ただぼんやりと、夕陽に見入っているように見えたよ」 夕陽に照らされて影を伸ばしていく世界の中で立ち尽くす、金の髪。正臣の思い描いたそれは、寂しい光景だった。 「それを見たときに俺は思ったんだ。この化け物は、違う次元の生き物なんだってね。感覚を共通できないほどに」 「…俺にはよく、わからないです」 「同じ景色を映していても、獣と人では見え方が違う。獣と悲しみや喜びを分かち合えるかい?」 「………」 「ところが皮肉なもので、獣相手にも悪意や憎悪は伝わりやすい。行動を伴えば、特にね」 平和島静雄は、獣ではない。そう反論しようとして、しかし失敗する。正臣は静雄のことをそれほどよく知っているわけではない。ただ、池袋の雑然とした街並みを背景に、つまらなそうに煙草をふかす姿や、あるいは、顔に血の筋を浮かべて自動販売機を持ち上げている姿を、何度も見たことがある。彼にも彼なりの悲しみや喜びがあるはずだ。けれど、違う次元の生き物だという臨也の言葉を否定する気にはならなかった。 「己の存在を強く刻み付けたいなら、生半可な接触では駄目だ。他の感情は何一つ分かち合えないまま、ただ憎悪でアイツを突き動かして、太陽と月のような永劫の追いかけっこを続けさせるのさ」 うたうように言うその声は平淡で、それゆえに昏い熱を感じさせた。もうずっと、臨也の視線は正臣にはない。その目は、窓の外の落ちかけた夕陽を見ているのだ。その目線を追って、正臣も刻々と暗くなっていく空を見る。夕闇が滲んで、すぐ傍にまで暗がりを蔓延らせていた。 ああ、沙樹の顔を見たいな、と思う。あの子の手を、今すぐに握り締めたかった。 * * * * * 穏やかな一日が昼下がりをむかえ、日差しが和らぎ始めた頃に、静雄がこの部屋を訪れた。今日はどうやらオフの日だったらしい。そんな日は、たまにふらりと静雄は臨也のもとにくる。大抵は、殴りたくなったとか、殺したくなったとか、その程度のくだらない上に理不尽な理由だ。 本日も毎度のことながら、今まさにオートロックを壊さんとしていた静雄を止めて部屋に上げると、「臨也くんよお、殴らせろよ」と理不尽なことを楽しげに言いながら殴りかかってくる。幾度か打撃を交わせずに受けながらもそれに応戦して暫らく、書斎をあまり乱さない程度に体を動かしていたが、どういうわけか、顔が近づいた拍子に好戦的な顔にかかったサングラスを取り上げていた。黒いガラスを取り除くと、意外に大人しい色をした焦げ茶の瞳が覗く。臨戦態勢を解いて、今度はゆっくりと顔を近づけると、怒声も拒絶の声も上がらなかった。 慣れた、というほどではないが、静雄とはセックスはそれなりにしている。最中の静雄は余計なことは話さず、殺意も示さないので、臨也も特に何も話はしなかった。 「…ふ、う、あぁ…っ」 水音というには過度に粘着質な音が響いている。静雄はいつも声を抑えるが、一度達してしまうと箍が外れるらしい。臨也が既に繋がっている腰を早めにスライドさせると、それにあわせて、普段よりもかなり高めな声が零れた。この声は、悪くない。 そう思いながら、隘路の奥の、一番高い声をあげる箇所を何度も深く突く。 「っひ、あ、ア…!」 静雄は背筋を震わせながら、臨也の背に腕を回してきた。まわされた手が、仕返し、とばかりに、爪を立てる。鋭い痛みが走ったが、しかし静雄にしてみれば、猫が飼い主に甘える程度の力加減だったのだろう。臨也は気にせずに、撓る体の奥を抉った。 「爪、伸びてるんじゃない?」 目が冴えるほどに冷たい水を、乾いた喉に流し込んでから書斎に戻ると、静雄はソファの上で煙草を吸っていた。ざらりと絡みつく気だるい匂いが漂っている。ソファの黒地に映える白い背中に問いかけると、静雄はさすがに心当たりがあったらしい。まったく悪びれない声で、「痛むか?」と聞いてきた。 「結構ね」 「いい気味だな」 随分と楽しげな声だ。 「悪さできないように、俺が爪、切ってあげようか」 「手前に切らせるくらいなら、三歳児にでも頼んだほうが安心だな」 そんなことを言いながら、静雄が小さく手招きする。何事かと眉を顰めながら身を近づけると、まだ剥き出したった肩を捕まれた。抗いようのない力で向きを変えられ、静雄に背を向けるような態勢になる。次の瞬間に、背中に刺激が走った。 「…っ」 少し湿った感触と、息を飲む程度に走った痛み。すぐに、傷を舐められたのだと気付いた。 消毒、と静雄が言った。やわらかな声だった。 そのときの痛みと甘い疼きが、どれほど絶望的に響いたことか。 こみ上げる甘い感情を必死に押し込んで、臨也は、化け物に新たな憎悪を植えつかせるための算段に入らねばならなかった。 (この恋は沈む) (2011/02/11) |