花の家 | ナノ




臨也がカトレアの鉢植えを静雄の枕元に持ってきたのは、その翌日のことだった。
静雄の部屋にもともとあった切り花や鉢植えは、静雄が体調を崩している間に枯れてしまった。そして臨也は静雄に付ききりで外に出てはいないため、花を買う暇もなかったのだろう。だから久々に、静雄は静雄は瑞々しい葉に触れた。
「まだ、咲かねえのか」
「うん、間もなくのはずなんだけどね」
蕾はすっかり薄紫に色づいて、膨らんでいる。本当ならずっと前に咲いている予定だったのだが、気温が低い日が続いたのか、なかなか咲かなかったのだという。
「咲いたら、君がすぐに見られるように」
そんなことを言って、臨也はそれを静雄の枕元に置いた。


夢を、見ていた。夢の中で静雄は、泣きそうになりながら臨也に謝っている。ごめんな。ごめんな、臨也。そう、何度も口にしているのだ。だから静雄は、あの日、黙ってこの花の家を出てしまった日のことを夢に見ているのだと思っていた。それなら、もう臨也は許してくれたはずだ。そう静雄は思うのだが、夢の中の静雄は謝ることをやめない。
理由もなく、自分が臨也に謝るはずがない。だからきっと自分は、臨也にとてもひどいことをしてしまったのだろう。臨也は、じっと静雄を見ている。その顔には、いつもの腹の立つ笑みは浮かんではいなかった。何の表情も浮かべてはいない。ただ、手のひらをぎゅっと握りしめていた。ああ、泣くのをこらえているのか。何故か静雄は、そう思った。
ごめんな。今度こそ、もう――。


いい匂いがして、静雄は目を覚ます。すぐそばに、臨也の顔があった。静雄の眠るベッドに顔だけを突っ伏して眠っているようだった。一晩、ここにいたのだろうか。
擦りガラスの向こうは、藍よりも少し明るい、というような青に染まっている。早朝だと悟った。そして首を巡らせて、静雄は、このいい匂いの正体に気付く。枕元に置かれたカトレアが、ほんのわずかに、花びらを開きかけている。そこから、やさしい芳香が零れてきているのだ。
ようやく咲いた、と臨也を揺り起こそうとして、だがその頬に疲労が滲んでいて、静雄は動きを止める。たぶん、臨也は仕事もせずにずっとここで静雄を看ていたのだろう。
そう思うと、胸の奥が熱くなり、同時に痛みを覚える。その熱さと痛みを、どう表現すればいいのか静雄には分からない。だからただ、手を伸ばして臨也の頬に触れた。臨也は目を覚まさない。
臨也に触れたのは、初めてのことではない。静雄がこの家に来てから共に過ごし、それこそ数えきれないほどに触れ合った。それなのに今、早朝の青の澄んだ空気の中で、臨也が静雄に見せるために買ってきた花の匂いがしている。ひどく世界がやさしくて、涙が滲みそうだった。
臨也から、離れる夢を見たように思う。悲しい夢だった。その夢の名残を振り払うように、静雄は臨也の頬に身を寄せる。君が俺を置いていこうとしたら食べちゃうかも、と臨也は言った。だがきっとこの男には、それはできないだろうと、静雄は知っていた。臨也は静雄をこの家に閉じ込めて、静雄から外の世界と澄んだ空を奪った。それでも臨也は、静雄のためにこの家を花で満たした。慈しまれていると知っている。きっと、臨也に自分を殺して食べることはできない。
だったら、静雄が彼の傍を離れなければいいだけだ。少しずつ眠っている時間が多くなって、体と自分の意識が離れているような時間が長くなってきている。それでも、臨也の傍は、離れない。冷たそうな見た目に反して、あたたかな頬に触れながら、そう思う。
空が明るくなってきて、夜の気配が薄れていく。朝が来たら、臨也を起こそう。それまではもう少し、こうして傍にいる。そう決めてから、静雄はベッドの下に手を伸ばす。そこに、新羅からもらった包みが入っている。
――君が、何があっても臨也の傍を離れないって、そう決めたら、開けるんだよ。
そう言われて渡されたものだ。ずっと体が不調で、いつまで臨也の傍にいられるか分からないという不安があったから、その包みを開けることはできなかった。だが、今なら開けられる。そう考えて、静雄はその包みに指を伸ばす。

新羅が自身で包んだのか、それほど丁寧ではなく巻かれた白い包み紙を外すと、小さな木の枠が出てきた。それを覗き込み、静雄は動きを止めた。

木の枠の中から、白い顔をした男がこちらを見ている。少し頬のあたりがこけた、焦げ茶色の瞳をした男だった。




あたたかな肌が静雄の額に触れる。臨也かと思ったが、温度が違う。臨也の手は、もっと冷たい。体温が低めなのだ、という話をしたことを覚えている。これは、臨也ではなく新羅の手だ。
ほんとは、私も体温は低いほうなのだけれど。新羅はきらきらと輝く秘密を打ち明けるような顔で言った。
新羅は医者で、人の肌に直接触れる機会が多い。そのときに指先が冷たいと、相手を驚かせてしまう。だから一生懸命に生姜を食べたりして体を温めるようにしているのだそうだ。
――だから、ほら。今はあったかいだろ?
そう言って静雄の頬に触れてきたそのときの新羅の指のあたたかさを、よく覚えている。
新羅はけして優しい人間でもないし、静雄の理解できない難しい言葉を重ねてぺらぺらと喋り静雄の苛立ちを煽る。そんな新羅の態度に腹を立てたことは一度や二度ではない。それでも、静雄は新羅のことをそれなりに好きだった。
新羅にとっては静雄も臨也も、一番大切な存在ではないのだろうが、それでも彼が、自分たちのことをそれなりに大切に思ってくれていることは知っている。静雄の額にそのあたたかな手が触れるたびに、彼が自分を慈しんでくれていることを感じるのだ。それはいっそ、泣きたくなるほどに。
だから、彼には告げなくてはならない。静雄は残されたちっぽけな力を振り絞って瞼を開けて、新羅の手を掴んだ。
「……! 静雄、起きたのかい?」
目を見開いた新羅の顔が、みるみるうちに安堵のそれに変わる。新羅はそれを誤魔化すようにいつもの軽い笑みを浮かべてみたが、小さく吐き出された安堵の吐息は隠しようがなかった。
「しんら」
「すぐに臨也を呼んでくるね。……臨也もあんまり眠れていないみたいでね、……ちょっと弱ってたから、寝なよって言っておいたんだ」
「待て、新羅」
「……静雄?」
話したいことがある、と静かに呼びかけると、新羅は怪訝な顔をしながら静雄の頬に触れる。「どうしたんだい、静雄?」
その手はやはりあたたかくて、その声はやさしかった。静雄が知る新羅は、ずっとこうだ。苛立つ存在で、それでも、ずっと、やさしい。新羅はこの距離で、ずっと臨也と静雄の傍にいたのだろう。それなら静雄は、彼には告げなければならない。
「新羅、俺は……臨也の傍に、いる。何があっても、ぜったい」
「……静雄」
動きを止めて、新羅はじっと静雄の顔を見る。静雄は首を巡らせて、ベッドサイドに置かれたカトレアを見た。薄い紫の花びらからは、やさしい香りがしている。その奥の窓辺には、薄紅色のシクラメンが見えた。曇りガラスの薄い白の前で、その花の色はよく映える。
この家は、花の家だ。美しい花に囲まれて、それでも静雄は、空を見ることは叶わない。それは臨也が、静雄を逃がさないためにそうしているのだと思っていた。
「……新羅、俺はもう、臨也のこと、忘れたくない」
どうすればいい。としか問えない自分の幼さが悲しかった。新羅は一瞬だけ辛そうに眉根を寄せて、目を逸らす。その仕草で、新羅にもどうすることもできない自分の状態を知らされる。

新羅からもらったあの木の枠の中から、焦げ茶色の瞳をした男はじっとこちらを見上げていた。それは、静雄が目を見開くと、同じように目を見開いてくる。それが鏡だと、静雄は知識として知っていた。だがそれは、静雄にとって、馴染のないものだった。この家には、鏡がない。そのことの不自然さに、それまで気付かなかった。
この家のすべての窓に嵌っているのは擦りガラスだ。それは臨也が静雄に外の世界を見せないようにそうしているのだと思っていた。自分の手元にずっと置いておくために。だが、新羅に渡された鏡を覗き込んだときに、静雄は気付いた。擦りガラスは静雄を捕えるためのものではない。あれは、静雄が透明なガラスに映った自分の姿を見ないようにするためのものだったのだ。

鏡の中の静雄は、少しだけ痩せた、大人の男の顔をしていた。


(花の家 3)
(2012/07/19)






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