花の家 | ナノ


※オリジナル色の強い幼い静雄と三十路に入った臨也さんの話。超どシリアスです。死にネタではないです。パラレルでもないです。


瞼を開けたら眩しかった。眩しい光の中に、彼がいた。
ねえ、聞こえる? 泣きたくなるほど優しい声でそう問われる。ねえ……聞こえる? そんな声が、静雄を呼んでいる。湿った、涙を帯びたような声だった。聞こえる。そう答えたいのにできなかった。うまく声が出ない。だから代わりに、必死に顎を動かして頷く。聞こえる。喉が渇いて声が出ない。眩しい。言いたいことはたくさんあったのに、どれも言葉を結ばない。
「ねえ、…シズちゃん。聞こえる?」
聞こえる。聞こえるから。だから、そんな顔で、泣くな。
「……いざや」
言いたいことはうまく言葉にはできず、ただ彼の名だけを呼んだ。何の言葉も、出てこない。ただその名だけが、残されたすべてのものだった。
眩しい日差しの中で、彼が、泣きながら微笑むのが見えた。





擦りガラスの向こうから差し込む光がまぶしい。静雄は勢いをつけてベッドから降りて、隣室の臨也の部屋に向かった。静雄の朝は、臨也を起こすことから始まる。
ドアノブを開けるが、遮光カーテンのしっかり閉められたその部屋は暗い。静雄はカーテンを開けて擦りガラス越しの朝の光を暗い部屋に入れ、ベッドの上に丸まっているシーツの上に飛び乗った。
「…ぐ……っ」
「起きろよ、臨也! 朝だぞ!」
低く呻いた臨也の頬を軽くつねると、目の下をひくひくと痙攣させながら臨也が静雄の胸のあたりを押し、自分の上から退かせる。
「シズちゃん……前にも言ったと思うんだけど、君のその起こし方だと、そう遠くない未来に俺は死ぬんじゃないかな?」
「手前しぶとそうだから大丈夫だろ」
「いやでも、俺もそろそろ年がね? いや、まだ全然若いけど。この前も取引先に20代って嘯いたら信じてもらえたし」
「しゃこうじれい、ってやつじゃねえのか」
「シズちゃん君、いったいどこでそんな言葉覚えたの。俺かなしいんだけど」
ぶつぶつと言っている臨也を無視して、静雄はキッチンに向かう。ダイニングのテーブルに置かれた花瓶に挿されたフリージアのやさしいオレンジ色が、朝日を浴びて鮮やかだった。

この家は花に満ちている。リビングに、キッチンに、臨也と静雄それぞれの部屋に、切り花も鉢植えも多くある。
この家の主の臨也に、花をめでる趣味はない。だが、そんな臨也が家を空けては新しい花を買って帰ってくるのは、ひとえに静雄のためだった。静雄は、外に出ることはない。更に、この家は日当たりがいいが、窓はすべて擦りガラスで、外の様子も見られない。臨也は仕事で家を空けていることも多く、たとえ家にいたとしても部屋にひきこもっている時間が長い。静雄にとっては、つまらなくて一日が長いのだ。
そんな静雄を慮って、ある日臨也が花を買ってきた。静雄は花をもらって喜ぶような繊細さは持ち合わせていないが、だが不貞腐れていた精神に、やさしい香りのするヒヤシンスの花は確かに安らぎをもたらした。
それ以来、臨也は何かと言えば花を買ってくるようになったのだ。


「また、ニンジン残してんじゃねえか」
「……シズちゃんにあげるよ」
「いい年して、好き嫌い言うな!」
朝食をとりながら、静雄の方に臨也が押し出してきた皿を静雄は注意しながら押し返す。以前、同じようなやりとりで、静雄が力を込めて押し返したら、皿が砕けてしまったことがあった。それもこれも、もういい大人なのに好き嫌いの多い臨也が悪い。
だがそれでも、野菜には手を付けようとしない臨也に呆れ、静雄は仕方なくフォークをその皿に乗っているニンジンに伸ばす。静雄は偏食の気はないが、ありがちなことにニンジンは苦手だ。それでも必死にそれを咀嚼すると、その様子を臨也が笑みを浮かべながら見ていた。手前の代わりに食ってやったんだぞ! そう文句を言ってやりたいのに、その顔があまりに優しげなので、静雄は言葉を飲み込んだ。


「シズちゃん」と臨也は自分のことを呼ぶ。平和島静雄だから、シズちゃん、なのだそうだ。だがそれは、静雄の名前ではない。少なくとも、臨也に会うまでは、自分には他の名前があったはずなのだ。
だが静雄は、その名前を思い出せない。静雄はずっと、どこか白い部屋で過ごしてきた。恐らく物心がつく前からずっと。だから、静雄の具体的な記憶は、あの神経質な白い部屋に、この異質な黒い衣服の男が入ってきて、「シズちゃん」と言いながら手を差し伸べてきたところから始まっている。ぼんやりと思い出せるその前の記憶は、よく知らない白衣姿の人間が何人かやってきては静雄の体を調べているが、その中の誰も、自分のことを静雄、とは呼ばなかった。
静雄というのは、誰か別の人間の名前なのだろう。静雄がそれに気づいたのは、けして最近のことではない。
あれは、臨也が静雄をあの場所から出してこの家に連れてきて、数か月経った頃だった。まだ何も分からずぼんやりと過ごしている静雄の体を、臨也が腕まくりをして洗っていた。その時に静雄は、臨也の肘の下あたりについている数センチ大の傷跡に気付いた。何かひどいやけどの痕に見えたが、広範囲に傷ついた皮膚がいびつに再生したのかもしれない。
「…どうしたんだ、それ」
尋ねると、臨也は静雄の髪を洗う動きを止めて、自身の腕を持ち上げた。
「これ? シズちゃんにやられた」
その頃、すでにシズちゃん、というその気に食わない呼称で呼ばれていた静雄は驚いて顔を上げる。
「俺? 俺がやったのか?」
「……ああ、違うよ。君じゃない」
臨也がそう言って、妙に寂しげに笑うので、静雄はそれ以上聞けなかった。
それから臨也が、ふとその傷跡を見るようなしぐさをしている時間が多いことに、気付いた。
その傷をつけたのは、自分ではない。少なくとも静雄に、そんな記憶はない。自分以外の“シズちゃん”がそれを付けたのだ。そしてその“シズちゃん”が、臨也にとってどれほど大きな存在だったのか、彼が自分の傷を見るときのその愛おしげな視線から知らされるのだ。


朝食後、ソファに座っていると、一度は自室に引っ込んだ臨也がやってきた。今日は仕事で家を離れる日らしい。黒いシャツの上に、同じく黒いコートを引っ掛けながら、「ちょっと厄介な仕事だから、遅くまで帰れないと思う」と言った。
「……晩飯は?」
「そうだな、多分、帰れない。日付変わる前に帰って来られたらいい方って感じだから、シズちゃんは眠っていて。いいね? 夕飯は、ハンバーグあるからそれ食べて」
静雄は返事をせずに押し黙る。ハンバーグは、静雄の好物だ。それでも、ひとりでそれを食べるのは、好きではない。返事をしない静雄に、臨也はひとつ小さくため息をついてから、身を屈めて、ソファに座る静雄と目線を同じくして、言い聞かせるように言う。
「……シズちゃん、いい子だから、ね? 今日は特別に、君の好きなプリンをふたつ、食べてもいい」
「……分かった」
本当は、ひとりで食べるプリンも、それほど好きではない。だがこれ以上言っても、臨也を困らせるだけだということも、分かっている。だから静雄が小さくひとつ頷くと、臨也はようやく安堵した顔をした。

「じゃあ、行ってくるから。いいね、ご飯食べて、夜の十時にはベッドに入るんだよ」
「分かってるって、早く行けよ」
何度も同じことを言う臨也に呆れて、静雄は玄関先でひらひらと手を振る。臨也は何度も振り返りながら、ようやく家を後にした。ゆっくりと、重い玄関扉が閉まってゆく。臨也の上に見えていた、澄んだ薄い青の空が見えなくなり、視界が暗い色をしたドアに潰された。直後、がちゃりと臨也が外側から鍵を閉める音が聞こえた。
そのドアに背を向けて、静かなリビングに戻りながら静雄は、そういえば青い空を見たのは久しぶりだな、と考えていた。臨也が外にでるときはいつも見送りに出るが、ここの所、臨也はずっと家にいた。だから静雄は、玄関先から空を見ることなどほとんどなかったのだ。
この家は、花と光に満ちてはいるが、その窓ガラスはすべてすりガラスで、美しい空はぼんやりと霞んでしか見えない。そして静雄は、この家の外に出ることはなかった。だから静雄は、空を、見ない。

この家には花も、本もテレビも漫画もゲームもある。だが、静雄が外に出ることは、できない。臨也がそれを許さないのだ。君はここにいて。俺の傍にいて。臨也はそう言う。静雄は、その言葉にとらわれるように、この家を離れることができないのだ。
どうして臨也がそんなことを言うのか、静雄には分からない。この家は何もかもがそろっているが、幼い静雄にとってはやはり外の世界と言うのは格別の魅力を持っている。だからこの家に来てしばらくしてから、静雄は何度も臨也に、外に出たいと頼んだ。だがそのたびに臨也は、きつく眉根を寄せて、首を横に振るばかりだったのだ。
駄目だと言われれば余計に外の世界への憧憬は募る。だから静雄は一度、この家から抜け出したことがある。もうずっと前の話だ。
臨也はいつだってこの家から出るときに外から鍵をかける。それは特殊な鍵らしく、内側から開けることはできない。だが静雄には、特殊な力があった。鉄さえも指先ひとつで曲げられる。怒れば見境なく物を破壊し、ベッドや冷蔵庫も無意識のうちに持ち上げてしまう。そんな力だ。これは、静雄にとっても忌まわしい力で、恐らくこの力ゆえに、臨也の家に来る前はあの白いばかりの部屋に閉じ込められていたのだろうと悟っている。
あの白い部屋は、静雄の力を考慮して作られているのか、静雄がどれほど暴れても、出ることはできなかった。だが、この臨也の家は違う。あの玄関の重い扉は、外から鍵をかけることはできるが、それでも静雄が力を込めて押せば、簡単に曲げて開けることができる。それを静雄は知っていた。あの日、臨也がこの家を出てから、静雄はそれを実行したのだ。
硝子越しではないあたたかな日差しが身を包み、静雄はきらきらと光るアスファルトの道を駆けて行った。けして臨也の家が嫌だったわけではない。ただ、外に憧れただけだ。だからすぐに帰る。そう思いながら駈け出した。柔らかな風が心地よく、静雄は確かに心を弾ませていた。
だが、その心地の良い陽気は長くは続かなかった。にわかに雨雲が湧いて、一気に風が冷たくなった。振り返っても、自分がどこから来たのか分からない。見知らぬ街で雨に打たれ、静雄は身動きが取れなくなったのだ。不安と寒さのために滲みそうになる涙をこらえながら入り込んだのは、他に人気のない公園だった。
雨が降り、緑が濃さを増した茂みのもとに座り込み、静雄は呆然とあのあたたかな晴天が嘘のような暗い色をした空を見上げていた。体が冷えて、指先の感覚が失われる。ただ、あの花の匂いのする家に帰りたかった。
だから、見知った花の匂いがふわりと漂う腕に思いきり掴まれたときは、夢だと思った。冷たい雨の中で見ている夢なのだと思ったのだ。だが、静雄の特異な体でさえ痛みを覚えるほどにきつく抱き寄せられて、ようやくそれが現実なのだと信じられた。
「……シズちゃん!」
それは、自分の名前ではない。この男にシズちゃんと呼ばれていたのは、自分ではなかったはずなのだ。それなのに、その呼称に、ずっと我慢していた涙が零れるほどに安堵した。
「臨也」
「どうして、家を出たの」
「……ごめん」
臨也が、静雄を外に連れ出してくれたのなら、こんな行動にはでなかった。だが、いつも腹が立つほど飄々としている臨也が、息をすることさえ苦しい、というような顔をして静雄を抱きしめてくるから、そんなことは言えなかった。ただ、自分の行動がどうしようもなく彼を傷つけてしまったように思えて、静雄は謝罪の言葉を口にした。
「もう、離れないで」
「……いざや」
「もう、どこにも行かないで。俺の傍にいて」
あの家にいたために衣服に移ってしまった花の匂いと、それから雨の匂い。相反するようなそれらの匂いに安堵して、泣きたくなって、静雄は抱きしめてくる臨也の肩に顔を埋めた。
「ごめん、…臨也、ごめん」
もう離れないから。そう言っても、静雄の背に回された手の震えは、止まらなかった。


あれから静雄は、もうこの家を出ようとはしなくなった。臨也は相変わらずこの家を離れるときは鍵をかけていくが、それでも静雄はそれを壊してまで外に出ようとはしない。擦りガラスの向こうに広がる空にも、もう憧憬を抱かなくなった。
静雄は、幼い。その上に外部の様子を知ることができる唯一の手段がテレビに映るものだけなので、知識が偏っているという自覚もある。
それでも、静雄は幼く拙いなりに、自分は臨也という男によって、この場所に閉じ込められているのだと知っていた。あの男が、自分がいなくなることに、どうしようもない恐怖を抱いているのだと、知っていた。あれから随分経った今でも、静雄は自分を抱きしめる臨也の腕の強さと、その震える指先を覚えている。
ただ、もう臨也にあんな苦しげな顔をさせたくないからと、外の世界への憧憬を捨てた自分の想いだけは、未だに理解できてはいなかったが。



冷蔵庫に入れられたプリンをもそもそと食べて、夜になるのを待つ。臨也の仕事はやはり早く終わることはなかったらしく、就寝時間と言い渡されていた夜の十時になっても、臨也が帰宅する気配はなかった。静雄は就寝時間となっても自室には戻らず、リビングのソファで過ごしていた。
このリビングは、とりわけ花の匂いが濃くて静雄には好ましい。静雄の部屋にも花は飾られているが、静雄はこのリビングが好きだった。帰宅した臨也が、花を抱えて最初に入ってくるこのリビングが、好きだったのだ。
あくびをかみ殺し、リビングのテーブルに突っ伏する。花瓶に挿されたフリージアのやさしい香りがして、静雄は甘えるように小さく鼻を鳴らす。
――ほら、シズちゃん。いい香りだろ?
この花束を抱えて帰ってきたときの、臨也のそんな言葉と、やさしげな顔を思い出し、静雄は瞼を伏せながら、いざや、とその名を呼んだ。

「――シズちゃん」
瞼を開けると、目の前に少し青褪めたような臨也の顔があった。「臨也?」と問いかけると、安堵したような顔をする。
「こんなところで寝てると、風邪引くよ。ベッドに入って寝なきゃ駄目じゃない」
小言を言い始める臨也を無視して、静雄は腕を伸ばし、臨也の首に回す。
「……おかえり、いざや」
臨也が痛みを感じない程度の力でその身体に抱きついて、告げる。この言葉を言いたくて、静雄はずっとこのリビングにいたのだ。臨也は驚いたような顔をしてから、ふっと小さく笑った。「ただいま」

静雄をベッドに寝かせながら、臨也は、今日はカトレアの鉢植えを買ってきたのだと言った。
「本当は切り花にするつもりだったんだけど、花屋が開いている時間には仕事が終わりそうになかったから。だから、遅い時間まで営業しているディスカウントショップに行って鉢植えを買ったんだ」
重たい瞼をした静雄が眠りにつくまでの、ほんの軽い寝物語だったのだろう。
「……どんな花なんだ?」
「うん? ……そうだな、俺が買ってきたのは、薄い紫の花だよ。まだつぼみなんだけどね……良い匂いのする花だから、咲くのが楽しみだね」
一緒に見ようね、と臨也は静雄の髪を撫でながら言う。その優しい感触に瞼を伏せながら、静雄は小さく頷いた。

臨也が花を買ってくるのは、彼がかつてシズちゃんと呼んでいた自分ではない誰か――臨也の腕に傷を残した誰か――ではなく、確かに自分のためなのだと、そう信じていたかった。



この男が、恐らくもういない、自分と同じ名前の男のことが、とてもとても、とても好きだったということは、自身の腕に付けられた傷を愛おしげに見るその表情からとっくに知っていたことだ。それでも、今でもなお消えないその影に、ときどきふと、泣きたくなることがある。
一度、臨也が半そでのシャツを着ていたときに、ちらりと出ていた古傷を見て、その傷をつけた人間は今はどうしているのかと尋ねたことがあった。臨也は一度瞼を伏せてから、小さく笑って、こう答えた。
「俺が殺しちゃった」
「……そうなのか?」
「そう。殺して、がりがり頭から食べちゃった」
そうか、と答えたかった。でも言葉が出てこない。
「……俺のことも、食うのか?」
「どうかな? 君が、俺を置いてどこかに行こうとしたら、食べちゃうかもね」
冗談とも本気ともつかない顔で笑いながら、臨也は言う。静雄は黙ったまま、じっと臨也の顔を見ていた。
「……怖い?」
臨也が尋ねる。静雄は今度ははっきりと、首を横に振った。
「怖くない」
臨也の手をぎゅっと掴みながら、そう答える。それが、けして嘘でも強がりでもないことが、彼に伝わればいい。そう、思った。


(花の家 1)
(2012/05/09)

全3話予定です。






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