いばらのエデン2 | ナノ


※主要人物の死にネタを含みます。苦手な方はリターンお願いします。


あの夜のことを新羅は今でもたまに夢に見るけれど、たとえ時を戻ってやり直せたとしても、おそらく何一つ過去を変えることはできなかっただろう。
少しずつ兆しが見えかかっていた、静かな夜のことだ。


新羅は、静雄に頼まれた薬を彼に渡していた。
「…さすがに、使えば死ぬよ」
本当は、渡すことに躊躇があった。手渡したのは毒薬だからだ。
少しずつ、平和島静雄の体調に異変が見え始めていた。膂力は変わっていない。けれど、治癒能力に衰えが見え始めている。疲れがあるからかもしれないが、いずれ決定的なダメージに繋がりかねない。
新羅が診察するまでもなく、静雄自身も気付いたいたのだろう。所望したのは、普通の治療薬ではなく毒薬だった。
手渡された劇薬を、大した気概もない様子で受け取ってから、静雄は苦笑する。
「ま、よっぽどのことがなきゃつかわねえよ」

それが真意だったのかどうか。静雄は嘘をつけない人間だから、真意であったのだと信じたい。




静雄は診察をしなくとも、よく新羅の邸宅に訪れた。目当ては新羅ではなく、新羅のパートナーであるセルティである。セルティは妖精の域だが、静雄とは馬が合うらしい。新羅が時々妬きたくなるほど仲良しだ。
その夜、尋ねてきた静雄は、いつもと変わらない様子だったが、セルティが自室に戻ると、新羅に「東の要塞が落ちた」と呟いた。あまりにいつもと変わらない調子だったので、新羅はうっかりと聞き流してしまうところだった。
「明日俺が行くが、奪還は難しいだろうな」
静雄がそんな言い回しをすることは珍しい。新羅は冷静に、そろそろ潮時だな、と思う。新羅は現実主義者だ。こんな落ちていくさだめの国に未練はない。民の多くも他国に流れているし、幸いこの国を攻めている国家は、戦意のないものに刃を向けることは騎士道に反すると主張している。
「取り戻せないって分かっていても行くのかい? 臨也もそこまで君に命じたりはしないだろ? もうこんな釜中之魚がごとく滅亡の迫った国で、唯一の戦力なんて君くらいなんだから」
「ノミ蟲の考えてることなんざ理解したくもねえが、あそこが落ちると王城も危ねえしな」
軍の中枢にいる殺人兵器と闇医者の、まさに国家の命運をも左右しかねない話でも、静雄は欠伸交じりに応じている。
「そろそろ君も臨也も、こんな国見捨てようよ。君達ならどこに行ってもやっていけるでしょ」
新羅が言うと、静雄はさすがに動きを止めて新羅を見つめ、ちょっとだけ苦笑した。
「…あー、新羅。お前はさっさとセルティつれて逃げろ。マジでシャレにならなくなる前に」
「言われなくてもそうするよ。って、君は逃げないのかい?」
「臨也がここにいるなら、俺は逃げねえよ」
些細な躊躇いもない言葉が返ってくる。
「……普段は犬猿の仲の癖に、なんなのその妙な信頼関係」
「そんなんじゃねーよ。俺は約束を守ってるだけだ」
「約束? 何それ」
「…さあな」
それ以上に聞いても、静雄は答えようとはしなかった。そういえば、以前臨也も静雄との間に「約束」があるのだと言っていたことがある。
「君と臨也の秘密ってやつ?」
「まあ、そんなとこだ」
「へえ」
「アイツほんとうぜえしノミ蟲だしうぜえけどよ」
「…君にとって臨也ってどれだけウザいんだい」
「事実ウゼえだろ。でもよお、あいつ結構泣き虫だからな」
ノミのくせに泣くんだよな、と言って静雄は笑った。いつも浮かべている不敵なものではなくて、屈託のない妙に幼い笑い方だった。言うだけ言って満足したのか、静雄はいつもの、やる気のそれほど感じられない足取りで新羅の邸宅をあとにした。
それが、生きて動いている静雄を見た最後だった。




すべての者に怖れられた平和島静雄の死は、あっけないものだった。
戦場で酷使しすぎたせいで、視覚が覚束なくなっていたところに、矢を打ち込まれたようだ。静雄の筋組織はそれを貫通させることはなかったが、矢尻はその肌に傷をつけた。毒矢だった。
毒が回って動けなくなったところで、平和島静雄は捕虜になった。矢の毒は、せいぜい静雄の自由を数時間奪った程度だっただろう。だから致命傷はそれではない。捕虜になった静雄は、体の自由が戻るとすぐに、隠し持っていた、新羅があの夜渡した毒薬を服毒したのだという。そういったときのために用意したものだったので、実に正しい使い方だった。

軍内で絶対の信頼を得ていた人間兵器は、自身の身柄を盾に軍部に投降を持ちかけるという手段を封じるために、名誉ある殉死を遂げた。その誇りの高さに敬意を表して、敵兵に対するには破格の待遇ではあるが、騎士道を重んじる敵国は静雄の遺体を慇懃に送り届けた。新羅が対面した静雄は、まるでただ眠っているがごとく、安らかな表情だった。新羅は、嘆いて肩を震わせるセルティの身体を支えながら、そのことに少しだけ安堵する。
臨也は、嘲笑も嘆きもない、ただの無表情で静雄の遺骸を見たあとで、すぐに踵を翻えした。

静雄は捕まったあと、逃走を防ぐために湖上の獄舎に入れられたという知らせは、実はこの国にも入ってきていた。だが臨也は兵を動かさず、結果、毒が切れて自由を取り戻した静雄は自ら致死量の毒を口にした。
折原臨也は、平和島静雄を見捨てたのだ。

「君はきっと」
セルティは嘆き疲れていた様子だったので、新羅の邸宅に帰した。石畳の祈祷のための空間には、新羅と、静寂を保って横たわる静雄しかいない。蜜蝋の灯りが柔らかく差し込んで、静雄の白い肌を照らしていた。
「君はきっと、臨也との約束を果たしたかっただろうね」
それがどんな約束なのか、結局聞きそびれてしまったけれど。
静謐な空間で、彼の痛んだ金髪を、梳いてやる。いまだかつてしたことのない動作だった。このときくらいは、この友人に優しく、できうる限り優しく接してやりたかった。静雄の投げ出された腕を取り、その冷たい指先をそっと撫でる。彼の手の平には、自身で爪を立てた後があった。悔しかっただろう。きっと。彼のもとに、帰れないことが。一度した約束を、簡単に手放したりするような男ではない。最後まで足掻いたにちがいない。
友人の手を祈りの形に組んで、新羅は永劫の別れを告げた。葬儀は明日執り行われるが、きっとこの姿を二度と見ることはないだろうと新羅は知っていた。
「もう、ゆっくりと、おやすみ。静雄」

次の日、新羅の憶測どおり、平和島静雄の遺骸は忽然と姿を消していた。深夜に生き返ったのだとか、彼の死を隠そうとする軍部統帥が秘密裏に葬ったのだとか、色々と噂は行き交ったが、すぐにそれもしずまった。戦渦が広まり、そんな余裕がなくなったのだ。




身捨つるほどの祖国ではない。だが新羅は、ぎりぎりまで首都を離れなかった。
国境付近の砦がすべて落ち、王城にさえ間もなく火の手が上がるだろう。多くのものは逃げ出した。王族の多くは亡命を図り、ことごとく失敗したとの報告が入っている。民は見逃しても、さすがに王族は見逃せなかったのだろう。
唯一残っている王族は、おそらくもう臨也だけだ。臨也だけが逃げ出さず、未だに王城に残っている。

人影のない王城は酷く静かで、いっそ穏やかな気配に包まれていた。新羅はその奥へと足を踏み入れて、奥庭へと続く渡り廊下でようやく目当ての人物を見つけた。彼はいつもと変わらず、内面を読みにくい表情で奥庭に足を踏み入れようとしていた。
「臨也。…今なら逃げ出せるよ。セルティも待ってる。一緒に行こう」
「…今更、俺にこの領土を捨てろっていうわけ?」
「そうだよ、臨也。こんな領地どうなろうと構わないだろ? 君にとってはこんな国、なんの価値もないはずだよ。君が執着してたのは、この国じゃなくて静雄だろ。…本当は、君が静雄を助けようとしていたことを、俺は知ってる。舟を用意していたこと、知ってたんだ」
あの冷たい湖の上に幽閉されていた静雄を助けるために、臨也は秘密裏に小船を用意していた。静雄を救うためには、兵を動かすよりも秘密裏に救助行動に出たほうが成功率が高い。臨也は静雄を助けたかったはずだ。おそらく、誰よりも。だが結局、間に合わなかった。
「静雄ももういない。こんな国にしがみつく理由はないだろ」
臨也。そう呼びかける声の帯びた切実さに、新羅自身が驚く。だが臨也は、沈黙したまま動く気配を見せない。ただじっと、奥庭を見つめている。その視線に、はっと胸をつかれた。いばらの中の長いすの上で安らぐふたりの姿が、胸を過ぎる。
ああ、あそこを守りたかったのか。そのために、ずっとこの国に固執していたのか。
そのことに、今更ながらに新羅は気付いた。
「…静雄の体は、あの奥かい?」
「…あいつの眠っている場所なんて、俺だけが知っていればいい」

臨也は、見たこともないくらい自然に、口の端をほころばせて、笑って見せた。
王城が他国の襲撃を待たずして火に包まれたのは、新羅がその場をあとにした直後のことだった。




小麦が焼ける香ばしい匂いに混じって、少しだけ塩辛い匂いがしている。セルティのパンが焼ける匂いだ。セルティは、隠し味に砂糖を入れているんだ、というけれど、焼きあがるパンはいつもちょびっと塩辛い。そのさらさらした白い調味料は、砂糖に似てるけど異なるものだって、言うべきかなって考えたこともあるけれど、結局僕は言わなかった。セルティの焼く、ちょっと塩辛いパンを、僕はこよなく愛しているからね。
さて、パンも焼けて、どうやらセルティの料理も完成したようだ。そろそろ、筆をおこうと思う。
とりとめもなく書いてきたこの長くはない文に、どれだけの情景を書き込めただろうか。この記録を、いつかセルティと一緒に読みたいと思うんだけれど、あまりの乱文が少し恥ずかしいかな。それでも、私の愛しい彼女は、乱雑な文を指摘することなどなく、過ぎ去った日々と、過ぎ去った友人達を想いその肩を震わせるのだろう。本当は今だって、失った友人や亡国を偲び指先を祈りの形に組むことが多いのだから。
彼女が悲しみに肩を震わせるのを見るのは忍びないから、私はそのときは、こうも告げようと思う。

セルティ。僕は今でも、時々思い描く情景があるんだ。目を細めたくなるほど鮮やかに。
緑の葉の合間から光が零れる庭を進んで行くと、どこからともなく薔薇の匂いが漂ってくる。それに誘われてふと絡み合ういばらの蔦の合間を覗き込むと、木漏れ日が降り注ぐ中、色の剥げた長椅子の上で、彼らが憩っている。いばらの棘が、悲しみからも嘆きからも彼らを守っているから、二人は本当に安らいだ表情を浮かべて、寄り添っているんだ。今も、これからも、ずっとね。




もう新羅しか知らないことだが、消え行く国の軍部統帥は、亡国の日に、以下のように語った。

新羅。俺のような人間が、こんな国にしがみつくことを、君はずっと不思議に思っていたね。君も薄々気付いていたとは思うけれど、俺は本当は、この国の存亡なんて、足の小指の爪ほども興味はなかった。愚鈍な王に、利権と黴臭い慣習にしか興味のない貴族。遅かれ早かれ、いずれ滅びるさだめの国だった。だから新羅、君はさっさと見捨てればいい。でも、俺は行かない。
俺は、ずっとここを離れないよ。離れられないんじゃない。離れたくないからここにいるんだ。別に、あいつのためなんかじゃない。ここは俺にとって、大切な場所なんだ。それだけだよ。

新羅、笑わないで、これだけは聞いてくれ。
あいつが死んで、すべてが失われたわけじゃない。大切な秘め事は、この場所の、誰も踏み入ることのできない、いばらの中に、今でもひっそりと息衝いている。それが輝くんだ、きらきらと。
すべてがくだらなくて愚かしい世界だけれど、いばらの中で失いたくないものも、見つけたんだ。それが何なのかって? それは教えない。だって、秘め事ってそういうものだろ。


*

*

*

ふと迷い込んだ、いばらが蔦を伸ばす裏庭で、その蔦に囲まれながら、涙を零す子供がいた。それを見つけて、思わず手を伸ばす。
「なにしてるんだ」
手を伸ばしたのは、化け物とさえ呼ばれる膂力をもった少年だった。泣いていたのは、黒髪の少年だ。
「…ほっといて」
「そんなところにいると、怪我するぞ」
「もうしてるからほっといてよ。ここが好きなんだ」
どうにもすっきりしない少年で、あまり好きにはなれなそうだ。そう思いつつも放っておくことができなくて、もう一度手を伸ばす。いばらの蔦が、まだ柔らかな皮膚を裂くが、それでも懸命に手を伸ばす。
黒髪のこどもは、少し驚いたようだった。涙をとめて、だがすぐにふるふると頭を振る。
「ここにいたいんだ」
「そこにいても、泣き止まないんだろ?」
「…だって、人が好きなのに誰も愛してくれないから」
何が言いたいのか、正直あまりよくは分からない。だが、どうやらこの少年が寂しいのだということだけは理解できた。
「じゃあ、俺がまた会いにきてやる。お前が泣かないように、ここに会いにきてやるから、もう泣くな」
「…ここに、会いに?」
「ああ。だからホラ、手をだせよ」
荊に指先を差し込むと、泣いていた少年は涙を拭い、少し戸惑いながら、その指先に触れ、それから嬉しげに頬をほころばせた。

「じゃあ、約束だよ」

「ああ、約束だ」


(いばらのエデン)
(2011/01/26)






「#エロ」のBL小説を読む
BL小説 BLove
- ナノ -