※もし〜だったら、という仮定に基づく短篇4篇です。明るかったり暗かったりします。 ※前後のつながりは皆無です。 【もし臨也が失明したら】 さざめくような都会の騒音に、澄んだ異音が混じる。高層で高級なマンションの最上階だが、意外にそれははっきりと聞こえてきた。 人間は一つの感覚を失うと、他の感覚が発達して失われた感覚を補おうとすると聞く。なるほど、あながちそれも嘘ではないらしい。耳に残るノイズに似た、それでいて澄んだ異音。雨音だ。 しばらくその雨音に耳をすませていたが、ふと、雨音に紛れて衣擦れの音が聞こえた。秘書かとも思ったが、流れてくる空気に、それが間違いであったことを悟る。 破壊音も聞こえなかったし、セキュリティーの厳しいこのマンションは静寂に包まれたままだ。だとすれば、膂力にまかせて無理に入ってきたわけではなく、波江が導き入れたのだろう。まったく、とんだ有能な秘書もいたものだ。臨也は薄く笑った。視覚を失って、今がどんな時間帯かすら分からないのに、それでも彼の気配だけはすぐに察してしまう自分への自嘲である。 臨也を見ると血の筋を浮かべて攻撃してくる静雄が、今日はやけに大人しい。それどころか、ただ沈黙して、そこに立っているだけのようだ。 「悪いけど、もうしばらく喧嘩はできないよ。少し慣れれば、感覚もつかめると思うけどね」 臨也が視覚を失った原因は静雄とはまったく関係がない。だがおかしなところで繊細な彼は、おそらく以前と同じようにポストを投げつけてきたりガードレールで殴りかかってきたりすることはないだろう。それを思うと、少しだけ、溜め息をつきたいような気持ちになる。何故なのかは分からない。 少しの間返答を待ったが、静雄は何も言わなかった。聞こえてくるのは雨音ばかりだ。仕方なく臨也は立ち上がり、彼の気配のするところへと歩み寄る。 「ねえ、泣いてるの」 「……泣いてねえよ」 ようやく、静雄が言葉を発した。彼に似合わない落ちるような小さな呟きだった。臨也は思わず笑う。ふきだしたその声は、いつもと違って短い溜め息みたいだった。 「嘘。泣いてるよ」 視覚を失った臨也を憐れんでか、それとも閉ざされた臨也の世界を思ってかは知らない。いずれ、涙もろい化け物はただ静かに涙を流しているようだった。 「本当にシズちゃんって可哀想な化け物。泣き方も知らないんだね」 彼が嫌がる呼び方をしても、静雄は黙り込んでしまって言葉を返しては来なかった。 臨也はそんな彼に向かって手を伸ばす。指先に触れたのは、布の乾いた感覚だけだった。すぐに頬に触れられない今の己が、少しだけ悔しい。 それでも手探りでその頬に触れる。冷たい皮膚に、少しだけ濡れた感触があった。やっぱり泣いてるじゃない。言おうとしたがやめた。きっとやさしい化け物は、それをやまない雨のせいにするだろうから。 (雨のやまない世界にて) 【もし静雄が臨也に関する記憶を失ったら】 静雄はある意味で、自身の感情に素直に生きる人間である。好きなものは好きだし嫌いなものは嫌いだ。 例えば対人関係においても、一緒にいて気持ちのいい人間が好きだし、近くにいるだけではらわたが煮えるような思いをする相手は嫌いだ。前者には例えばセルティや幽が挙げられる。セルティのもつ、荒々しくも清涼な風のような雰囲気や、幽の纏う、澄んでぴんと張り詰めた冬の夜のような雰囲気は、傍にいるだけで心地がいい。 後者は、例えば目の前の男が挙げられる。全身漆黒の衣装を着た細身の男だ。完璧に整った顔には、人を蔑みきったような表情が浮かんでいる。この男は、ここ数日やたらと静雄の周囲に現れる。幼馴染の闇医者が言うには、この男は静雄の高校時代の同級生で、因縁深い相手らしい。因縁の詳細については述べなかった。 静雄はそれを信じていない。数日前まで静雄の記憶の中にはこんな男は影も形も存在しないかったし、静雄は近くにいると反吐が出るほどに本能が憎む相手と数年来交流を保ち続けるような被虐趣味も持ち合わせてはいないからだ。 だがおかしなことに、目の前のこの男は、静雄のことをやけによく知っていた。それはもう、異常なほどに。 「君の弟君のことも知ってるよ。当然君の両親のこともね。君が必死に隠したいであろう幼い日のあわれな初恋の顛末さえ知ってる」 「…なんなんだ、手前」 こんな問答が、この男と会うたびずっと続いている。いい加減、容量の狭さなら誰にも負けない堪忍袋が限界を訴えるが、そうして静雄がこめかみに血の筋を浮かべるたびに、この男は妙に嬉しげな表情をするのでいただけない。 「ねえ、君をいい様に従わせることなんて簡単なんだ。平和島幽を闇討ちすることも、田中トムを二度と表社会に出られないようにすることも、俺は数分でできるんだよ?」 「ああ!?」 偽りか真実かは知らないが、たとえただのはったりにしても言っていいことと悪いことがある。さすがにもう殴っていいだろうと拳を握り締めたところで、静雄ははたりと動きを止めた。 目の前の黒尽くめの男は、やはり静雄が怒りのゲージを振り切ったことで唇の端を持ち上げる笑みを浮かべた。人を蔑む、気に障る笑みだ。 それなのに、おかしなことだ。その妙に赤みがかった瞳が、細かく揺れている。まるで、涙がたまってそれが流れるのを我慢しているような、そんな顔だ。 「…なんで、泣くんだ」 思わず呆然とそう尋ねる。あまりのことに、固く握り締めた拳をゆっくりと解くことさえ忘れていた。男は何か言いたげに静雄を睨みつけたが、結局開きかけた唇をまた閉じた。泣いていない、と抗議したかったのだろうか。 ぐっと唇を噛んでいるのが分かる。涙を堪える仕草によく似ていた。 「……俺を、見てよ」 奇妙な沈黙の後に、ようやく男がそんなことをぽつりと呟く。小さくて、酷く頼りない声だった。 「はあ? 見てんだろ」 「そうじゃない、その目じゃない。ねえ、俺を見てよ!」 一転して激しい叫びに、静雄は思わず息をのむ。まだ幼い子供が、よすがを求めて泣くような、そんな必死さがあった。唐突に、胸をつかれたような気持ちになる。 こんな男のことなど知らないはずだ。近くにいるだけで、胸糞が悪くなる。それなのに、静雄は自分がこの男に酷く、残酷なことをしているように思えた。 (やさしい惨殺現場) 【もし臨也が潔癖症だったら】(わりと通常運転) 日本の国内法に基づけば、20歳を過ぎた人間は未成年のときにはなかった一定の権利と義務を負うことになる。数あるそれらのうちの一つが――喫煙の権利だ。臨也は喫煙者ではないが、かといって愛煙家を嫌うほどの情熱も有してはいない。早い話、自分に迷惑が掛からないところで、マナーを守って勝手に吸えばいいだろう、というスタンスである。 「だけどさあ、あの匂いは頂けないよね。服についちゃうし。もっと最悪なのは髪につくことだよ」 ふるふると頭を振ると、ふわふわと見知った匂いが降ってくる。子供舌で苦いものなど嫌いな男が好んで吸う煙草の煙は、皮肉なほどに苦くて鼻につく。 「大体さ、俺が喫煙者じゃないって知ってるのに俺の目の前でぷかぷかぷかぷか吸ってるんだよアイツは。最近の世の中の分煙の流れを知らないのかな。知るわけないよねえあのシズちゃんだもんねえ」 だらだらと愚痴とも皮肉ともつかない言葉を並べながら、臨也は座り心地のいい椅子に座ったまま、キャスターを利用してくるくると回る。その度に、また見知った煙草の匂いが鼻先を擽った。髪にしっかりとついてしまったのだ。 「………」 一方で波江は無言のまま、書類の整理という自分の業務の手を休めることをしなかった。臨也の扱いにはそれなりに慣れている。あの男の話を始めたときの臨也に何か声を掛けても無駄だと知っていた。 「ああもうほんと、この匂いのせいで集中できないんだよ!」 長らく落ち着かず一人で騒いでいた臨也だが、波江がそろそろ中二病な雇用主に見切りをつけて退職願を書き始めるより数秒早く、がたりと椅子から立ち上がった。 「……どこかに行くのかしら」 本当はまったく興味はないが、一応義理で尋ねる。臨也は、決まってるだろ、と肩を竦めながら言った。 「アイツに文句言いに行くんだよ」 それだけ告げて、臨也は彼らしくもなく大またで闊歩してオフィスを後にした。残された有能な秘書、波江は深く溜め息をつく。 「…そんなに気になるならシャワーでも浴びればいいじゃないの」 しんと静まり返ったオフィスで、ずっと思っていたことを呟きながら、波江は帰宅する準備に取り掛かる。 雇用主も職場を放棄したし、波江がここに留まる理由もない。ここにいると、退職届を書きたくなってしまうし、今日はさっさと帰って誠二を思いながら料理でも作ろう。 愛する人のことでも考えていないと、あまりの馬鹿馬鹿しさに頭痛さえ起こりそうだった。 だって、煙草の匂いが移るほど傍にいて、離れてもその匂いがちらついて離れないなんてありがちな惚気だ。文句を言いにいく、なんて下手な言い訳にもほどがある。結局会いたかっただけだろう。 深い溜め息をついて、波江はさっさと職場を後にした。上司にあてられて、自分も早く愛する人の顔を見たかった。 (リア充爆発しろ 改め メロウ・ビター) 【もし臨也と静雄がデレ全開で寝ぼけていたら】 シズちゃん女じゃなくてよかったねえ、と言われた。セックスの後の話だ。 別に甘い睦言など望んではいないが、さすがに何の話だ、と思う。そもそも静雄は酷く眠いのだ。かくいう臨也も本当は眠いのだろう。妙に楽しげにはしゃいでいる。この男が静雄といてこうも幼い表情をさらすときは眠いときなのだと最近になって静雄は気付いた。 「うっせえよ、早く寝ろ…」 「だってさあ、シズちゃんに子供ができたとしても、ちょっと強く抱きしめたりして殺しちゃうよねきっと」 あーあスプラッタ、と男は楽しげに笑っている。普段なら死なない程度に強めに殴ってやるところだが、いかんせん今は眠くてそんな気力も湧かない。目がさめて覚えていたらそのときガードレールでもお見舞いすればいい、と考えながら瞼を伏せる。 限界を訴える思考が瞼に描いたのは、何故か赤ん坊である。ノミ蟲野郎がくだらない話するからだろう、とは思うが、脳裏が描いた子供の可愛らしさに頬がかすかに緩む。 「父親がしぶといから大丈夫だろ、多分」 欠伸交じりに言ってやると、臨也はまた楽しげに笑った。 ベッドが軽く軋む音がする。どうやら臨也が静雄のすぐ隣りに横になったようだった。瞼を伏せた静雄の髪に、やさしい感触が降ってくる。 「まあいざとなったら俺がシズちゃんの腕から救い出すしね」 「…でも一回くらいは思いっきり抱きしめてみてえなあ」 「……」 言うと、子供にかえったようにはしゃいでいた男が唐突に沈黙する。おい馬鹿みたいに饒舌のくせにこんなときに黙るな。と思いながら薄く目を開ける。意外なほど近くに、意外なほど真っ直ぐな臨也の瞳があった。 「じゃあさ、俺が子供抱きしめるから、シズちゃんは俺を抱きしめなよ。俺なら、まあ多少は大丈夫だし」 だって俺はしぶといんでしょ、とまた臨也が笑った。静雄は、ああそうかよ、と思いながら目を伏せる。ちょっとだけ、泣きそうだった。 (あまやかな棘) (2011/01/11) |