ジオラマ | ナノ


高い位置に繰りぬかれた窓から見える景色に、そう変化は見られない。けれど着実に時は流れたらしく、初めてこの部屋に来たときからすでに6年近く経とうとしているというから、不思議なものだ。
都会の忙しなさに置き去りにされたような一画に、紅茶専門の流行らない喫茶店がある、その隣りだ。古い洋館の内部を改装して、メゾネットタイプの賃貸住宅に仕立ててある。借主は、折原臨也だ。だが静雄は、ここに、月に数度の頻度で出入りしていた。

初めてここを訪れたのは、高校生活もそろそろ終わろうかという頃だった。60階通りでいつもと同じように臨也と派手な喧嘩を繰り広げ、サイモンに捕まりかけたので二人で逃げ出した。互いの体につけた切り傷やら打撲やらが赤みを帯びて人目につくと言って、臨也が「最近新しく借りた」というこのアパートに静雄を連れてきたのだ。初めて臨也とセックスをしたのも、考えてみればこの場所だった。
どうしてそういうことになったのか、もうあまりよく覚えていない。喧嘩の興奮もあったのだろうし、間もなく高校生活が終わるのだという憂いもどこかにあった。表現しがたい物寂しさや焦りに急かされるように体を繋げていた。
普段の能弁さを示す余裕もないような臨也の向こう側で、カーテンの隙間から紅く色づいた夕空が覗いていたことを、よく覚えている。怒声も罵声もなく、ただ互いの吐息やら切羽詰ったような声やら、それだけの音しかない空間を、臨也との間で共有したのは、それが最初だった。

それから静雄は、時折ここを訪れた。
臨也が借りている部屋だが、臨也自身は日常的には使っていない。気まぐれに変わった物件を借りてみたはいいものの、「情報屋にとってはここのセキュリティじゃ不安が多いんだよね」ということらしい。鍵ひとつで出入りできるこの部屋に、商売道具の情報を置くことは避けたいのだろう。
だからここを気に入ったのは、むしろ静雄の方だ。日当たりが良く、都会のはずれにあるにしてはやけに静かで、早い話が静雄がこよなく愛する昼寝や日向ぼっこに向いた部屋なのだ。
「あそこが好きなら、勝手に使えばいいよ」
何の気まぐれか、実は魂胆でもあったのか、臨也はそう言ってこの部屋の合鍵を渡してきた。裏がありそうだとは思ったが、静雄はそれを受け取って、気が向けばここを訪れていた。
心地よく眠れる場所を捜し求めて丸まる猫のように、静雄はこの部屋の陽だまりに座り込んで過ごす。この何年も、静雄はそうしてこの空間を満喫してきた。

それでも時々、臨也が訪れることもあるようだった。というよりも、静雄とあまり遭遇しないだけで、臨也もそれなりの頻度でここを訪れているのだろう。静雄が読まない本が置いてあったり、ときには酒の瓶が持ち込まれていることもあった。いずれも情報とは関係のなさそうなものばかりで、骨休めや気分転換に使っているのだということが窺える。
そして当然、二人がここで遭遇することもたまにはあった。池袋の街中で会えば、殺し合いに近いような喧嘩を繰り広げる二人だったが、ここでは不思議と静かに過ごした。静雄は陽だまりに寝転んでいたし、臨也は臨也で螺旋階段を上がった空間で本を広げていた。気が向けばセックスもしたし、臨也がコーヒーを淹れてそれを二人で飲んだりもした。暗黙のうちに、ここでは殺し合いをしない、いわば非武装中立地帯のようなものになっていた。

6年間。その年月は短くはないので、ここに来た回数もそう少なくはない。だが、おそらくこれが最後になるだろう。取り壊しになる、と数日前に臨也から連絡がきた。
「内部は改装してあるけど、建物は老朽化が進んでたしね。大家の意向だよ。鍵は返さなくていいって」
そうか。それだけの言葉を、静雄は携帯電話に向けて返した。事実、そのときは大した感慨も感じなかったのだ。初めて他人の肌を知り、仇敵と不自然なほどに穏やかな時間を過ごした空間が消える。ただそれだけのことだ。
だが今日、ここを訪ねてみると、やはり不思議な感慨が湧き上がってくる。激しいものではなく、ゆっくりとしたリズムで水が滴り落ちて、それが溜まっていくような、そんな感情がある。やはりそれは、寂しさとも悲しみとも表現できない。
静雄は西日の差す窓際を離れ、室内の洒落た螺旋階段に向かった。白い手摺にいたわるように触れながら階段をのぼり切ると、ささやかなフローリングの空間がある。設えられた天窓から赤く色づいた光が零れて、心地いい。
このロフトに近い二階部分は主に臨也が好んでいたスペースで、ささやかな本棚がある。その本はすでに臨也が持ち去ったらしく、がらんとしているが、小さな二人がけのソファは置かれたままになっていた。そのクリーム色の布地の上に、緑がかった青の鮮やかな煙草のパッケージがいくつも転がっている。この場所で吸うために、買い溜めして置きっぱなしにしていたのだ。この部屋にある静雄の荷物はこれだけだ。これだけを、取りに来た。

煙草はいつも、この二階部分で吸っていた。
以前、一階部分で吸っていたら、そのときたまたま居合わせて二階で読書に興じていた臨也から文句が出た。二階部分は一階とほぼ連結した状態であるため、煙が臨也のいるスペースで溜まってしまっていたらしい。
「ちょっと、煙が全部こっちくるからやめてよ。煙い」
「知るか。手前が降りてくりゃいいだろ」
「俺は二階が好きなんだよ」
つまりそれは、何とかと煙は高いところが好き、というそのままじゃないか。思ったが、くだらない言い争いから発展してここで喧嘩をするのは避けたかった。臨也も「上にきて吸いなよ」と代替案を掲げる。煙は基本的に上に行くから、下で吸われるよりは同じ位置で吸われるほうが被害が少ないと判断したらしい。多少癪ではあったが、静雄はそれに従い、灰皿と煙草のケースを持って二階へと上がり、ソファに腰掛けて吸った。
ソファの前のローテーブルに灰皿を置いたそのときから、煙草を吸う場所は二階部分のこのソファに変わってしまったのだ。

そういえば、この前静雄がこの部屋に来たときには、このソファに二人並んで座って過ごした。静雄が一服していると、臨也がやってきて当然のように静雄の隣りに腰掛け、本を広げたのだ。
「…おい、狭い」
文句を言うと、臨也は本から顔を上げもせずに「だったら降りなよ」とだけ返してきた。自分が退く気はさらさらないようだった。ソファと言っても、二人がけの所謂ラブソファだ。成人男子が二人並べばそれは窮屈である。衣服同士が触れ合う箇所から微妙な体温が伝わって、それは不思議と不快ではなかった。

そんな何週間か前のことを思い出しながら、静雄はソファにもたれかかった。すると、嗅ぎ慣れた煙草の匂いが、ソファのカバーに染み付いていることに気付く。自分が好む煙草の好む匂いが染み付いた空間が、間もなく消えることに、また滴が落ちるような感慨を抱いた。
あの男も、と静雄は、ここの賃借人のことを思い浮かべた。あの日、紫煙をくゆらせる静雄の隣りで、ただ静かに文字を追っていた。他に音のない空間に定期的に聞こえる、はらり、という薄い紙をめくる音さえも思い出されて、その心地よさに瞼を伏せる。
あの男も、この空間を惜しんだりするのだろうか。

天窓から零れる西日はすっかりと和らぎ、少しずつ夜の気配を感じさせていた。



頬に、とてつもなく冷たいものを押し当てられた感覚に、瞼を開ける。どうやらいつの間にか転寝してしまっていたらしい。すっかり暗くなった室内で、スタンドスポットライトの鈍い灯りに照らされた仇敵の顔があった。
「…悪夢だな」
「起きて早々ご挨拶だねえ」
頬に押し当てられたのは、冷えたビールの瓶だったようだ。ここに来るまでに買って来たのか、ローテーブルの上にビニール袋が載っている。そのビニール袋からは、何本かのビールの瓶が覗いていた。
「いつからいたの」
「…夕方くらいか?」
「結構寝てたんだね」
ごく自然な動作で、臨也はビール栓を開けてそのまま口を付けた。時折この男は、こういう乱雑な所作を見せる。
静雄もビニールの中を漁ったが、そこにはビール以外の飲み物はなかった。残念なことにビールは苦手だ。思わず舌打ちして、パックから取り出した煙草を銜える。すると一連の動作ですべてを悟ったらしい臨也が、小さく噴きだした。
「その年で子供舌ってどうなの」
「うるせえな。殺すぞ」
睨みつけても効果はなく、臨也はけらけらと笑い続けていた。
「ほんと、ずっと変わらないよね」
「…手前も相変わらずノミ蟲のままだな」
「あのねえ……」
溜め息を一つ吐いた臨也だが、それ以上言葉を紡がずにただ視線を巡らす。二階部分の手摺の向こうに目を遣った。「あの窓の下、」
「あ?」
「高校の頃、一階のあの角の部分でセックスしたよね」
ここに最初に来たときの話だ。今更ながらに、この男もどうやらこの部屋を惜しみにきたらしいと気付く。
「人生最大の汚点だな」
「よく言う。その汚点を進んで何度も繰り返してるくせに」
視線を戻して、臨也が笑う。目を細める珍しい笑い方で、それに毒気を抜かれてしまい言い返すのも馬鹿馬鹿しくなった。ああ、この男も寂しいのだな、と漠然と思う。
「臨也」
呼ぶと、視線が合った。狭いソファの上なので、自然、顔が近い。灰皿に煙草を置くと、それを合図にしてさらに臨也が顔を寄せてきた。にわかに慣れた、キスの角度。
「苦ぇ」
絡んだ舌が離れていくと、顔を顰めて静雄は呟く。臨也の舌に残っていたビールの苦味だ。臨也もまた、少し眉を顰めてから「そっちこそ」と呟いた。何かと少し考えて、この空間でゆっくりとくゆる煙草の煙に思い当たった。その味が、静雄にも残っていたはずである。それが臨也の気に食わなかったならいい気味だ。
気をよくして、今度は自分から顔を寄せる。臨也が積極的に応じたそれは、けして技巧的なキスではなく、6年前のあのときを思わせた。
ざらりとした苦味が残る。今は、その苦さが、心地よかった。


(ジオラマ)
(2011/01/25)






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