Last Scenes3 | ナノ


怖い夢から飛び起きるように、臨也は瞼を開けた。馬鹿馬鹿しいほど青い空に透けて溶け込んでしまいそうな彼に向かって伸ばしたはずの手の先には、濃い緑の黒板があった。くすんだ白の壁。立ち並ぶ机。リノリウムの床。弾んだ声の群れ。もう懐かしさすら覚えないそれは、間違いなく母校の風景だった。
震えの止まらない指先で鞄を探り、臨也の知る最新機種の携帯よりも数段古い型の携帯電話を取り出す。高校入学当初に臨也が持っていた携帯電話のディスプレイは、高校の入学式の年月日を示していた。
また、時間を遡ったのだ。そう気付くまでに時間はかからなかった。
臨也は大急ぎで教室脇のベランダに出る。心臓の音がうるさかった。
校舎の先に、今まさに校門をくぐろうとする金の髪が見えたとき、臨也は座り込んでしまいそうなほどに安堵した自分を自覚せずにはいられなかった。


○ Second Sequence


思い切り傷つけて弄ぶ。前回のシーケンスでそれは成し遂げたはずだ。その先に静雄が重症を負ったり命を落とすことがあったとしても、それは臨也にとって望ましい事態ではあれど、忌避すべき事態ではない。
それなのに臨也は、失う恐怖から今でも指先を震わせているのだ。

近づくことでこんなに後味の悪い思いをするのなら、いっそ近づかなければいい。臨也はそう考えた。
そうだ、どうせ思い通りにならないのなら、わざわざあんな化け物に近づくことはない。どうせ彼は、臨也の人生において汚点でしかないのだ。
それ以後の臨也は、静雄の存在を徹底的に意識しないようにした。静雄がどこで喧嘩を繰り広げようが関係なし。当然、わざわざ静雄を挑発することもしなければ、他の人員を動員して静雄にけしかけることもしない。
門田や新羅という共通の友人はいるものの、臨也は静雄との接触をことごとく避けてきた。臨也と静雄はあくまでも顔と名前が一致する程度のクラスメイト、という関係である。臨也も静雄も色々な点で互いに目立ちはするが、あくまで無関係に目立っているだけだ。
お陰で、臨也はこれまで経験した2度の高校生活では得られなかった、安定した高校生活を送ることができた。毎日喧嘩人形と何も生み出さない喧嘩に明け暮れることもなく、情報屋としての地位も着実に築き上げて行く。このリターンマッチはとても上手くいっていた。
時折胸を疼く虚しさは、ぎゅっと体の中に押し込めればいい。それだって、一度目のタイムリープ時に味わったあの、永遠に指が届かない恐怖に比べればずっとマシだった。

結果、臨也と静雄は来神高校で過ごした三年間、必要最低限度しか会話を交わさなかった。
不必要な会話を交わしたのは、卒業式前日のあの夕方だけだ。

「…折原?」
明日で別れることとなる教室にひとり佇んでいた臨也に、そう声を掛けてきたのは静雄だった。臨也は思わず舌打ちをしたくなる。出来ることなら、もう会話もせず顔も合わせず離れてしまいたかった。この男の顔を見ると、どうしても欲を燻られ、苦しくなる。三年生は既に自由登校になっているので、会う筈はないと思っていたのだ。
「折原。何してんだ、こんなとこで」
臨也をただのクラスメイトとしか認識していない静雄は、臨也のことを“折原”と呼ぶ。当然、ノミ蟲という不快かつ不名誉な呼称など付けようと思ったこともないのだろう。
「君は、補習か何か?」
「ああ、まあな」
適当な会話をして早いところこの場を去りたい。臨也はそう思っていた。今の静雄は、以前のように臨也に対して嫌悪は持っていないようだが、相変わらず彼のお喋りな人間嫌いは変わっていないようで、臨也もけして得意なタイプではないはずだ。たからすぐに去って行くだろうと思ったのだが、静雄は少し躊躇っているような顔をして、臨也を見ていた。
「…俺に、何か用?」
「いや、そういうわけじゃないけどよ…」
臨也に対して何かを言いよどむ静雄というのは、以前の静雄を知っている臨也にとっては非常に珍しい。黙って先を促すと、静雄は視線を彷徨わせてから、「その、」とようやく声を出した。
「お前とは、結局あんま喋らなかったな」
「そうだね、だって君、俺みたいなタイプは苦手だろ?」
こんなことを話すなんてどうかしている。今までの臨也と静雄の関係なら考えられなかったことだ。
「まあ、な。でもお前も、俺のこと避けてただろ」
その静雄の言葉に、臨也は軽く目を瞠った。自然にしているつもりだったが、気付かれていたらしい。静雄の野生の獣のような勘の鋭さは損なわれていないようだった。
「そんなことないけど」
「…そうか? 俺、お前に何かしたかと思ってたけどな」
それはむしろ逆だ。前回の臨也が、静雄を傷つけていたぶった。その反動で、今回の静雄には指一本触れることもできないでいるのだ。これは報いか、と唐突に臨也は気付いた。今更気付いたそんなことに、思わず自嘲の笑いがこみ上げてくる。ああ、本当に馬鹿みたいだ。
「…んだよ」
突然笑い出した臨也に、静雄は自分が馬鹿にされたように感じたのか、視線を鋭くして睨んできた。
「別に、なんでもないよ」
この喧嘩人形とギクシャクと喋る理由が、自身の行為に対する報いであるなどと、馬鹿馬鹿しいことを考えていただけた。静雄は少し釈然としない顔をしたが、すぐに他に人のいない教室を一望してから、小さく呟いた。
「明日で卒業だな」
「……そうだね」
間違いなく明日で卒業だ。これで、この化け物との縁も切れる。そうすればこの不可解に苦い思いもせずにすむのだ。
臨也は静雄の隣りで、夕日に染められていく教室を見ていた。



高校を卒業して二年ほど、何もなく過ごした。今回の臨也の人生において、静雄はなんらの重要性も持たない。ただ、同じ学び舎で3年間を過ごしたかつてのクラスメイトでしかない。
それでも臨也は、静雄の情報を逐次チェックしていた。臨也と関わらない静雄の人生は、やはり臨也が知るかつての静雄のそれとは異なっている。臨也が原因となって職を点々と移ることがないためだろう。相変わらず静雄は、池袋でたまに派手な喧嘩を繰り広げ、伝説的な強さを誇ってはいるようだが、現在は借金取りではなく、池袋の洒落たバーでバーテンダーとして生計を立てているようだった。

臨也と静雄は、もはやただの他人に近い。それなのに臨也が彼が勤めているバーに足を向けたのは、単なる気まぐれだと臨也は考えている。あの化け物が客商売をするなんて似つかわしくない場面を見て、密かに嘲笑ってやろう、そのくらいの気持ちだったのだと臨也は言い訳をした。

池袋駅から多少離れた、落ち着いた印象のショットバーのカウンターで、その男はもくもくとグラスを拭いていた。今でも鮮明に浮かび上がる高校の頃の姿より少し大人びた彼は、それでも臨也のよく知るバーテン服に身を包んでいる。
臨也が店内に入り、静雄の前のカウンターに座ると、静雄はようやく臨也の姿を見て、そのまま目を瞠った。
「…折原、か?」
どうやら名前は覚えていたらしい。
「こんなところで働いてたんだ?」
本当は静雄の近況については逐次調べていたのだが、あくまで偶然を装ってそう嘯く。適当な酒をオーダーすると、静雄は何も言わずに慣れた仕草で酒を作って、臨也の前に差し出した。そうしていると、喧嘩人形とその名を轟かせた化け物ではなく、一端のバーテンのように見えるから不思議だ。
平日のまだ早い時間のためか、店内の客は少ない。ゆったりとしたサティの曲などが流れていて、こんな落ち着いた空間で、バーテン姿の静雄となんの波風もなく向き合っていることが、臨也には酷い皮肉なようにさえ思われた。
「…なんかあったのか?」
酒を飲むでもなく、ただグラスに歪んで映る店の内装を見ていた臨也に、静雄が声を掛けてきた。
「は?」
「なんか妙なツラしてるぞ」
「…妙?」
「妙に辛そうっつーか、思いつめてるみたいなよ…」
まさかあの平和島静雄に精神面を心配される日が来るとは。臨也は目を瞠る。
臨也は平和島静雄との接点の切れた人生を、それなりに愉しんでいる。いつも予定外の行動を取る化け物がいない世界は、臨也の望むようにことが運ぶ。ただ一点、己のうちに巣食う、この満たされないという思い以外は。
「…別に、何もないよ」
「そうか? ならいいけどよ」
口ではそうは言いつつも、静雄は納得してはいないようだった。逡巡している雰囲気を作ってから、静雄は「酒、せっかく作ったんだから飲めよ」と勧める。何を頼んだのかさえろくに覚えてはいなかったが、カクテル・グラスに口を付けると、ジンとライム・ジュースをシェイクした有名なカクテルだった。
薄緑の色彩の美しいカクテルを、この怪力男が作ったのだという現実感がなかなかわかない。ただぼんやりと、見慣れたバーテン服を着こなしている静雄が名のとおり静かに穏やかにバーの中で動くのを見ていると、その視線に気付いたらしい静雄が、臨也を見返した。奇妙な間を置いて、静雄が唇を動かした。
「…お前、ずっとそんな変なツラで俺のこと見てたよな。俺、お前に何かしたかと思ってたけどよ、何もしてこねえし」
同じような言葉を、高校の卒業式の前日に耳にした。このシーケンスで静雄とまともに話をした、唯一にして最後の日。二人で、夕闇が見慣れた教室を染めて、やがて闇が落ちきるまでただ沈黙して過ごしていた。
あのときのことを静雄が覚えているかどうかは知らない。だが今、静雄は、未だかつて臨也には向けたことのないような穏やかな視線で臨也を見て、聞いたことのないような静かな口調で言葉を紡いでいる。
「別に俺のことを怖がってるわけでもないし、変なヤツだと思ってたよ」
「…まさか君に変人扱いされるとはね」
軽く言い返すが、沸点の怖ろしく低い静雄も怒り出したりはしなかった。今の静雄にとって、臨也はかつてのように「ノミ蟲」と罵った何をしても気に食わない相手ではない。かつて、同じ学び舎に通っていたというそれだけの間柄なのだ。
「…卒業式の前に、ちょっとだけ話をしただろ」
「覚えてたの?」
驚きに軽く目を見張る。静雄はサングラスをしていない琥珀の視線を臨也に向けて、少しだけ照れたような顔で肯定を示した。
「なんでか分かんねえけど、あの時はなんか折原と話をしねえと駄目な気がしてた」
結局、あんまり話せなかったけどな。と、力をふるえば喧嘩人形と怖れられる男が、後悔を滲ませて言葉を紡いだ。臨也は思わず動きを止める。じわりと、今更になってドライなカクテルの苦味がこみ上げてきた。
静雄の言葉は当然意外なものだった。臨也はやはり、高校のときも、そして今だって、この男を視界に入れるたびに殺意とも性欲とも表現できない欲を燻られるが、このシーケンスの静雄にとって臨也の存在は重要な意味を持たないはずだ。その静雄が、どうして臨也と話をしたがったのかは臨也には分からないし、静雄自身にも理由は分からないという。
だから臨也が苦々しく感じた理由はむしろ、静雄の言葉の背景に、静雄にとって臨也が過去になりつつあることを悟ったことにある。どこでも交わらずに平行線のまま進んできたこのシーケンスの関係は、やがて静雄が臨也を完全に過去のものとして処理することで終わるのだ。それは臨也が望んだことであり、そしてかつての行為に対する報いでもある。
顔を苦味に歪めて押し黙った臨也を、静雄は訝しげに見たが、カラ、と澄んだ音を立ててドアベルが来客を告げると、そちらに意識を移した。
「よ、静雄」
入ってきたのは、臨也も見知ったドレッドヘアの男だった。静雄が嬉しげに破顔する。
「トムさん、また仕事サボってきたんすか」
「サボりじゃねーよ、次の取り立てまでちょっと時間あっから休憩だって」
にこにこと笑いながら、このシーケンスでは臨也のことを知らないその男は静雄のいるカウンターの前、すなわち臨也のすぐ近くの席に着く。嬉しげに対応している静雄を尻目に、臨也は席を立った。それに驚いて、静雄がようやく臨也に視線を戻す。
「…折原?」
「帰るね。ご馳走様」
何か言いたげに、もう一度だけ「折原」と声を掛けてくる静雄を無視して、清算を済ませて店から出た。
静かな店内から、宵の口に入ったばかりの都会の雑踏に踏み出す。辺りは日がほぼ落ちかけていた。

あの卒業式の前の日も、こんなふうに夕日が落ちきるまで、教室で沈黙のままふたりで過ごした。あるいは情緒的とも言えなくもないそんな思い出も、やがて風化して静雄は思い出さなくなる。それが人の自然なあり方だ。だが臨也は、幾度も忘れることなく思い出すという確信があった。風化されることなどなく、痛みを覚えるほどに鮮やかなまま。
このシーケンスで臨也に残されたのは、静雄の体温でも青空に溶けていくその姿の残像でもなく、“過去になる”という虚しさだけだ。
静雄と交わることのないまま過ごしてきたこのシーケンスの終着点に、臨也は歩みを止めた。
卒業式の前日に、これで終わりだと思っていた不可解な思いは消えるどころか重みを増していくばかりだ。それでもこのまま関わらずに生きていけば、いつかは満足が得られると思っていた。だがそんなときは永劫に来ないのだと、今になってありありと悟らされる。
燦然とすべてを焦がすほどに強い光を宿す瞳が、臨也を見なくなって、やがて記憶からも臨也を消していく。その事実がもたらす虚しさと悲しみに、臨也は呆然と立ち尽くしていた。


(Last Scenes3)
(2010/11/04)






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