花の家 | ナノ




カトレアの鉢植えは、まだ咲かない。薄紫に色づいた蕾は、今にも開きそうなのに、なかなか綻びはじめない。その花が咲くのを今か今かと待ちわびていたのだが、そのうちに静雄は体を壊して寝付いてしまった。
「……静雄、お薬出しておくから、飲むんだよ?」
「苦いか?」
「君のために、甘くしておいたよ」
私は薬剤師ではないのに、本当に君は無理難題を押し付ける、と白衣の男は苦笑する。
この男は、どうにもいまいち信用できない匂いがするが、それでも静雄は、この男のことがそれなりに好きだった。名前を、新羅と言うらしい。年齢も、恐らく臨也と同じくらいだろう。臨也の古くからの知り合いなのだという。
「だから、しっかり飲んで。ね?」
ベッドに寝付いた静雄に、新羅は優しげに声を掛ける。静雄は瞼を伏せて、ひとつ小さく頷いた。
体調を崩すことなど、今までにはなかった。新羅はこれまでも定期的にこの家を訪れては静雄の体調などを気にかけていたが、それでもいつも静雄は元気だったはずだ。だから新羅も、いつもはこんなに、頑是ない子供をあやすような、嘘くさい笑みを向けてはこなかった。新羅の態度から、静雄は自分の体調があまり芳しくないことを悟る。
「臨也、何してる?」
「うーん……今は、プリン作ってるよ。君の好物だろ?」
「あいつ、仕事はいいのか」
「さあ。僕には分からないけど、でもまあ今の様子じゃ、仕事なんて手につかないだろうしね」
恐らく静雄が心配をかけているからだろう。早く元気になりたいと思うのだが、どうにも、もう長い間ずっと体が重い。
「なあ、新羅」
「なあに?」
俺はいつ、元気になる?
そう問おうとして、静雄は言葉を切った。その先を聞いてしまうのが、少しだけ、怖かった。
新羅の態度は胡散臭いが、それでもこの男は静雄にあまり嘘はつかない。だから余計に、静雄はそれを聞いてしまうのが、怖かったのだ。
以前、静雄は訪ねてきた新羅にこう聞いたことがある。
――本当の平和島静雄は、どこにいったんだ?
その時の新羅は、静雄の顔を見つめたまま、困った顔をしていた。これで意思の固い男なので、恐らく答える気はないのだろう。幼いなりに静雄はそれを悟り、質問を変えた。
――俺は、ヘイワジマシズオの何なんだ?
――どうしてそんなことを気にするの?
――臨也は、俺を見るとたまに泣きそうな顔をする。俺とそのシズオって奴は、そんなに似てるのか?
それはずっと考えていたことだった。あるいは静雄は、そのヘイワジマシズオの子供か何かなのだろう。そう、見切りをつけていたのだ。
すると新羅は、ぐっと顔をゆがめて泣きそうに笑った。臨也と同じで飄々とした顔ばかりしているこの男のそんな顔を見るのは初めてで、静雄は驚く。
――君は、賢いね。
絞り出すような声でそう言ってから、新羅はぎゅっと静雄の体を抱きしめてきた。必要以上に接触をしてはこない新羅からの抱擁に、静雄は身を固まらせる。新羅はそんな静雄の頭を撫でながら、湿っぽい声で、「君は、臨也の傍にいてやってね」と言った。

いつまで経っても、「なあ、新羅」という言葉の続きを口にしない静雄に、新羅は不思議そうな顔をしていたが、そろそろ次の仕事があるのか、ふと自分の腕時計を見て、新羅は帰り支度を始めた。
「じゃあ、私はまた二日後にはくるから、君は嫌がらずにお薬飲むんだよ?」
「……分かった」
薬は、その響きからして嫌いだ。それでも、新羅が甘く作ってくれたというのなら、飲もう。静雄はそう思う。何より、今階下で必死にプリンを作っている臨也のためにも、飲もう。
そう思っていると、ふと新羅が、ためらいがちに何か平べったいものを鞄から取り出したことに気付いた。白い包み紙に包まれた、臨也がいつも読んでいる小難しげな本よりも小さいくらいのものだ。新羅はそれを、静雄に差し出してきた。
「……なんだ?」
「だいぶ遅れちゃったけど、君への誕生日プレゼントだよ」
「誕生日? 俺の?」
自分にそんなものがあることなど、静雄は知らなかった。
「そう。……ただ、これが君にとって、嬉しいものかは分からない。もしかしたら君にこれを与えることで、臨也は俺を生涯許さないかもしれない。でも、……君にも、知る権利があると思うんだよ」
新羅が何を言っているのか、静雄には分からない。ただ、新羅の瞳が悲しいほどにまっすぐで、静雄は息をのむ。
「いいかい。君が、何があっても臨也の傍を離れないって、そう決めたら、開けるんだよ。それまでは、隠しておいてね」
やさしくも悲しい瞳で言われて、静雄はじっとその目を見返しながら、ひとつ頷いた。


「シズちゃん、起きてる? プリン、食べられそう?」
新羅が去ってすぐに、小さなトレイにプリンのカップを載せて、臨也が入ってきた。静雄はベッドの上に上半身を起こし、「ああ」と答える。体は重いが、好物を食べられないほどではない。
その答えを聞いて、臨也は安堵したような笑みを浮かべて、サイドテーブルにそのトレイを置いた。甘い香りが鼻腔をくすぐる。トレイに乗せられていたのは、見た目は市販のものとそう変わらない、完璧なプリンだった。
かつて、静雄がこの家に連れられてきた頃には、臨也は自分が甘いものを好まないためか、プリンなど作れなかった。静雄が作ってほしいと頼んでもいい顔をしなかったし、実際に作られたものも、妙に茶色かったり、硬かったりと、お世辞にも美味しいとは言えないものばかりだった。それでも静雄は臨也にプリンを作ってくれとねだり続けて、今では市販のもの劣らないようなプリンが出てくる。それだけの時間を一緒にいたのだと思う。それだけの時間を、臨也は自分に費やしたのだと思う。すると、不思議に瞼の裏が熱くなる。
先ほど、新羅が来ているときにも臨也はプリンを作っていたと聞いたが、プリンは固まらせるのに時間がかかる。だとすれば今、静雄の目の前にあるこれは、もっと前に臨也が作ったものなのだろう。きっと、今この家にある冷蔵庫は、プリンだらけだ。
「……臨也」
「なに?」
「……なんでもねえよ」
臨也が何歳なのか、正確には静雄は知らない。だが、時折酒を飲んでいる姿を見るし、話しを聞いている限りでは、30は超しているはずだ。そんな男が、ずっとプリンを作っているのかと思うと、なんだか不思議だ。だが、笑う気にはなれなかった。
「うまいな」
「よかった。……君はほんと、甘いもの好きだよねえ。見てるこっちが気分悪くなりそうだよ」
嫌味なことを言いながらも、臨也の目はやさしい。静雄はプリンを必死に咀嚼した。そうしないと、なんだか泣いてしまいそうだった。食べ終わると、もう寝ろと臨也は言う。それに従って体を横たえると、臨也がベッドに腰掛けて、静雄の髪を梳く。
「……あのカトレア、咲きそうだよ」
「そっか」
見てえな。そう呟きながら、静雄は瞼を伏せる。
臨也が、他でもない自分のために買ったその花は、どんな匂いがするのだろう。やさしい匂いだろうか。そんなことを考えながら、静雄はまた眠りについた。


具合は、なかなか良くならない。ぐずぐずと眠っては、ほんのわずかな時間だけ起きる。そんなことを繰り返していた。
そうしてようやく目覚めると、夜なのかあたりは暗い。発熱しているのか喉が渇いて、静雄は上半身を起こした。眩暈がするが、それ以上に喉が痛い。
静雄は何とか体を起こし、階段を降りて階下に向かう。すると、リビングの方から密やかな話声が聞こえてきた。この家で、静雄と臨也の会話以外の声が聞こえることは珍しい。静雄は無意識のうちに耳をそばだてる。すぐにそれが、臨也と新羅の声だと気付いた。
「あの時の、――シズちゃんの症状と同じだ」
「……そうだね」
「ねえ新羅、止める術は、ないの?」
そこで沈黙が落ちる。静雄はその場に留まったまま、会話の続きを待つ。すると臨也は、深く重いため息を吐いてから、「また、置いて行かれるんだね」と呟いた。
「……臨也。今はあの組織は君が潰してもうない。だから、静雄をさらわれることはないよ」
「それでも、変わらない。……新羅。俺はまた、あと何年待つことになる?」
それは、苦しみと悲しみをこらえてこらえて、こらえきれずにとうとう零れてしまった、そんな声だった。静雄は足音を立てないようにゆっくりとその場を離れ、自室のベッドに戻る。
ふたりの会話のことは、静雄には理解できなかったところが多い。ただ分かったことは、恐らく自分は、そう遠からずに臨也のもとを離れることになるのだろう、ということだった。それが、どういう形なのかは分からないが。
シーツを被っても、脳内にあの臨也の苦しげな声が聞こえ続けていた。

それからまた、少しの間静雄は眠っていたらしい。臨也に「シズちゃん」と呼ばれる声で目を覚ました。
「……いざや?」
「薬、飲んでないでしょ? 飲んでから、またおやすみ」
新羅は帰ったのだろうか。気になったが、立ち聞きしてたことを隠していたいので、聞くことはできない。ただ瞼を擦ってから、臨也から渡された粉末の薬を飲みこんだ。
「今はどこも、苦しくない?」
「うん」
「そう」
薬を飲んだのを確認すると、臨也はゆっくりと静雄の肩を撫でる。その仕草がやさしくて、静雄はまたとろりと睡魔に引きずられるのを感じた。それに呑み込まれてしまう前に、静雄は口を開く。
「いざや」
「なあに」
臨也の腕を掴んで、静雄は臨也と視線を合わせる。
「臨也。俺のこと、食べてもいいんだぞ」
「……何、言ってるの」
「俺じゃない静雄みたいに、頭からがりがり、食べていい」
それは幼いなりに静雄が出した、心からの想いだった。それ以外に、静雄は自身の想いを口にする言葉を、知らなかった。
じっとまっすぐに臨也を見ると、臨也は強張らせていた体をほどき、幾度か唇を動かして、それからようやく「シズちゃん」と口にする。
「……馬鹿だな、シズちゃん」
「馬鹿っていう方が馬鹿だ」
「……そうだね」
痛みを覚えるほどの力で、思いきり抱きしめられる。静雄の額に寄せられた臨也の肩は、小さく震えていた。静雄は瞼を伏せる。
平和島静雄を殺して、頭からがりがりと食べてしまった、と臨也は言った。それが嘘だと、静雄は知っていた。この男が、それをできたなら、今こうして静雄にその面影を見ながら、こんな風に苦しんだりはしていないのだろう。
きっと臨也は、かつて本気で平和島静雄を殺そうと思ったはずだ。置いて行かれるくらいならば、殺してしまいたかったはずなのだ。だがそれができなかった。だから臨也は、静雄が自分から離れることを、異常なほどに恐れているのだ。

臨也。俺を食べていい。離れないですむように。
それは本気の想いだった。


(花の家 2)
(2012/05/12)

すみません全4話になりそうです…。






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