MER-MAN | ナノ


※来神時代

ほんの数分前まで中身のない臨也の甘言に蕩けた目をしていた少女が、食い入るように窓の外を見ていた。
まさに目を奪われた、というのが的確な表情だったので、何事かとその視線を追うと、グラウンドの脇のプールがある。よく見るまでもなく、そこでは一人の男が着衣のまま、という異常な格好で泳いでいた。
水上で煌めく金の髪にこの上ないほどに見覚えのある。あの厭わしい男だ。
あんな奴見るなよ、と言ってやりたいところだったが、バシャン、と水音が三階のこの教室にも届きそうな勢いで水中を翻った男の動きが、さほど俊敏なものではないのにやけに鮮烈で、臨也も言葉を飲み込んだ。

名前も既に忘れたようなその少女と別れ、臨也は一人でプールに向かった。
本日の天気は曇天。蒸し暑いが水温が上がらず、体育の時間に予定されていたプールは中止となった。当然、水泳部も室内練習で、さらに時刻は夕刻の18時を過ぎていて、校舎内も人影がほとんどない。こんな時間に着衣のまま泳ぐなんて、とうとう頭がおかしくなったのだろう。せいぜい嘲笑ってやろう、と思いながらプールサイドに向かうと、それまで緩慢な仕草で水中を漂っていた静雄が、水音を上げながら水中に立ち上がった。
代わり映えのない白いシャツが肌に張り付いて、夏なのに日焼けしていない象牙の肌を浮かび上がらせている。濡れた金糸が頬にかかって、そこから垂れた水が顎を伝う。
まるで水の中にあることが当然の生物がごとく、今の静雄の姿は美しかった。
立ち上がった静雄は、ようやく臨也の存在に気付いたようで、濡れたこめかみにぴきりと血の筋を浮かばせて、臨也を睨む。
「手前、何でそこにいるんだ。早く死ね」
「こんな曇天の夕方に着衣で水泳してる狂った人間がいると思って見に来て見れば、人間どころかただの化け物だったってわけだよ」
わざとらしく肩を竦めて嘲るように言ってやる。静雄は臨也の嫌味なんてどうでもよかったらしく、ただ極めて不快そうに、「今日のザコの集団、どうせ手前が絡んでるんだろ」と吐き捨てた。
雑魚の集団――ああ、そういえば今日はこの化け物対策に、いつもより多くの人員を費やした。そのことだろう。
よく見れば、静雄の顔の辺りに、未だに治りきらない切り傷がある。成程、蒸し暑いさなかに喧嘩に明け暮れてこさえた血や汚れを落としたくなって、そのままプールに入ったのか。やることが大胆というか、野生的というか。
だが、人気のない曇天の下のプールを一人で謳歌するこの男に、目を奪われたのは事実だ。この、見た目だけならまるで繊細な人間のような男が、水中をたゆたう姿に、あの少女に釣られて自分も惹かれてしまった。それが苛立たしい。

静雄は、立ち去る気配のない臨也に思い切り眉を顰めたが、喧嘩と着衣水泳のためにあまり気力がないのか、何かを仕掛けてくることなくバシャンと音を立てて背中から水に入り、水面にたゆたう。
そして夕闇に染まりつつある水面に浮かびながら、気だるげに瞼を閉じた。
異常な格好をしているのに、まるでそれが当然であるかのように、すべてが映える。
水の中に棲む、見た目だけなら美しい化け物。
欧州の伝承にそんな伝説があったな、と臨也は不意に思い出した。水面の岩礁から、美しい容姿と歌声で船頭を惑わす怪物だ。
「セイレーンとかローレライとか。そういう、人間に害なす怪物も、シズちゃんみたいな表情だったのかもね」
ギリシャ神話のセイレーン、ライン川のローレライ。いずれ、人を破滅に追いやるものだ。
「はあ?」
不思議そうな顔で臨也を見上げる静雄に告げる。
「結局シズちゃんが、化け物だって話だよ」
すると化け物は、この上なく人を馬鹿にするような顔をして、口を開けた。
「その手の化け物なら、手前の方がぴったりだろ」
暗くなっていく夕方に、静雄は塩素の匂いのする水をバシャリと臨也にめがけて跳ねさせた。その冷たい飛沫を避けずに被りながら、臨也は言葉の続きを待つ。
「甘い声で周囲のやつを誑かして、駄目にする。まさに手前じゃねーか」
さっきも女を誑かしてただろ、と静雄は続けた。西欧の伝承を静雄が知っていたことに多少驚きつつ、臨也は静雄の言にも一理あると納得し、愉快な気持ちになった。
まったく、この男は予想外の言動を取るからたまらない。
「そうだね、俺も水中の怪物かもね。じゃあ化け物同士、お互いを退治してしまおうか」
にこやかに笑いながら言って、眉を顰めている静雄を尻目に自分も着衣のままプールに身を沈める。北の海の波に似た、闇に染められつつある深い色をした飛沫があがった。
曇天と夕闇に冷やされた水が肌を刺すが、気にせずに、驚いて目を見開いている静雄の肩を掴んでそのまま押した。不安定な水中でバランスを崩した静雄の体に力をこめながら、その唇に無理やり口付ける。冷たい唇だった。それを貪りながら、夕闇が落ちきってまるで闇そのもののように暗い水に、その体を沈めた。


西欧に伝わる水に棲む怪物たちは、本当はただ寂しさから、歌声で人を呼んでいただけなのかもしれない。水に浮かび瞼を伏せた静雄の表情を見たときに、そんな馬鹿馬鹿しいことを思った。寂しくて寂しくて人を呼ぶ歌を歌っても、人は勝手に沈んで行く。
少なくとも、水に漂って気だるげに瞼を閉じた静雄は、人が溺れる様を喜ぶ怪物には見えなかった。
塩素の匂いが強い水中に潜って、噛み付くような口付けを交わしながら、臨也は考えた。

臨也もそれらの化け物だというのなら、一番に破滅させたいのはこの男だ。
ずっと水に浸かっていたために冷えた静雄の肩を乱雑に引き寄せながら、この男を沈めるその時を夢見る。きっとその時も臨也は、寂しいのだと他の人間を呼び込む静雄を嘲笑いながら、こうしてその体を抱きこんで、体を連ねて沈んでいくのだろう。


(MER-MAN)
(2010/07/21)






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