ヘヴンリーブルーヘヴン | ナノ


※WEB用にレイアウトを変えています。


 初夏の雨は、柔らかだが決してそれほどあたたかなものではない。どうしてそんな雨に打たれていたのか、臨也には思い出せない。ただ、うまく思考が回らず、頭を冷やそうと思ったのかもしれない。もしくは、柔らかく、さみしく降り注ぐ雨に打たれてみたいと思うような似合わない感傷だったのかもしれない。
 手すりからに手を伸ばして見下ろす、あたりさわりのない校舎と校庭の景観は、臨也がこの高校に入学してから、ずっと変わることはない。そこに配置されているサッカーのゴールなどは何度も静雄によって投げ飛ばされているのに、そのたびに教師や業者の尽力でもとに戻され、今も所定の位置に置いてある。
 この校庭をここから見下ろしているのが、臨也は好きだった。もともと、何かを見下ろしているというのが好きな性分なのだ。だからここから、静雄が喧嘩をしてあのサッカーゴールを投げ飛ばすさまを何度も見た。
「手に入れられると、思ったんだけどな」
 雨のためか今では誰の姿も見当たらない校庭を見下ろしながら、苦く笑ってひとりごちる。あの眩い金髪の男を、思うままに動かすことができるようにするはずだった。今だって、状況は決して悪くなっているわけではない。静雄は臨也に対する嫌悪や敵愾心を薄め、多少なりとも信頼してきている気配がある。今の静雄なら、思うままに動かすことは、けして難しくはない。それなのに、違う、という違和感が大きくなるばかりだ。
 欲しかったのは、あれではない。
「……ノミ蟲? 何してんだ」
 瞼を伏せていたら、そんな声が掛けられる。瞼を開けると、それまで思い描いていた男が、屋上に続くドアを開けて立っていた。雨音に邪魔されて、静雄が扉を開けた音は耳に届かなかったらしい。臨也は苦笑を深める。今どうしようもなく、会いたくなかった男だ。
「……やあ」
「気でも狂ったのか」
 すでに生徒もほとんど帰った放課後に、わざわざ屋上に出て遮るものなく落ちてくる雨に身を打たれている自分は、確かにおかしくなってしまったのかもしれない。そう考えて自嘲する。最近は、自嘲してばかりだ。
「考え事をしてただけだよ」
「こんなところでか」
 静雄は怪訝な顔で近づいてくる。
 こんな風に、この猛獣のような男が、何の警戒もなく近づいてくるようになった。これを望んでいたのは、臨也のはずだった。
 臨也は、降り注ぐ雨の中、一歩、また一歩と近づいてきた静雄の腕をがしりと掴む。すでに衣替えがすんだ今、静雄は半そでのシャツしか着ていなかったので、自然、直接肌に触れることになった。
 臨也の指と静雄の腕が触れ合った瞬間、静雄は、まるで瞬時に走った痛みをこらえるような顔をしたが、それ以上に嫌がることはしない。
 随分と飼い馴らされたものだ、と嘲笑したいのに、うまくいかない。必死に嘲笑を作ろうとしたから、きっと歪んだ笑みになってしまっていただろう。
「シズちゃん、……俺の肌はもう、怖くはない?」
「……臨也?」
「ねえ、俺は君にとって」
 濡れた指先できつく静雄の腕を握りしめる。体のつくりが人の粋を外れている静雄に、臨也の力が痛みをもたらすことができたかは分からない。ただ、静雄が痛みを感じればいい。何故かそう思った。
 俺は君にとって。臨也は、唐突にそこで言葉を切る。自分が何を言おうとしていたのかを改めて悟って、驚きを通り越してやはり自嘲しか出てこなかった。臨也は静雄の腕を離す。
「なんでもないよ。……雨、やみそうにないね。ほんと、梅雨って嫌な時季だよ」
 じめじめするばっかりだ。臨也は軽い調子でそう言ったが、静雄は眉根を寄せ、怪訝な顔をしている。
「臨也。どうか、したのか」
 その声を聞いて、臨也は唇を噛む。空気の読めない人間は、これだから嫌なのだ。
「梅雨がいやだってだけの話だよ。ああ、でも、この梅雨が明ければ、夏がくるね」
 そうしたら、一緒に海に行こうか、と臨也は言った。静雄は困惑した顔のままだ。臨也は調子を取り戻して、唇を開く。「ねえ、海に行こうよ」
 君が見たいと言っていた海に。
 甘い声でそう言いながら、きっとこの自分の言葉はかなえられないだろうと臨也は自分で知っていた。言葉が途切れ、雨音が聞こえるばかりになった空間で、臨也はまた瞼を伏せる。静雄は何も答えない。
 雨に打たれながら、澄んだ色をした夏の海を想像する。どこまでも続くような、涼やかな青い海。恐らくそこは、たどり着けない楽園だ。

 臨也はその時すでに、この世界が終わる音を、遠くで聞いていた。


(中略)


 トムがごそごそと携帯電話を取り出す。その仕草を見て、静雄もそれまで存在を忘れかけていた携帯電話をポケットから取り出した。そのディスプレイを見て静雄は初めて、着信記録があることに気づいた。
 誰からだ、と見てみて、静雄は動きを止める。着信があったのは、今から約二十分ほど前のようだった。ちょうど債務者の男と逃走劇を繰り広げているときだったので、着信になど気づかなかったのだろう。
 ディスプレイに表示されていたのは知人の名前ではなく、十一桁の数字だった。携帯電話の連絡帳には登録されていない番号からの電話らしい。
 その味気ない番号に、しかし静雄は見覚えがあった。自分からもかけたことがある番号だ。脳裏に、黒髪の男の姿が浮かぶ。
 しかも着信だけではなく、どうやらメッセージが残されているようだった。静雄は他に人気のない路地裏で電話しているトムを見る。今日の回収は特段変わったことはないように思ったが、何か話し込んでいるらしい。まだ電話を終える気配はなかった。
 それを確認して静雄は少し先の路地を曲がり、誰もいないことを確認して、メッセージを再生させるボタンを押した。
『やあ、今日も元気に化け物やってるかい?』
 第一声は、そんな言葉だった。
 静雄は苛立ちのあまり、思わず耳にあてていた携帯電話を握りつぶしてしまうところだった。それを抑えられただけでも、ずいぶんと成長したものだと自分を褒めてやりたい。聞いてられるか、とメッセージを消しかけたが、続いた声に、静雄は動きを止める。
『昨日、君との電話を切ったあと、君の夢を見たよ。……勝手に夢に出てくるとか、迷惑な話だよね』
 電話越しに聞く臨也のそんな声は、耳を澄まさなければうまく聞こえないほどに静かだ。電波の状態がよくなかったのか、ずっとノイズが混じっている。
『夢の中で君はまだあの頃の、……人にも猫にも触れることを怖がっている高校の頃の、おびえた顔をしていた。懐かしくて、俺にとっては呪わしい夢だよ』
 その声があまりに穏やかなので、静雄は怒ることを放棄して、耳を澄ます。
 なぜか目眩のようなものを感じて、路地に立つビルの壁に背を預けていると、池袋の街に広がる空が、夕日に染まっているのが見えた。青に赤みの強い橙が混じりあっている。静雄は瞼を伏せる。ざ、とノイズが聞こえた。それに混じるような声で、臨也は言葉を続けた。
『でも、ねえ、不思議なものだね、シズちゃん。……俺は君とあの日たどり着いた、あの海よりもきれいな海を見たことがない』
 そんな言葉を告げたすぐ後で、別の人間の声が入っていた。それは臨也のいた場所のすぐ近くで発せられたものではないらしく、何を言ったのか明瞭には聞き取れない。しかし何か、せっぱ詰まった怒声のような印象を受けた。おそらく、それなりに離れた距離にいた人間が発したものだろう。電話の向こうの、静かな雰囲気が一気に変わったのを感じた。臨也が小さく舌打ちをしている。
『じゃあ、またね。シズちゃん』
 メッセージは、そんな言葉で締めくくられていた。一体何の為に静雄に電話をしてきて、わざわざメッセージを残したのかわからないし、しめかたもいささか急な印象を拭えない。何か危急の事態が発生して急ぎ切ったのだということが伝わってきた。
 臨也は昨夜の電話で、あの海のことは忘れたい記憶だ、と言った。話すことはない、と。それなのに今になって臨也は、きれいな海だと言っていた。何を思ってそんなことを言ったのか、静雄にはわからない。
 メッセージの再生が終了しました、と告げる携帯電話を
閉じて、静雄は再び夕日に染まった空を見上げる。あの日ふたりで見たのも、見事な夕日に染まる海だった。日本海の、あの言葉にすることができないような深く美しい群青の海に沈んでいく太陽を、今でも鮮やかに思い出せる。
 その日の記憶をほんのわずかに蘇らせて、静雄ははっと握ったままの携帯電話を見る。臨也からのメッセージが再生されている最中、ずっとノイズが聞こえていた。ざ、と近く遠く、耳に残る音だ。
 静雄はもう一度携帯電話を取り出して、そのメッセージを呼び出す。臨也の、滅多に聞くことのできないような静かな声の向こうで、ざ、ざざ、と耳に残るその音が聞こえ続けている。そのときになってようやく静雄は、それが、電波状態によるノイズではないことに気づいた。――波音だ。
 再度聞くと、やはりメッセージの後半に別の人間の声が入っている。『いたぞ!』と言っているように聞こえた。
 静雄が今聞いたものは、二十分前の臨也の声だ。その後の臨也に、何が起こったのかは知りようがない。今この番号に電話をかけなおしてみたところで、通じるとは思えなかった。
「静雄? こんなとこにいたのか。何してんだ?」
 携帯電話を手にしたまま固まっていたところで、ひょいっと角からトムが顔をのぞかせた。
「あ……、すんません。電話、終わりましたか?」
「ああ。悪かったな、話し込んじまって。回収に当たってた他の社員がなんかポカやったらしくてよお、愚痴られた」
 だがそちらももう片は付いたらしく、今日は回収した金額を送金すれば、事務所には寄らずに帰っていい、と言われたらしい。
「だからもう帰ろうぜ。……って、静雄? お前、本気で具合が悪いのか?」
「いや、全然」
「顔色悪ぃぞ」
 そんなことはない、と返したいのだが、余裕がないことは自分でも理解している。
 昨夜の電話で臨也は、粟楠会のもとに行く、と言っていた。静雄は黒寄りグレーの企業できわめて黒に近いような仕事をしているが、いわゆる反社会的組織との関わりはない。だがそんな静雄でも、臨也の思惑で粟楠会とは揉めたことがあるし、かなりの力を有する組織で、臨也とよくつるんでいる、ということは知っていた。
 臨也の計画通りにことが運んでいるのなら、今になってあんな、余裕のない電話の切り方をしたりはしないだろう。静雄は、昨夜の新羅が身にまとっていた血と潮の匂いを思い出す。あのメッセージの向こうからも波音が聞こえてきていたということは、昨夜からあまり動いていないのかもしれない。
「トムさん。粟楠会って、海の方にも勢力ありますか」
「あ? どうした、突然」
「いや、ちょっと気になって」
「はあ? ……静雄おまえ、またあそこと揉めたのか?」
 もうやめとけよ、と心底心配そうにトムが言う。静雄は首を横に振った。
「そうじゃないっすけど」
 少なくとも今の静雄にはそんな記憶はない。何故か裏社会にやけに詳しい上司は、顎に手をあてて考えてから、答えた。
「あそこはこの都心に根付いてるからなあ。太平洋側にしろ日本海側にしろ、ここから離れたところには無関心だと思うぜ」
「そうっすか」
 そうすると、やはり臨也が揉めている相手は粟楠会ではないのだろう。
「海っつうか、最近日本海側で力を持ってるのは、ムショ帰りの何とか言う組長さんが中国マフィアと手を組んで作った組織だな」
 ムショ、という言葉に、静雄は顔を上げた。
刑務所に入れられた暴力団のトップを、静雄は一人、知っている。臨也が関わっていた抗争で破れた暴力団の組長で、相当臨也を恨んでいたはずだ。静雄も、関わったことがある。
 その男だという証拠はなにもない。刑務所に入れられている暴力団の組長も、おそらく他にもいるだろう。だが、妙に嫌な予感がした。
 どうしてあの日、臨也は唐突にあの海について告げたのか、ずっと気になっていた。もし臨也が再びあの組長に関わることになったとすれば、それによって過ぎ去ったあの日のことを唐突に思い出したのだと考えられないだろうか。
 これ以上は、いくら静雄が考えたところで答えは出ないだろう。
「なんかその辺絡みで厄介なことになってんのか?」
「……いや、そんなことないっすけど」
 少なくとも現時点の静雄は、厄介ごとに巻き込まれてはいないはずだ。恐らく臨也は、本格的に何か厄介なことに巻き込まれてはいるのだろうが、それは静雄には波及していないようだし、臨也も関わるなと言っていたので、静雄を巻き込むつもりはないのだろう。
「それにしちゃあお前、深刻な顔してるぞ」
 そうだろうか、と静雄は思う。臨也のことで、どうして静雄が深刻にならなければならないのだろう。ここ数日ずっと過ぎ去った日々に囚われているが、現在において臨也は静雄にとって百害あって一利もない。それなら、臨也のことを気にする必要はない。静雄にとって今の事態は、けして深刻なものではないはずだ。
 それなのに、こうも気にかかってしまうのは、臨也が今日になってあんな電話をかけてきたせいだろう。あの野郎、という怒りがわくが、それは長続きすることはなかった。
 ――俺は君とあの日たどり着いた、あの海よりもきれいな海を見たことがない。
 その声に普段のあの怒りを煽るような嘲りや皮肉はかけらも見当たらなかった。ノイズのような波音が聞こえてくる中で、どこまでも静かな声だった。
「……おーい、静雄?」
 呼びかけられて、静雄はようやくはっと顔を上げる。夕闇の落ちる路地裏で、トムが静雄の顔を覗き込んでいた。
「あ、……すんません」
「いいって。お前何か、気になることあるんだろ」
 分かりやすいよな、とトムは苦笑している。
「……そっすか?」
「ああ。出会ったばっかの頃から、困ったことがあるとすぐに顔に出るタイプだったな。あの頃はお前、こんなに小さくてなあ。こんなにデカくなるなんてトムさん聞いてねえよ」
 このくらい、とトムは自分の腰の位置あたりを手で示す。トムと出会ったのは中学一年の頃なので、さすがにそんなに小さいはずがないが、確かにその頃はトムよりは背も随分と低かった。十代半ばに差し掛からないような静雄にとっては、ふたつ年上、というだけでも、トムは十分に大人に見えた。
 トムは懐かしそうな顔をしてから、ふと真顔に戻った。
「ああでもお前、俺が高校に入った頃からしばらくの間、随分暗い顔してたな。その辺で会ってもずっと硬い顔してて、あんま近づいてこねえし」
 あの頃はちっと寂しかった、とトムは言う。静雄が人との接触を絶っていた頃だろう。
トムが中学を卒業した後や、その後静雄が来神高校に入ってからも、トムと静雄は時折道端で会ったりしていたし、トムの家に行ったこともある。その頃でも、トムは静雄にとって、唯一信じられる優しい先輩だった。だからこそ余計に、自身の力を制御できない静雄は、トムには触れないようにしていたという自覚もある。
「それからちょっと経って……俺が高校を卒業して結構経った頃か? やっぱり久しぶりにお前に会ったら、お前、雰囲気変わってて安心したな。俺にも近づいてきたし」
「……それは」
 恐らく、静雄が高校三年の夏以降のことなのだろう。あの頃から、少しずつだが他人に触れられることにも、触れることにも身構えないようになった。そのきっかけがなんだったのか、静雄はたぶん、気付いている。
「トムさん」
「ん?」
 言いたいことを言い終えて、懐から煙草を取り出そうとしているトムに声を掛ける。不思議そうな顔をしているトムの腕に、自分の手を伸ばしてみた。
「え? え? え? な、何だ?」
「いや、ちょっと。……すんません」
「えええ……?」
 困惑するトムの腕に、指で、触れる。
 ――指先に、力入れないで。ただ体を動かせばいい。
 ――大丈夫だから。
 耳に、そんな言葉が蘇った。夕闇の落ちた路地裏で、静雄は瞼を伏せる。かすかな波音が、聞こえたような気がした。

 忘れていたわけではない。ただ、敢えて意識しないようにしていただけのことだ。
 静雄に人への触れ方を教えたのは、確かに、臨也だった。


(ヘヴンリーブルーヘヴン サンプル2)






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