花の家 | ナノ




君が知りたいと思うことを、僕が知りうる限りで話すけれど、眠くなったら君は眠っていいんだよ、と前置きしたうえで、新羅はこう言った。平和島静雄の体は、一度すべてをリセットしようとするのだ、と。
「リセット?」
「そう。僕の仮定の話に過ぎないけれど。静雄の体は、細胞分裂の限界を超えると、活動を少しずつ止めていく」
成長しきった体が縮むことはないが、すべての臓器は生命を維持するための最低限度の動きしかしなくなる。からだすべてで、深い眠りにつくのだ。
「そうやって活動を停止させている間にテロメアーゼを伸ばす。簡単に言うとね、体を深く眠らせることで休めて、つきかけていた寿命を延ばすんだ」
まさに驚天動地の特異体質だよ、と新羅は言う。そうしてそっと、静雄の頬に触れた。やさしい体温が伝わってくる。
静雄が体調を崩してから、数日おきに静雄を診に来ていた新羅だが、静雄の口調から、静雄が鏡を見たことを察したらしい。臨也が自室で寝入っていることを確認すると、静かな声音で、平和島静雄のことを語り出した。
やわらかな日差しが、擦りガラスの窓を透かして注ぎ込んでいる。
「どのくらい、俺は眠っていたんだ」
「うーん、たぶん、寝ていたのは2年間ほどだったと思うよ」
たぶん、という不確かな言葉に首をかしげると、新羅は苦笑した。
「静雄が昏睡状態に陥ったと推測されるのは、5年前の春だった。池袋でも、少し駅前から離れれば沈丁花の匂いがする頃で、君は相当体調が悪かったみたいだけれど、それでも無理をして、うららかな街でいつも通り相棒でもあった中学の先輩と借金取りに勤しんでいた」
だが着実に具合は悪くなっていたため、少しめまいがすると言って立ち止まり、そのまま崩れ落ちるように倒れた、とその先輩は証言した。急ぎ救急車を呼ぶと、まだ意識があった静雄は、絶え絶えの息のなかで水が飲みたいと懇願したらしい。その願いを聞き届けようと、ほんの数メートル先にあった自販機まで行ったほんの1分にも満たない間に、静雄の姿はなくなっていた。その代わりに、猛スピードで走り去っていく黒いワゴン車を見た。
「そうして君はさらわれた。それから3年経って見つけ出した君は、意識が戻ってはいたけれど、自分のことが誰かも分からず、実験の材料のように扱われていたよ」
静雄が発見されたときの実験の検証データを見る限り、静雄が目覚めてから1年ほどだったという。だから、眠っていたのは「たぶん2年ほど」なのだ。
静雄をさらったのはネブラから分裂した組織の仕業だったらしい、と新羅は言ったが、静雄にはその言葉の意味は分からなかった。わかったことは、自分が臨也と会う前に置かれていた状況だけである。臨也と会う前の静雄は平和島静雄という名で呼ばれることもなく、ただひたすら物として扱われていた。臨也とこの花に囲まれた家で暮らしてきた今では、ひどく遠く霞がかったようにぼんやりとしか思い出せない。それはきっと、例えようもないほどに幸せなことなのだろう。
「保護した君の体に異常はなかったから、私の判断で君を臨也のもとに預けた。それからのことについては、君の方が詳しいだろ」
臨也と暮らし始めてから過ぎた時間は、2年ほど。静雄は目覚めて3年ほど経つが、組織のもとにいた一年はほぼ記憶がないというのに、臨也と過ごした日々はあまりにも鮮やかだ。
「俺は今、記憶がなくなる前の静雄と同じ状態なのか」
ベッドに横になったまま、新羅を見上げる。以前、そんなことを臨也が新羅に訴えていたことを覚えていたので、そうなのだろうと思ってはいたが、どこかで否定してほしいという願いもあった。あまりに淡い願いではあったが。
短くて悲しいため息をつくように、新羅は小さく、そうだよ、と言った。
「かつての君はね、体調の異変を感じて、まず私のところに来た。一応、俺たちは友人だったから。あれはもう6年も前か……。熱を出し、少しずつ体力が奪われていく。初めに君が私のところにきたときは、夏も盛りで、蝉しぐれがうるさいほどだった。それから街が紅葉に彩られ、それが朽ちて寂しく冬枯れるまでの間に、静雄の体調はみるみる悪くなった。俺には何もできなかったよ」
どんな医学書を読んでも、静雄の体には当てはまらない。根が腐った花がゆっくりと枯れていくのを見ているようだった、と新羅は言った。体内の臓物の働きが低下して、そのまま死ぬのだと思っていたのだと言う。
だから春先に静雄が昏倒した状態でさらわれたとき、もう二度と生きて会うことはないのだろうと思っていた。
ところが、静雄は生きて見つかった。
「臓器の動きは正常値に戻っているし、膂力も以前ほどではないにしてもやはり人の域を超えている。ただ、記憶と精神だけは、元通りとはいかなかった」
ほぼすべての記憶が失われ、10歳ほどの精神年齢に戻っていた。あるいは、体力も膂力もその頃のものに戻っている、とも言えるかもしれない。
「今の君は、あの頃の静雄とまったく同じ症状だ」
新羅はまたやわらかな動作で、静雄の頭を撫でた。いつでも静雄が眠れるように。
ここ最近ずっと静雄につきっきりだった臨也の疲労は強いだろうが、今のあの男がそう長く眠れるとも思えないし、それとは反対にもう何日も熱が引かない静雄は、瞼を伏せればすぐにでも眠ってしまいそうだった。新羅とこうして話せる時間は、あまり長くはない。
どうしても、答えを聞きたいことがあった。聞かなければいけないことがあったのだ。不安に押しつぶされそうになる心を叱咤して、静雄は新羅と視線を合わせる。そうして先ほどと同じ質問をぶつける。
「新羅。全部リセットした俺は、また臨也のことを忘れるのか」
やさしいカトレアの匂いが鼻先を掠める。甘くて、さみしい匂いだった。臨也が自分のために咲かせた花だ。
「忘れないためには、どうすればいい」
新羅はゆっくりと、瞼を伏せた。


臨也が起き出したのは、静雄と新羅が話し終えてから10分ほど経った頃だった。まだ眠たげに瞼を腫らせて、しかし静雄の傍にいようとする臨也に、新羅はまるで今まで静雄と語った内容などまったく感じさせない飄々とした表情で「おはよう」と告げ、その後すぐに去っていった。
「シズちゃん、起きてて平気なの」
「んー、眠いから、すぐ寝る」
「熱は?」
「朝よりはちょっと下がった。気がする」
臨也は静雄の額に手のひらをのせる。その整った眉が顰められたのを見て、静雄は自身の熱がまったく下がっていないことを悟った。体調は戻らない。静雄はそれを知っている。今の状況も、これから迎える悲しみも。
「新羅に診てもらって、ちょっと疲れたんでしょ。もう休みなよ」
「……うん」
静雄が素直に答えると、臨也は「俺はプリン、作るよ」と踵を返そうとする。その背に何気なく「臨也」と呼びかけると、臨也は振り返った。だが、自分が呼び止めたくせに、静雄にはそれ以上、続ける言葉がない。
そんな静雄の心持ちを悟ったのか、臨也はやわらかく息を吐き出すと、静雄の枕元に戻ってきた。そうしてこんなことを言う。
「ほんとのことを言えばね、俺は今でも、君を食べる夢を見るよ」
臨也はひとつ、静雄の頬を撫でた。新羅のそれとは異なる温度が、ゆるやかに肌を擽っていく。その心地よさに、静雄は眠気を覚えた。
「頭からがぶりと食べちゃえば、こんな思いしなくて済む」
瞼を伏せた静雄の耳元に、そんな声が降ってくる。
――さらわれた君を見つけ出したのは臨也だよ。
新羅はそう確かに告げた。臨也の能力を持ってすれば、日本国内なら静雄を見つけ出すまで2年も費やしたりしないはずだった。だがご丁寧に、静雄の体は欧州のはずれまで運ばれていた。
生体兵器でも作り出すつもりだったのかな、と冗談でもなさそうな口ぶりで新羅は言う。静雄をさらった組織がそこに連れて行ったというよりは、欧州の別組織に売り渡されていたというのが実情のようだ。
――臨也は君が消えてから、半狂乱で君を探していた。強制的に薬を打ち込まなければ、眠れないほどに憔悴していた。
あんなに憎悪して、殺し合うしかできないような仲だったのにね、と言った新羅の顔は、寂しげだった。
――とにかく臨也はやみくもに情報を集めて、ようやく君を見つけ出し、関係していた組織をすべて潰した。背筋に怖気が走るほど徹底的に。
臨也、と静雄はその名を呼んだ。眠気のせいか下がらない熱のせいか、思っていたより掠れた声になってしまった。
「なあに?」
「食べたくなったら、いつでも食べていい」
お前が必死に救い出し、守ってきた命なのだから。
だが臨也は肩をすくめるばかりだった。
「今の君は食べないよ。骨ばっかりで、全然美味しそうじゃない。俺は美食家なんだ」
「じゃあプリン、たくさん食べる。チョコ味がいい」
「チョコ? そんなの作ってないよ」
「チョコじゃなきゃダメだ」
「甘ければなんでもいいくせに、わがままだなシズちゃんは」
ぶつぶつと失礼な文句を言いながら去っていく背中を見送ってから、静雄はベッドの下に手を伸ばした。鏡の下から、薄いノートを取り出す。何の変哲もない、少し古びたノートだった。

臨也のことを忘れないためにはどうすればいい。そう尋ねた静雄に、新羅はこのノートを鞄から取り出して渡した。
――臨也は彼らしくもなく、大切なことを見落としているよ。まあ当時の彼の精神状態に鑑みれば、仕方ないことなんだけれど。
このノートはその鍵だと言う。平和島静雄のノートだった。
最初のページには、くせのない、思いのほかきれいな字で、こう書かれている。
『○月●日 頭痛、微熱。食欲がない。プリンは食える』
 次の行も似たような内容だった。だがページを捲るごとに、少しずつ、しかし確かに内容は影を負っていく。
『○月●日 頭痛。熱が高い。喉の痛み。プリンも食えない』
淡々とした文章の奥に、鏡に映っていたあの男が少しずつ萎れていく様が見えるようだった。
新羅は体調を崩し始めて相談してきた静雄に、体調について日々メモをとるようにと勧めた。静雄の特異体質について分からない点が多かったため、新羅としてもそのメモを読むことで何か参考にできることがあれば、と思っていたらしい。
――結局、そのメモは静雄の回復という点ではあまり役には立たなかったけれど。
新羅はそう言った。役に立たないと気付いた後も、静雄はメモを書き続けた。ページが進んでも変わらない短い文体で、体調が綴られていく。
その中でときおり、人の名前が混じるようになった。体調を記した後に、何の脈絡もなく、それは殴り書きのように書かれている。今の静雄が知らない名前が多いが、時折、新羅の名前も混じっている。
『○月●日 吐き気。体がダルい。幽。セルティ。トムさん。新羅。門田』
――問診をしていて気づいたんだけれど、静雄の異常は、身体だけにとどまらず、脳にも多少影響していた。記憶障害が出始めていた。少しずつ、覚えていたはずの人間のことを忘れていくんだ。
最初はテレビに映っていたアイドルを、やがて学生時代の友人のことを忘れていく。忘れたことにさえ気づかないままに。このメモは、その事実を新羅が静雄に告げたあたりから始まっていた。忘れたくない名前を、書いているのだ。
幽。門田。セルティ。トムさん。サイモン。新羅。ヴァローナ。九瑠璃。舞流。
綴る字は、体調を記す字よりも乱雑で、そのくせどこか、切実だった。その字を、静雄はただ目で追った。今の自分には分からない名前ばかりだ。けれどかつての自分は確かに、そのすべてを忘れたくなくて、忘れてたまるかという思いをこめて書いていた。
メモは次第に、体調のことから離れ、知り合いの名前ばかりが書かれるようになる。
――君の弟が手にし、役に立たせてほしいと僕に託したノートだけれど、これは君に返そう。臨也には内緒だよ。このノートのことを、彼は知らないから。
新羅もこのノートを見ていたのは初めの方だけで、それ以降に何が書かれているのか、静雄がさらわれた後で知ったのだと言う。
セルティ。幽。トムさん。ヴァローナ。新羅。ノミ蟲。
ふと捲ったページに、繰り返し書かれていた人名とは異なるおかしな文字を見つける。ノミ蟲。誰かの愛称だろうか。口の端にのせると、それは妙にしっくりときた。そのページを皮切りに、その文字は頻繁に記されるようになる。少しずつ、書かれる人名の数が減っているのは、忘れてきているからなのか。それでも、そのノミ蟲という言葉は消えず、何度も書かれていた。
今の静雄の中に、ノミ蟲、という言葉が指し示す意味は分からない。考えてみれば、静雄の中に今あるのは、新羅、臨也というふたつの名前だけだった。もともと静雄には、それ以上の人名は必要なかった。だから体が弱り、おそらく記憶障害が生じる段階になっているはずの今でも、ふたつきりのその名前を忘れることはないのだろう。
あるいは、やがてこの症状が出れば多くのことが失われてしまうことを知っていた臨也が、敢えて最低限の知識しか与えなかったのかもしれない。
ノミ蟲。誰か特定の人間のことを指しているのかどうかさえ分からないが、悪意さえ感じるはずのその綴りを見ていると、体の一番深いところに爪を差し込まれるような痛みを覚える。
最初の方の字とは異なり、乱れた筆体で書かれたその文字をなぞる。どうしてか脳裏を、臨也のあの厭味ったらしく整った横顔がよぎった。
――ごめんな、臨也。
いつか見た夢の中で、静雄はそう言っていた。置いていかなければならないことへなのか、忘れてしまうことへなのか。
あの男はまだ、プリンを作っているのだろう。鼻先にカトレアの匂いが掠める。泣きたくなるほど、やさしい匂いだった。





雨音が聞こえてくる。ひそやかで、穏やかな音だった。
ここのところ静雄のことを慮ってか外に出る仕事を避けていた臨也だが、今日は大手顧客からどうしても避けられない仕事を頼まれているらしく、久々に外出している。
すぐに帰ってくるから、暗くなる前には必ず帰るから、と何度も繰り返す臨也に「大丈夫だからさっさと行けよ」と呆れてベッドで手を振ったときには、まだ雨音はしなかったが、しばらくすると雨が降り出した。眠気を誘うような、柔らかな音だった。
雨音に包まれて、そのまま寝入りそうになってしまうが、静雄は自分の頬を軽くたたき自身を鼓舞し、ベッドから出る。まだ、歩ける。それを確認して、玄関のドアの前に立つ。通常なら臨也以外の人間が内側から開けることはかなわないその鍵を、静雄は渾身の力で壊して外に出た。めまいをやり過ごしながら、今日でよかった、と静雄は思う。もしあと数日遅ければ、もう出歩くことや、この鍵を壊すことは難しくなっているかもしれないから。
濡れたアスファルトのにおいがする。静雄は迷わずに道を進み、やがて小さな公園へと入った。それほどの大きさはない、滑り台とブランコ、鉄棒がぽつぽつと置かれているだけの児童公園である。人の気配はなくて、雨音しか聞こえては来ない。
今の静雄にはおもちゃのように小さく感じるブランコに腰掛けて、空を仰いで瞼を伏せる。頬を、まなじりを、雨がやさしくたたく。
こうして雨を感じるのは、静雄が体をリセットしてから目覚めてからは二度目のことだった。一度目はただ外の世界にあこがれ、あの家を飛び出してここにたどり着いた。あのときは、あの花の家への戻り方がわからずに、心細くて仕方がなかった。だが今は違う。もうすぐに、あの男が来るとわかっているから。
どれほどそうして過ごしていたのか、やがて誰かが走ってくる気配があった。「シズちゃん」
呼びかけているというよりは、叫んでいると言った方が正確だというような声が聞こえる。静雄は薄く瞼を開け、小さく笑んだ。待っていた男の声だった。
「シズちゃん、どうして」
あのときと同じようにきつく抱きしめられながら、男の声を聞く。どうして、待っていてくれなかったの。言葉の終わりは、切なく途切れて声になっていなかった。
臨也の体は静雄と負けないほどにびしょ濡れで、この男の焦燥が伝わってくる。ごめんな、と静雄は胸の中で謝った。幼い静雄には、これ以外の方法を知らなかった。
「俺を食うか、臨也」
「……シズちゃん」
「手前をおいてどこかに行こうとしたら、俺のことを食べるかも、って言っただろ」
かつて平和島静雄を食べた、と告げた臨也は、確かにそう言った。殺して、がりがり頭から食べちゃった。
「臨也。これが最後のチャンスだ。俺は手前を置いてあの家を出た。俺を食えばいい」
そうすれば、臨也はもう静雄に置いて行かれる恐怖から解放される。その決断を迫るために、静雄は今日、あの家を出た。静雄を捕まえて、そして保護してきた、あの甘くてやさしいにおいのする花の家から。
ゆるゆると活動を止めていく体が、そう遠くなく長い眠りに落ちるその前に、はっきりと臨也の願いを知りたかった。
「殺して、俺を食っていい」
臨也の肩を押して、静雄は臨也から体を少しだけ離す。するとすぐに、臨也の手のひらが静雄の首に触れた。指先に、力がこもる。静雄は瞼を伏せて、体から力を抜いた。
頬に、細かな雨粒が当たる。冷たいはずのその雨のしずくに、ふとあたたかなものが混じったように思えて静雄は瞼を開けた。
「殺せるなら、とっくに殺してたよ」
苦しい息の合間から、ようやく絞り出したような声だった。そこには確かに憎悪と諦念と、どうしようもない愛しさがねじ込まれている。
「それができれば、こんなに苦しくなかった」
その答えを、静雄は本当は、ずっと前から知っていた。それでも黙って、臨也の言葉の続きを待つ。
「それでもできないんだ。君がいない世界にいる俺を想像するだけで、どうしようもなく怖い」
その言葉を裏付けるように、首に触れる臨也の指先が震えている。
静雄が目覚めてから今までの時間で、知っていることはあまり多くはない。かつての平和島静雄が持っていた知識のほとんどは、失われてしまっている。
けれど、静雄だけが知っていることも、確かにある。それが臨也のことだった。折原臨也という男は饒舌で嫌みったらしく皮肉屋で気分屋で、さみしく、どうしようもなく弱い人間だった。
濡れて青白く骨張った、それでもしっかりとした男の手で、静雄は臨也の頬に触れる。濡れて冷たくなった手のひらでは、臨也の頬をあたためることさえかなわない。けれどそれでも、じっとふれあっていれば、静雄のぬくもりは臨也に伝わっていく。
「泣くな」
「泣いてないよ」
静雄以外には誰も見ていないのに、臨也は強がる。そっか、と静雄は言った。
「手前は、ほんと馬鹿だな」
最後の機会だった。今ここで静雄を殺すことができたなら、しばらく苦しんだとしても、臨也はいつか静雄のことを忘れられたかもしれない。けれど臨也はそれをせず、静雄のいる世界で苦しみ続けることを選んだ。
それなら、静雄も、自分ができることをするだけだ。
静雄は臨也の顔に自分の頬を寄せる。冷たい肌同士は、やがて雨に流されそうなほど小さなぬくもりを、それでも確かにはぐくんだ。


 ○


新羅から預けられた平和島静雄のノートは、真ん中あたりからは白紙になっている。最後のページにたどり着くことなく、静雄は長い眠りに落ちたのだ。
静雄の書く言葉は、ページを繰るごとにシンプルになっていき、やがて人名ばかりが目につくようになった。
人名の隙に、ノミ蟲、という不可思議な言葉が入る。それが何を意味するのか、それが誰を指すのか、今の静雄にははっきりとはわからない。けれど、何度も何度も記された言葉が、かつての静雄にとってどれほど深い意味を持つのか教えてくれる。
――ノミ蟲。ノミ蟲。
ペンを持つことさえしんどいのか、あるいは身近に迫ってきている忘却を意識して、心が乱れているのか。最初のページよりずっと乱雑な字で、何度もそれは繰り返され、やがてあるページの中段で、終わっている。
新羅は何を考えて、このノートを静雄に渡したのだろう。文字の書かれていないそのページの下段を何気なく目で追って、気まぐれにもう一枚ページをめくり、静雄は動きを止めた。
もうあとは空白ばかりだと思っていたのに、次のページにまだ文字が書かれていた。乱雑な、それでも確かに平和島静雄の字で、人名が記されている。知った、名前だった。なじみ深い名前だった。
――臨也。
それが、本当の最後の言葉だった。


 ○


まぶしさに目を覚ますと、鼻先を甘やかな匂いがかすめた。カトレアと、それからまた別の花のようだ。見ると、ベッド脇のテーブルには、カトレアとともに見知らぬ鉢が並んでいる。深い緑の葉の合間に、清廉とした印象をもたらす白い花が咲いている。
「クチナシだよ」
いつの間にか、枕元に臨也がいた。身をかがめて、静雄の顔をのぞき込んでいる。
「いつの間においたんだ」
「君が寝てるとき。ネット通販したからね」
植物の通販っていまいち信じられないけど、まあまあ元気な状態で届いたからよかった。相変わらず澄んだ嫌みな声でそんなことをつらつら言う。
静雄は瞼を閉じて、すん、と匂いをかぐ。
「いい匂いだな」
「もっと強い匂いがすると思ったけど、室内用に改良してあるのかもね」
「ふうん」
静雄の頬に触れる臨也の向こうにも、いくつかの鉢植えが増えているように思った。
この家には、花の匂いが満ちている。溶けてしまいそうなほどに優しい日差しが、臨也の夜明け前の一番闇が深い夜のような髪を透かしている。いやになるほど整った顔が、こんなときばかりやわらかく見えた。
ああ、好きだな、と思った。平和島静雄は、もう思い出せないほどに遠い昔から今にかけて、この男が好きなのだ。
臨也、とその名を呼んだ。臨也。
「なあに?」
「花、ありがとな」
「……なに、突然。気持ち悪い」
「手前はほんと素直じゃねえな……」
苛立たしい対応に、こめかみがぴくりと動いたが、深くため息をつくことで怒りを逃す。ただ、礼を言いたかった。
ふと、臨也が顔を近づけてくる。なんだ? と臨也の深い色をした瞳を見返していると、その輪郭がにじむほどに近づいて、こつん、と互いの額同士が触れた。シズちゃん、と男に呼ばれる。
こんなにも、いっそ狂おしいほどに切なくそう呼ばれてきたのに、どうしてかつての自分は、それは本当の自分の名ではないなどと思っていたのだろう。
静雄は顔を動かして、それから臨也の唇に自分のそれを押し当てた。触れ合ったのは一瞬だけで、すぐに離れていく。
これが特別な行為だと知っていた。ゆっくりと身を離した臨也は、一度だけきゅっと瞼を伏せて、それからまたいつもの顔に戻る。
一瞬の瞬きは、まるで涙をこらえるようだった。
「また、花、買ってきてくれ」
「もっとほしいの? 君は欲が深くて我がままだよね」
柔らかなため息交じりの声だった。
「うるせえな」
「まあいいけどね。……たくさん、買ってくるよ」
この家が花であふれかえるほど、たくさん。
臨也の言葉に、静雄はうなずいた。
花があふれて、甘く優しい匂いがずっとしていればいい。そうすれば静雄は、きっとその匂いに導かれてまた目を覚ます。
「臨也。プリン。抹茶味がいい」
「最近きみ、わがままに拍車かかってない? 作ってないよ、そんなの」
「絶対抹茶がいい」
「そんな渋い味、どこで覚えてきたの。わかったよ、作ればいいんだろ」
「キャラメルは黒蜜味な」
「はいはい。甘いものならなんだって好きなくせに」
呆れた声を上げながら、臨也が立ち上がる。その整った横顔が離れてしまうことがさみしくて、もう一度だけ、臨也、とその名を呼んだ。
「なあに」
答える声は、やさしい。
「臨也」
「なあにってば」
「臨也」
「うん」
何度呼んでも、臨也は応じる。それが少しだけ悲しくて、うれしい。
「何でもねえよ。プリン、待ってる」
はいはい、と臨也は肩をわざとらしく竦めながら応じて、今度こそゆっくりと、その体は離れていった。
静雄は嘘が下手だ。嘘をつく器用さを持っていない。だから、もしかしたら臨也は、分かっていたのかもしれない。いろんなことを。自分が平和島静雄であることに、かつて臨也の体に傷を負わせた静雄自身であると気づいていることも。
そしてもう、プリンを待っていることもできないことも。
静雄は枕の下に隠したノートを取り出す。かつての平和島静雄が書き始めたノート。静雄は、中盤で途切れていたそのノートを何ページも書き足した。それでも最後のページまではたどり着かなかったけれど。
でもきっと、それでいい。次に起きたとき、また静雄は同じ言葉を何度も何度も書き足すだろうから。

新羅は言った。臨也は彼らしくもなく、大切なことを見落としている、と。 組織から平和島静雄を保護したとき、臨也は実験室のようなところにぼんやりと取り残されていた静雄を、半狂乱で抱きしめていた。
「本当に、あのときの臨也は喜びと安堵の中にあって、正気ではなかった。だから覚えていないんだよ。静雄。君はね、抱きしめてきたその男に対して、臨也、と呼びかけたんだ」
小さな声で、一度だけ。
その後、保護した静雄の様態を診た新羅の診察では、静雄はほとんどの記憶をすっかりと失っており、精神は幼くなっていた。それでも、確かに、静雄はその名を呼んだのだ。
「静雄。どうすれば臨也を忘れずにすむかと君は聞いたね。それに対する答えを、僕は持っていない。けれど、静雄。君は臨也の名を、僕が教える前から知っていたよ」
どうしてなのか、その理由を探ることはきっと野暮だ。そう言って、新羅はノートを渡してくれた。

今の静雄には、保護された当時の記憶はない。だから臨也の名を呼んだという自覚はない。けれど、確かに静雄にとって、臨也というのは、まるで心臓の一番深いところに直接ナイフで刻みつけられたように、ずっと自分の中にあった名前だった。その名を呼ぶたびに感情を揺さぶられるほど。
ノートに書かれた最後の言葉は、臨也という二文字だった。すべての記憶を失っていく静雄が、これだけは忘れてたまるかと縋るように書いた名前だった。どんな形であれ、それほどに、彼は臨也を想っていた。

曇りガラスを透かして入り込む日差しがやさしくて、眠気を誘われる。ともすればゆるりと瞼を伏せたくなるそれにあらがいながら、静雄は自分が文字を書いた最後のページを開く。何ページにもわたって書き足したその文字は、二文字だけ。
――臨也。
その名を、何度も何度も、体力が許す限り書いてきた。
これがきっと最後だ。静雄はもう一度、男の名前を記す。臨也。指先に力が入らなくて、線はわずかに曲がってしまったけれど、それでも確かに、その名を記せた。
これで、大丈夫だ。体の奥に刻まれたその文字を、また深くなぞることができた。だからきっと、次に目覚めたときもまた覚えていることができる。
静雄はそのノートを、鏡とともにベッドの下に戻した。かつての平和島静雄の、そして今の自分の想いをひたすら書き込んだノートだ。なんとなく、臨也に見られるのは癪だった。新羅が見つけてくれればいい。そしてまた、静雄に渡してくれればいい。そう願う。
今度こそ、静雄は枕に頭を沈める。苦痛は遠く、ただひたすら、眠かった。長い眠りの気配がする。
ふと、今このときに、臨也の顔を見られないことがさみしく思われて、思わず臨也、と口にする。眠りに落ちる姿を彼に見せることは残酷だからそれだけはしないと決めていたのに、やはりどうしても、彼の姿が見たかった。
だが不意に、鼻先を花の優しい匂いが掠めた。静雄はゆっくりと息を吐き出す。彼が静雄のために集めた花に囲まれている。この匂いに導かれて、きっとまた静雄は目覚める。それまで少しだけ、眠るのだ。
臨也。その名をもう一度、声には出さずに唇に乗せる。応えるように、またやさしく花が香った。
少しだけさみしい。けれど、また会える。静雄はゆっくりと、瞼を伏せた。



 ○


ほのかに甘い香りがする。誰かにやさしく呼びかけられた。泣きたくなるほど、やさしく。
瞼を開けたら眩しかった。日差しが曇りガラスを透かして、さらりとヴェールのように頬を撫でる。その淡い光の中に、彼がいた。
「ねえ、聞こえる?」
湿った、涙を帯びたような声だった。聞こえる。そう答えたいのに、喉が渇いてうまく声を出せなかった。
「ねえ……シズちゃん。聞こえる?」
聞こえる。聞こえるから、そんな顔で泣くな。
告げたいことは次から次に浮かぶはずなのに、透き通る日差しにさわさわと溶け出して、何も言葉を結べない。それでも、何もかもが溶け出ても、ただひとつ、残っているものがある。深くふかく刻まれた言葉が、ある。
縮こまっていた肺に思い切り酸素を送り込んで、その残されたたったひとつの言葉を、口にした。
「……いざや」
ほかの何も言葉にはできず、ただ彼の名だけを呼ぶ。他には何の言葉も出てこない。ただその名だけが、残されたすべてだった。
眩しい日差しの中で、彼が、泣きながら微笑むのが見えた。



(花の家 4)
(2017/07/16)






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